てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 伝説・歴史・雑学・言い伝え等 › 琉球王国? 琉球国? 正しいのは、どちら?
 琉球王国と琉球国、どちらが正しい呼び方なのでしょうか。

 まずはじめに、個人的に私は「琉球王国(おうこく)」という表現を、なるべく()けてきたことに、お気づきでしょうか。

 それには理由(りゆう)があって、王がいたのですから「琉球王国」という言い回しが、あながち(あやま)りとは言い切れないとは認めながらも、国書はじめ、すべて琉球國(りゅうきゅうこく)なのですから、正しく使ってきたまでのことです。

 間違って書いて、特にそれが沖縄の方や、子ども達に、知らないうちに()()まれでもしたら、大変です。

 現在、あちこちに氾濫(はんらん)する「琉球王国」という言葉には、個人的に強い抵抗(ていこう)を感じざるを()ないわけで、どうしても馴染(なじ)めません。

 正しくは琉球國(りゅうきゅうこく)

 國は、旧字「國」でも、新字「国」でも、かまいません。もちろん国に王は存在し、それは琉球国王です。ですから一見、琉球王国も正しい表記のような錯覚を起こしてしまいがちです。ちなみに、琉球國の政府は琉球王府といいます。

 けれども日本に王様がいた時代を、日本王国と言ったでしょうか。もちろん日本国の王は日本国王です。けれでも日本王国なんて、誰も言わないではありませんか。

 そして何よりも、独立国家だった初期の時代のみはまさに王国だったものの、島津氏の薩摩藩に征服されて支配下に入ってしまいます。対外的には貿易国の体裁をとらせて貿易を続けさせるのが島津の目的であり、思惑です。まさに独立国家として存続している体裁をとらせる事は島津にとって必要不可欠でした。しかしながら内実は、島津による統治国家です。従って、主要な琉球國の時代は、王はいても独立国家とはいえず、琉球は対外的には形式的な王国に過ぎませんでした。

 もっとも、その遥かむかしから琉球では日本語が使われてきましたから、間違いなく琉球は中国ではなく日本です。

 話を戻して、誰が最初に、琉球國を「琉球王国」と言い出したかわかりませんが、少なくとも沖縄の方々だけは、「琉球王国」と使わずに「琉球国」と正しく使って欲しいものです。

 ところで、今まで色々なところでこれから書く内容には、すでに触れてきたものの、このブログで改めて一つの記事にしておくことにしました。

 その内容は、今までの話にも関連するのですが、本題は、以下です。

 他国への体裁(ていさい)上、特に(みん)という国との貿易上、理由があって、琉球國は独立国家の形を長くとりました。それは他国からの強制されてのことです。しかしながら実情は、薩摩藩の島津によって支配された国でした。大切なことは、島津の意見()きには一つも決めらなかったということです。

 一方、島津の琉球征服は、すぐさま琉球から(みん)の国に伝わったものの、やがて琉球に対しては、琉球國が日本に併合(へいごう)されて消滅(しょうめつ)したという認識ではなく、(みん)にも日本にも朝貢する国という認識に変わっただけでした。

 そもそも古い時代から、琉球は、地域地域は特に、日本との交易もまた盛んで、明はそれを知っていたこともあるでしょう。

 それは、徳川幕府、島津氏、琉球國にとって、その後、都合がよいことでした。つまり、琉球が独立国として、(みん)をはじめとする、アジア諸国と広く貿易する国家のように見せることが、何より大切なのでした。

 ちなみに、沖縄以外の人々は、日本史の教科書で教えられた通り、江戸時代、日本は鎖国をして、長崎の出島に限って貿易したと鵜呑みにしています。しかし実際のところは、琉球國を通して、広く貿易しているといえます。もちろん、その貿易は、徳川と島津の管理下での貿易のため、誰もが参加できる自由貿易ではありません。また、島津の琉球統治は、見方は分かれると思いますが、強制がとても強い統治というよりも、歴史や情勢から考えると、当時としては珍しい、(ゆる)やかな間接的な統治だったという方が正しいと思います。またそれは、貿易第一の、(ゆる)やかな統治でした。

 なぜ島津は、そんな間接統治にしたかという理由ですが、これはあくまで個人的な考えであり、今までこれについてほとんど触れてきた人はいないものの、島津からすれば、完全に琉球を統治する負担を考えれば、沖縄本島すぐ横の、与論島までを自分の土地にすることによって、琉球國の首根っこを押さえているのも同然なのであり、琉球國からしても、そう感じたと思います。奄美以外の広い地域については、琉球國に間接的に統治させた方が、都合、良かったに違いありません。というのも、元々、島津が目をつけていたのは、今の沖縄や奄美の資源はじめとする領土なのではなくて、初期琉球國の黄金時代に得ていた貿易による富と利益こそが、琉球征服の目的だったからです。

 ちなみに、首里城正殿から、向かって左側に位置する建物の、二階建ての部分が南殿といい、薩摩の役人との接待所という点を、しっかりと認識する必要があります。

 にも関わらず、初期琉球國の黄金時代とはいかないまでも、島津に支配された長期間に琉球國は独力で、何度か隆盛(りゅうせい)を誇った時期もあるのですから、その素晴らしい偉業がもっと強調されてもおかしくないと、個人的には考えます。もちろんそんな時期には、王府の中心に物凄い立役者がいるわけです。ただそれは、琉球の歴史を学べば知ることが出来るので、敢えてここでは略します。また、誤解のないように付け加えますが、やはり島津に支配された長期間の多くは、やはり琉球國全体にとっても、奄美にとっても、大変に厳しい時代であったことに変わりはありません。

 前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、ここで改めて確認しておきたいのは、そのことではありません。

 ここで確認しておきたいのは、琉球國が、本当に独立国家だった時期と、島津によって事実上、薩摩藩の支配を受けていた時期の、きちんとした認識です。

 これなくして、琉球國の歴史の、正しい認識にはつながりません。

 しかしながら、今までに誰もそれについて多くを語ってこなかった事に、ずっと違和感を感じてきました。

 尚巴志という人物によって、当時、沖縄本島が三つに分かれていたのが(三山時代)、一つに統一されて、琉球國が生まれたことは誰もが知るところです。そして最盛期には、奄美群島、沖縄諸島、先島諸島といった広大な地域を統治しました。

 そして、現在のさまざまな歴史資料には、「1429年から1879年までの450年間、沖縄本島を中心に存在した国」と琉球國が紹介されています。これは、ほぼ間違いありません。もちろん厳密には誤りで、沖縄本島を中心に琉球國が成立していたのは、島津が琉球國を攻めるまでの期間だけのことです。この書き方では、奄美はずっと琉球國のような誤解を受けてしまいます。

  ただここで、しっかり確認しておかなければならない最も重要な点は、「450年間」なのです。沖縄以外の人々は、琉球國が「450年間」、続いたと誤解しているのです。沖縄の人々の中でさえ、最近は、誤解している人も増えてきました。
 
 尚巴志が、南山を滅ぼして琉球を統一したのが1429年のことです。琉球國の誕生です。
 薩摩藩が琉球國を攻めて統治下に置いたのが1609年のことです。
 (それから、奄美は琉球國から切り離され、薩摩藩の直轄地となりました。)
 廃藩置県に従わなかった琉球藩が取り潰されて王統の支配は終わったのが1879年のことです。
 (これを、琉球処分といいます)

 1879年1429年450年間

 琉球國の時代が、450年間というのは、ここから出てきています。

 ただ、ここまでくれば、お気付きの方も多いでしょう。

 1609ー1429=180年間
 1879ー1609=270年間

 つまり琉球國は、最初の180年間は独立した王国で、後半の270年間は島津に支配された国でした。180年と270年ですから、半分以上、島津の支配下にあったのです。

 この認識をしっかり持った上で、琉球國について考えていくのと、450年間続いた独立国として琉球國を考えていくのとでは、かなり歴史観の基本や土台が違ってしまいます。
 くれぐれも、この点には気をつけたいところです。

 あくまで、正しい琉球の歴史観を持つためという、学問的な面から書いてみました。

 いつも、お読み頂きまして、ありがとうございます。




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