島立て加那志 ~琉球沖縄の伝説

2010年11月05日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(0)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第24話。


島立て加那志(がなし)



 島には、朝戸(あさと)神社というのがあります。
 そこに(まつ)られている神は、朝戸瀬戸という男神(おのかみ)と、万の瀬戸という女神(めのかみ)夫婦神(めおとがみ)ですが、この二神(にしん)は、元々(もともと)兄妹(きょうだい)で、沖縄に住んでいたところ、ある時、漂流中(ひょうりゅうちゅう)夫婦(めおと/ふうふ)となって喜界島(きかいじま)(なが)()いて、そこに住むようになったということです。
 また、手久津久(てくづく)村の開祖(かいそ)と言われ、村では、島立(しまだ)加那志(がなし)と呼ばれて(たっと/とうと)ばれてきました。(はか)もあり、朝戸氏()を名のる子孫(しそん)もいらっしゃって、普通(ふつう)の人であったのが神になったとも言われています。
 また(べつ)()(つた)えもあり、朝戸瀬戸は(りょう)(かみ)で、ニーヤ(龍宮)の神の弟だとも言われます。朝戸瀬戸は、元々(もともと)漁労(ぎょろう)生活を(いとな)んでいたところ、それだけでは()べてゆかれないため、水と農地を求めて移動するうちに手久津久(てくづく)辿(たど)()き、朝戸神社の(あた)りを中心にして、島立てしたとも言われています。
 なお、手久津久(てくづく)村の背後(はいご)山林(さんりん)の中には(いずみ)があって、人々がその泉に近づくことは禁忌(きんき/タブー)とされてきました。それはまた、島にとって大切な水源の林を保護して守るためであったとも言われています。
 朝戸神社の祭礼(さいれい)の日は八月十五日で、その早朝(そうちょう)に、神が海上(かいじょう)白馬(はくば)(またが)って来臨(らいりん)するとされてきましたが、それを見た者は死ぬとされ、前田(なにがし)の母という人がこれを見て、()もなく病気にかかって亡くなったそうな。


 
※この話の参考とした話
奄美・鹿児島県大島郡喜界町手久津久~『喜界島の民俗』
奄美・鹿児島県大島郡喜界町手久津久~「奄美・沖縄民間文芸研究」第七号
同上~(同上)
同上~(同上)
同上~(同上)
同上~(同上)
同上~(同上)
同上~(同上)


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.


●伝承地
奄美・鹿児島県大島郡喜界町手久津久~部落内に朝戸神社というのがある。祭神は朝戸瀬戸・万の瀬戸という夫婦神である二神はもと兄妹で、沖縄に住んでいたが、漂流中に夫婦となり、喜界島に流れついて住みつくこととなった。手久津久村の開祖といわれ、同部落では島立て加那志といって尊んでいる。墓もあり、朝戸氏を名のる子孫も現存しているから、普通の人間であったに相違ない。ところが別の言い伝えもあって朝戸瀬戸は漁の神で、ニーヤ(竜宮)の神の弟だともいわれている。それで、ある人は朝戸瀬戸はもともと漁労生活を営んでいたが、それだけでは食べて行かれないので、水と農地を求めて移動し、手久津久に来て、現在の朝戸神社付近を中心に島立てしたのではないだろうかといっている。部落背後の山林中には泉があるが、一般の人はその水口に近づくことは禁忌とされた。迷信を利用する水源林保護の一策であったかも知れない。朝戸神社の祭礼日は八月十五日で、その早朝、神は海上を白馬に乗って来臨するが、これを見た者は死ぬといわれ、前田某の母がこれを見てから間もなく病気になって死んだといわれる。(『喜界島の民俗』)
奄美・鹿児島県大島郡喜界町手久津久~ウナリ・イヒリできてこの部落を建てたという。ハマンカーに上って、デーバヤーに暮し、骨はそこに埋め、位牌は神社に入れて拝んでいる。(「奄美・沖縄民間文芸研究」第七号)
同上~沖縄から逃げてきた兄妹が夫婦になって井戸の中で生活していた。魚釣りが好きであったが、イカ、タコが邪魔したので、この神社の付近はイカ・タコを持って歩かれない。井戸は三ケ月みたいで、オミヤにある。デーバヤにあったのを終戦後こっちにお供してきた。(同上)
同上~沖縄の人が島流しになった。同情した妹が一緒に舟にのってきた。着いた場所がハマンカー。そこから山手に向っていった、そこがデーバヤ。部落に移ってきた。兄妹夫婦になって、この部落はその子孫であるという。(同上)
同上~沖縄の朝戸、瀬戸という兄妹が戦いで殺されそうになったのを船作る爺さんが丸木舟作って錨をつけ、一ケ月分の物を入れて島流しにした。手久津久の拝み岩に錨がかかり、風のためにハマンカーに流れてきて二つに割れた。デーバヤに松の木がたっていて、そこまで二人ではってきた。沖縄から追っ手がきたので二人は井戸に隠れて命を助かった。(同上)
同上~兄妹がウツワ舟で流されてきて、デーパヤという山で暮していて、朝戸瀬戸に移り住んだ。井戸が二つあり、上の方を兄妹が下の方を供のものが使っていた。沖縄から追っ手がきたので二人は井戸に隠れて助った。手久津久のシマを作った。(同上)
同上~戦争で沖縄からの兄妹二人が井戸に隠れていた。兄妹二人で手久津久を建てた。(同上)
同上~沖縄から三人の兄弟とも、二人の女と一人の男の兄弟が流され、最初に城久に流れてきた。城久に兄弟と四・五名の連れがおった。兄は大朝戸、中は城久に、その弟が手久津久にきた。これが兄妹で夫婦になり、シマを建てた。これらの三人は海にくわしい方であった。(同上)


同じカテゴリー(琉球沖縄の伝説・奄美編)の記事

コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
琉球沖縄の伝説・奄美編」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法