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昨日、最後の沖縄の旅~たましぬぎたん!

2012年01月09日

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横浜のtoshi、沖縄本島の旅~プチ完結!

2012年01月06日

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風に吹かれ、いや暴風との死闘の果てに~沖縄の旅

2012年01月03日

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風に吹かれて~続沖縄の旅

2011年12月31日

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風に吹かれて~沖縄の旅

2011年12月28日

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祝 なちぶさー3周年記念

2011年12月25日

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若狭町の地蔵堂~新『球陽外巻・遺老説伝』第16話

2011年12月02日


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『球陽外巻・遺老説伝』第16話

若狭町(わかさまち)地蔵堂(ぢぞうどう)



 (むかし)日秀上人(にっしゅうしょうにん)というお(かた)がいらっしゃいました。そして(ひと)つの御堂(おどう)を、那覇(なは)若狭(わかさ)(まち)建立(こんりゅう)し、木像(もくぞう)地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)をその(なか)安置(あんち)しました。
 そしてその仏像(ぶつぞう)台座(だいざ)である蓮台(れんだい)(した)には、瞬氏(しゅんし)普請(ふしん)したという(かず)文字(もじ)があるため、あるいは瞬氏(しゅんし)がこの仏像(ぶつぞう)寄進(きしん)し、(まつ)って(あが)めた御堂(おどう)ではないかともいわれています。
 (ふた)つの(せつ)(こと)なり、どちらが(ただ)しいのか、(いま)となっては、はっきりとはわかりません。



 
※注や解説

地蔵堂(ぢぞうどう)】~「ぢぞうどう」と()仮名(がな)()ったが、現代(げんだい)仮名遣(かなづか)いでは「じぞうどう」。
御堂(おどう)】~御堂(おどう)()は「アガリヌドー」。「アンシンドーグヮー」とも()う。(えびす)(しん)(まつ)ったお(どう)日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)が、若狭(わかさ)(まち)東町(ひがしまち)建立(こんりゅ)したと()われている。
日秀上人(にっしゅうしょうにん)】~(1503~1577)。真言(しんごん)(しゅう)日本人(にほんじん)(そう)。『琉球(りゅうきゅう)(こく)由来記(ゆらいき)』には、金武(きん)富花津(ふつか/ふっかっ)金峰山(こんごうざん)観音寺(かんのんじ)()てたとある。『球陽(きゅうよう)』には、()()てて妖怪(ようかい)退治(たいじ)し、彌陀(みだ)薬師(やくし)観音(かんのん)三像(さんぞう)(つく)って、護国寺(ごこくじ)奉安(ほうあん)したなどとある。日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)は、(しょう)(しん)(おう)時代(じだい)、一五一九(ねん)来琉(らいりゅう)と、茶湯崎(ちゃなざち)牌文(ひぶん)にある。波之上宮(なみのうえぐう)再建(さいけん)(など)功績(こうせき)(のこ)し、(しょう)(げん)(おう)時代(じだい)の、一五六九(ねん)薩摩(さつま)帰国(きこく)した名僧(めいそう)
蓮台(れんだい)】~蓮華台(れんかだい)蓮華座(れんかざ)仏菩薩(ぶつぼさつ)仏像(ぶつぞう)(すわ)る、(はす)(はな)(かたち)をした台座(だいざ)。また、極楽(ごくらく)浄土(じょうど)往生(おうじょう)する(とき)(すわ)る、(はす)()でできた台座(だいざ)。また往生(おうじょう)すればその(うえ)()まれ()るとされる。九等(きゅうとう)階位(かいい)がある。(はす)(うてな)九品(くほん)(うてな)九品(くほん)(はちす)
普請(ふしん)】~普請(ふしん)とは、(あまね)()うとも()み、(ひろ)平等(びょうどう)奉仕(ほうし)(ねが)う、つまりお(かね)労力(ろうりょく)などを提供(ていきょう)する(こと)
日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)について】~琉球(りゅうきゅう)(こく)(もっと)(さか)えていた16世紀(せいき)初頭(しょとう)(だい)尚氏(しょうし)(だい)(だい)尚真王(しょうしんおう)時代(じだい)に、沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)北部(ほくぶ)金武湾(きんわん)富花港(ふっかこう/ふなや)に、一隻(いっせき)小舟(こぶね)漂着(ひょうちゃく)。それを金武(きん)間切(まぎり)並里(なみさと)(そん)若者(わかもの)()つけた。(なか)には、(いき)()()えの、真言宗(しんごんしゅう)僧侶(そうりょ)日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)()っていたという。和歌山(わかやま)(けん)那智(なち)から、西方(さいほう)浄土(じょうど)目指(めざ)しての(たび)だったという。若者(わかもの)は、上人(しょうにん)(ふね)から(たす)()し、お(かゆ)(つく)って()べさせた。やがて元気(げんき)になった上人(しょうにん)が、「ふくらっしゃ(誇らしや)みなと」と()ったために、その()富花(ふっか)というようになったと(つた)わっている。また後日(ごじつ)若者(わかもの)日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)(みず)()ませようと、(ちか)くの(おか)(ふもと)にある(いずみ)案内(あんない)した。上人(しょうにん)はその(みず)()むと、()(みず)だと()った。その()(ちゃ)をたてる(とき)にはその(いずみ)(みず)(もち)いるようになった。そのためその(いずみ)は、「茶井(さーが)」と()ぶようになったという、()う。日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)はまた、自分(じぶん)(たす)けてくれた若者(わかもの)に、(かれ)(いえ)(ちか)くを(なが)れる樋川(ひじゃーがー)(ちな)んで、比嘉(ひが)(せい)(あた)えたと()われている。また日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)()えば、金武(きん)洞窟(どうくつ)()大蛇(だいじゃ)洞窟(どうくつ)(なか)()()め、その(ちか)くに金武(きん)観音寺(かんのんじ)()てた(はなし)は、よく()られているところである。 やがて、日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)()王府(おうふ)(つた)わり、尚真(しょうしん)(おう)()るところとなった。そして、(おう)仏教(ぶっきょう)()となった上人(しょうにん)は、那覇(なは/なーふぁ)()に、彌陀(みだ)薬師(やくし)観音(かんのん)(まつ)護国(ごこく)()()てて、琉球(りゅうきゅう)(こく)(まも)りとした。(さら)に、交易(こうえき)(さか)んだった那覇(なは)(こう)(ちか)くに、後世(こうせい)まで那覇(なは)商人(しょうにん)信仰(しんこう)した夷堂(えびすどう)()て、また那覇(なは)東西(とうざい)湧田(わくた)()に、地蔵尊(じぞうそん)(まつ)った地蔵堂(じぞうどう)()てて、それまで以上(いじょう)に、琉球(りゅうきゅう)仏教(ぶっきょう)(ひろ)めたとされている。日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)はまた、当時(とうじ)那覇(なは)から首里(しゅり/すい)(のぼ)松川(まつかわ)に、妖怪(ようかい)がたくさん()ると()くや、松川(まつかわ)指帰(さしかえ)()に、妖怪(ようかい)退散(たいさん)させるための呪文(じゅもん)()いた石碑(せきひ)()てて祈祷(きとう)し、見事(みごと)成功(せいこう)した。しかし(のち)石碑(せきひ)摩滅(まめつ)してしまい、(なに)()いてあるのかさえ()めなくなったが、それは松川(まつかわ)碑文(ひぶん)()われる。また日秀(にっしゅう)上人(しょうにん)は、浦添(うらそえ/うらすぃー/うらしー)から首里(しゅり)()途中(とちゅう)(おか)にも、妖怪(ようかい)()人々(ひとびと)(こま)らせていると()くと、その(おか)(うえ)に、金剛(こんごう)(きょう)(いし)()いて()めた。そのため、お(きょう)()めた(おか)は、人々(ひとびと)から経塚(きょうづか/ちょうちか)()ばれるようになったと(つた)わっている。
【内容】若狭町地蔵堂のこと。
【原文】昔有日秀上人者建立一堂于那覇若狹町奉安地藏木像于其中然而蓮臺下有舜氏普請數字則舜氏請安此像以爲崇信者也歟二説不合不知孰是


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辻蔵屋敷(つぢんぐわやしき)~新『球陽外巻・遺老説伝』第15話

2011年12月01日


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『球陽外巻・遺老説伝』第15話

辻蔵屋敷(つぢんぐわやしき)



 むかし(むかし)辻蔵(つぢんぐわ)が、那覇(なは)(ひがし)(そん)()()てられました。しかしながら(いま)はもうありません。
 ただかつては、中国(ちゅうごく)からの使節団(しせつだん)冊封使(さっぷうし/さっぽうし/さくほうし)一行(いっこう)がやって()(さい)(かなら)平等所(ひらじょ)という役所(やくしょ)(もう)けられて、ここで野菜(やさい)(ぶた)山羊(やぎ)(など)保管(ほかん)して、それらを中国(ちゅうごく)使節団(しせつだん)人々(ひとびと)毎日(まいにち)(わた)場所(ばしょ)となっていました。



 
※注や解説

辻蔵(つぢんぐわ)】~原文(げんぶん)には「一藏」とあり、(くら)役所(やくしょ)名称(めいしょう)。ここに(つく)られた(くら)辻蔵(つぢんぐわ)という。
冊封使(さっぷうし/さっぽうし/さくほうし)】~(みん)(くに)(たい)して琉球(りゅうきゅう)(こく)は、2(ねん)に1()進貢(しんこう)(※貢ぎ物を献上)を(おこな)った。というのも進貢(しんこう)により、反対(はんたい)(みん)からのお(かえ)しがその数十倍(すうじゅうばい)だったため。また、琉球(りゅうきゅう)(おう)交代(こうたい)(とき)には、(みん)から冊封使(さっぷうし/さっぽうし/さくほうし)といわれる使節団(しせつだん)がよこされた。この来訪(らいほう)琉球(りゅうきゅう)(こく)にとっては、王朝(おうちょう)最大(さいだい)行事(ぎょうじ)。この冊封(さっぷう/さっぽう/さくほう)式典(しきてん)のために、(やく)500(にん)にのぼる(みん)使節団(しせつだん)が、およそ200(にち)あまり琉球(りゅうきゅう)滞在(たいざい)。その(とき)宿泊(しゅくはく)施設(しせつ)天使館(てんしかん)天使(てんし)とは冊封使(さっぷうし/さっぽうし/さくほうし)のこと。琉球(りゅうきゅう)(がわ)は、この滞在(たいざい)期間(きかん)のもてなしに大変(たいへん)(こころ)(くだ)き、準備(じゅんび)段階(だんかい)から非常(ひじょう)(ちから)(そそ)がねばならず、また莫大(ばくだい)費用(ひよう)王府(おうふ)財政(ざいせい)圧迫(あっぱく)した。
平等所(ひらじょ)】~本来(ほんらい)は、琉球(りゅうきゅう)王府(おうふ)における、(おも)専門(せんもん)裁判所(さいばんしょ)のような(ところ)。この(ぶん)では辻蔵(つぢんぐわ)をいう。
【内容】那覇東邑の辻蔵のこと。
【原文】往昔之世設建一藏于那覇東邑之地而今已廢焉但□天使來臨時必設立平等所以收蔬菜猪羊等物毎日爲給與中國人之處


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牛町(うしまち)~新『球陽外巻・遺老説伝』第14話

2011年11月30日


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『球陽外巻・遺老説伝』第14話

牛町(うしまち)



 むかし(むかし)のこと、那覇(なは)西村(にしそん)に、()てて()かれたような、(ひと)つの(おお)きな(いし)がありました。
 田舎(いなか)(ひと)で、(うし)()ろうとする(ひと)たちは、(かなら)ずここにやって()て、(うし)をこの(いし)(つな)いで、売買(ばいばい)をしていたそうです。
 そんなわけで、この()には牛町(うしまち)という()がつきました。また、(うし)(つな)(いし)は、今日(こんにち)(いた)ってもなお、あります。



 
※注や解説

()てて()かれた】~原文(げんぶん)には「堅置(じゅち)」とあり、「堅」は「タツ」。「堅置(じゅち)」は、たておくこと。
牛町(うしまち)】~『遺老説伝(いろうせつでん)』が()かれた1745(ねん)(ごろ)(はなし)で、現在(げんざい)那覇(なは)牛町(うしまち)痕跡(こんせき)はなく、(うし)(つな)いでいた(いし)不明(ふめい)関連(かんれん)不明(ふめい)ではあるものの、戦前(せんぜん)西町(にしまち)に、「うしまちざかい(牛町境)」という小路(こみち)があった(こと)確認(かくにん)されている。17世紀(せいき)(はい)って、那覇(なは/なーふぁ)が、首里(しゅり/すい)玄関口(げんかんぐち)(みなと)としての地位(ちい)確立(かくりつ)されると、周辺(しゅうへん)発展(はってん)して、西(にし)(そん)(ふぃがし)(そん)若狭町(わかさまち)(そん)泉崎(いずんざち/いじゅんじゃち)(そん)からなる「那覇(なは)四町(ゆまち)」が市街地(しがいち)として成立(せいりつ)していった。また(ちか)くの久米(くめ)(そん)があり、「閩人(びんじん)三十六(さんじゅうろく)(せい)」、通称(つうしょう)久米(くめ)三十六(さんじゅうろく)(せい)が、中国(ちゅうごく)福建省(ふっけんしょう)などからやって()定住(ていじゅう)したので、那覇四町(なはゆまち)久米(くめ)(そん)中心(ちゅうしん)として、那覇(なは)発展(はってん)(つづ)けた。
(うし)】~現在(げんざい)沖縄(おきなわ)では(うし)より(ぶた)のイメージが(つよ)い。内地(ないち)(ぶた)は、野生(やせい)(いのしし)(つか)まえたものか、飼育(しいく)されていた(ぶた)かは、よくわかってはいないものの、弥生(やよい)時代(じだい)(すで)(ぶた)の食(しょくよう)(はじ)まったことを(しめ)(ほね)出土(しゅつど)している。琉球(りゅうきゅう)でも、()んだ(ひと)()べる習慣(しゅうかん)(あらた)めさせるため、(ふる)くから(ぶた)輸入(ゆにゅう)され、飼育(しいく)されて食用(しょくよう)になっていたようである。1385(ねん)渡来(とらい)したとされる黒豚(くろぶた)のアーグ(※アグーとも。島豚、シマウヮー)が、最近(さいきん)(とく)流行(りゅうこう)しているが、沖縄料理(おきんわりょうり)(ぶた)(もっと)重要(じゅうよう)食材(しょくざい)であるのは、(うたが)余地(よち)のないところである。しかしながら、17世紀(せいき)以前(いぜん)琉球(りゅうきゅう)では、(ぶた)ではなく、(うし)がその()()めていた。この(はなし)もまた、それを裏付(うらづ)けている。羽地(はねじ)朝秀(ちょうしゅう)唐名(からな)向象賢(しょうしょうけん)改革(かいかく)により、(うし)食用(しょくよう)禁止(きんし)されて、その()冊封(さくほう/さっぽう)使節団(しせつだん)接待(せったい)のため、王府(おうふ)により(ぶた)大量(たいりょう)生産(せいさん)奨励(しょうれい)された(こと)などもあり、それ以来(いら)琉球(りゅうきゅう)沖縄(おきなわ)では、豚肉(ぶたにく)牛肉(ぎゅうにく)()わる存在(そんざい)となった。(はなし)がそれて余談(よだん)になるが、本州(ほんしゅう)は、北海道(ほっかいどう)沖縄(おきなわ)からは「内地(ないち)」と()ばれてきた。また、北海道(ほっかいどう)本州(ほんしゅう)四国(しこく)九州(きゅうしゅう)沖縄本島(おきなわほんとう)(いつ)つの(おお)きな(しま)は、それらを(のぞ)いた(しま)から「本土(ほんど)」とも()ばれてきた。その一方(いっぽう)で、琉球(りゅうきゅう)沖縄(おきなわ)(ひと)は、本州(ほんしゅう)四国(しこく)九州(きゅうしゅう)(ひと)を、「大和(やまと)(ひと)」=「やまとんちゅ」と()んできた。ほかに、馬鹿(ばか)にして見下(みくだ)(とき)の「内地の人」=「ないちゃー」という()(かた)もある。(あやま)った使(つか)(かた)はやめて、(ただ)しい日本語(にほんご)使(つか)いましょう。()らないうちに、(へん)言葉(ことば)()ども(たち)()()まれたら大変(たいへん)です。
【内容】牛町の地名由来のこと。
【原文】自往昔時那覇西邑有一塊石以爲竪置山野之人要賣牛者必來此地而繋牛此石以爲買賣故名此地曰牛町繋牛之石至今猶存


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鉄縄礁(てつじょうしょう)~新『球陽外巻・遺老説伝』第13話

2011年11月29日


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『球陽外巻・遺老説伝』第13話

鉄縄礁(てつじょうしょう)



 むかし(むかし)のこと、那覇(なは)屋良佐城(やらざぐすく)(した)に、一つの鉄縄礁(てつじょうしょう)がありました。
 かつてはそれは、海賊船(かいぞくせん)来襲(らいしゅう)(おそ)れて、その防御(ぼうぎょ)のために(つく)られたもので、いつも(てつ)(なわ)をこの岩礁(がんしょう)(つな)ぎ、(まえ)もって、もしもの(とき)(そな)えとしていました。
 かくして、その(てつ)(なわ)は、近世(きんせい)になるまで、親見世(おやみせ)(くら)にあったそうです。



 
※注や解説

屋良佐城(やらざぐすく)】~(ただく)しくは屋良座森城(やらざむいぐすく)。「屋良佐城(やらざぐすく)」は、那覇(なは)(こう)南岸(なんがん)にあり、北岸(ほくがん)三重城(みーぐすく)(とも)に、(しょう)清王(せいおう)時代(じだい)の一五五一(ねん)に、倭寇(わこう)海賊(かいぞく)撃退(げきたい)のために(つく)られた(しろ)。1906(ねん)4(がつ)那覇(なは)()編入(へんにゅう)される小禄(おろく/うるく)(そん)垣ノ花(かきのはな)にあった。戦後(せんご)から(いま)でも米軍(べいぐん)桟橋(さんばし)として使用(しよう)されているため、所在(しょざい)すら判明(はんめい)(にく)い。そもそも首里(しゅり)王府(おうふ)時代(じだい)三重城(みーぐすく)屋良佐城(やらざぐすく)は、那覇港(なはこう)発展(はってん)(ともな)って、本文(ほんぶん)にもあるように(くに)防御(ぼうぎょ)として整備(せいび)されていった。貿易(ぼうえき)拠点(きょてん)となる(みなと)歴史(れきし)は、琉球(りゅうきゅう)(こく)時代(じだい)(とお)して、牧那渡/牧湊(まきみなと)(とまり)(※天久の港)、最後(さいご)那覇港(なはこう)へと(うつ)っていった。そして、交易(こうえき)活発(かっぱつ)になるにつれ、倭寇(わこう)海賊(かいぞく)(なや)まされるようになり、対策(たいさく)として那覇港(なはこう)()(ぐち)両岸(りょうがん)に、三重城(みーぐすく)屋良佐城(やらざぐすく)(きず)かれ、ここから(てき)攻撃(こうげき)すると(とも)に、(てき)湾内(わんない)への侵入(しんにゅう)(てつ)(くさり)(ふせ)いだ。島津(しまづ)(はん)最初(さいしょ)にやって()(さい)も、侵入(しんにゅう)()()めている。島津(しまづ)(はん)はここからの上陸(じょうりく)(あきら)め、(ほか)(まわ)らざるを()なかった。(みなと)に、海賊船(かいぞくせん)()れないために、小島(こじま)小島(こじま)(あいだ)を、(てつ)出来(でき)(くさり)にせよ(なわ)にせよ、(うみ)(なか)()ったわけで、時代(じだい)から(かんが)えると、(たと)実物(じつぶつ)がどんな(もの)であったにせよ、それは琉球国(りゅうきゅうこく)(ちから)(しめ)象徴(しょうちょう)であったと想像(そうぞう)できる。またそれを()琉球(りゅうきゅう)人々(ひとびと)が、どんなに安心(あんしん)し、また(くに)(ほこ)りに(おも)ったかが、この(はなし)から(つた)わってくる()個人的(こじんてき)にはする。那覇港(なはこう)はいうまでもなく、14~16世紀(せいき)にかけ、(ひがし)アジア屈指(くっし)貿易港(ぼうえきこう)であった。
親見世(おやみせ/うぇーみし)】~現在(げんざい)那覇(なは)()東町(ひがしまち)にある地名(ちめい)琉球(りゅうきゅう)王府(おうふ)時代(じだい)貿易(ぼうえき)事務(じむ)(てつづ)きを(おこな)う、「うぇーみし(親見世)」という役所(やくしょ)があったのでその()がついた。それは時代(じだい)(うつ)()わりと(とも)に、役目(やくめ)はじめ様々(さまざま)なものに()わっていったという。地名(ちめい)としての名残(なご)りでは、(たと)えば、路面(ろめん)電車(でんしゃ)駅名(えきめい)見世の前(みせのまえ)」がある。(いま)医師会館(いしかいかん)(あた)りで、その地域(ちいき)説明(せつめい)()きなどがある。また、「見世の前大綱(みーしぬめーうーんな)」という、親見世前(おやみせまえ)(とお)りで(おこな)われた大綱引(おおつなひき)きは有名(有名)だった。そもそも戦前(せんぜん)まで「那覇(なは)綱引(つなひ)き」は、年度(ねんど)によって、(おこな)場所(ばしょ)(ことな)っていた。親見世前(おやみせまえ)通堂(つうどう/とんどう)大通(おおどお)り、(つじ)中道(なかみち)若狭町(わかさまち)馬場(ばば)(おこな)われたという。
尚清王(しょうせいおう)】(1497~1555/在位1527~1555年)第二(だいに)尚氏(しょうし)王朝(おうちょう)第四代(だいよんだい)国王(こくおう)
【内容】屋良佐城下の鐵繩礁のこと。
【原文】往昔之世那覇屋良佐城下有一鐵繩礁嘗恐賊船來至常繋鐵繩于此礁以爲頂備而其鐵繩至于近世藏在于親見世


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