75平和の神(へいわのかみ) ~琉球沖縄の民話

横浜のトシ

2010年07月01日 20:20


~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第75話。


平和の神(へいわのかみ)


 むかしむかし八重山の人々は、知恵がだんだんに発達して、住居も一定の決(きま)った場所に住むようになり、そこで生活をするようになっていきました。
しかし一方で、まだその頃は、神様を信心(しんじん)するということを、多くの者が知りませんでした。
 そして武力ある者は、その力(ちから)にものをいわせ、他人の財産や物品を奪(うば)ったり、勢力が強い者の中には、自分に力があるのをよいことに、人を害(がい)し、老人を悔(あなど)り、弱い者をいじめて、酷(ひど)い乱暴(らんぼう)ばかりする者までいました。
 その頃、長男、真種増瑞(またねましず)、二男、那他発(なたはつ)、三男、平川瓦(ひらかわかわら)という、男が3人いる兄妹(きょうだい)たちがおりました。
 この兄妹たちは、揃(そろ)いも揃って、皆(みな)、心の出来(でき)が本当に善い人々でした。兄妹の長男は、石城山(いしすくやま)という所にいて、常日頃(つねひごろ)から神様を信心し、決して無暗(むやみ)に人の道をはずれたことをしませんでした。
 ある寅(とら)の日のこと。
 夜明けの四時頃に、突然(とつぜん)、霊光(れいこう)が射(さ)したかと思うと、平和の神様が、石垣村の宮屋鳥山に出現(しゅつげん)なさいました。そして、真種増瑞の妹に、お託(たく)しになって、こう申されたのでした。
 「神は、人々の父母である。
 それ故(ゆえ)に、人は、神の子である。
 また、人と人とは、お互(たが)い皆(みな)、兄弟であり、礼(れい)を正(ただ)し、互いに親しみ合い、睦(むつま)じく暮らさなければならない。
 ところが、今の世を見れば、親しみ合うどころか、平気で嘘(うそ)ばかりつく者が増え、始終(しじゅう)、争(あらそ)いばかり続けている。
 他人の心を傷つけて何とも感じなかったり、また殺して命を奪ったりと、世の中ではまるで、鳥や獣を殺すように人を殺(あや)めても平気な有様(ありさま)ではないか。
 こんな世の中こそ、神々が、もっとも厭(いと)う状態なのであり、どうしてこんな情けない世になったのかと、心が痛(いた)むばかりである。
 そんな情けない人々ばかりの中にあって、お前だけが、善い心を持ち、また神を信じ、そして人々を真(しん)に愛し、誠(まこと)に善(よ)い行(おこな)い生活を続けていて、大層(たいそう)、神々は、お喜びである。
 そこで、私は、これからこの山にいることにして、お前たちの一生を見守ることにする。」と。
 こう言い終わるなり、風に乗ってどこかに消えてしまわれました。
 このことがあって真種増瑞は、ますます崇信(すうしん)(あつ)くなり、神との出会いを尊(とうと・たっと)い出来事だったと深く感謝し、そこを神嶽(しんごく)としたのでした。
 それから、この山の近くに草の庵(いほり)を結(むす)んで、兄妹そろって暮らし始めました。神様を崇(あが)め、広く世間の人々を愛し、兄弟姉妹は、いつまでも仲よく助け合って生活しました。もちろん家の中はいつも和(なご)やかで、ただの一度も、争いなどありませんでした。
 その後はというと、米や麦など五穀(ごこく)が豊かに実(みの)り、家業(かぎょう)である農業は順調で、日に日に富(と)み栄(さか)えてゆきました。
 それ故(ゆえ)に、他の人々が災厄(さいやく)に会って五穀の出来(でき)が悪く、時には飢餓(きが)に苦しむ者まで中にはいましたが、真種増瑞たちだけは、そんな災厄を受けることは一度もありませんでした。
 世間の人々は思いました。
 これは、真種増瑞が日頃から神様を尊び、兄妹の仲がよい賜(たまもの)であると。彼らを見てそう思う人がしだいにふえていき、また、真種増瑞の徳(とく)に、皆、大層、感じ入(い)るようになってゆきました。そしてさらに、皆、真種増瑞たちが住む近くに、ごく自然に集まって来て住み始め、たちまち村が出来上がっていったのでした。
 今の石垣登野城村がこの村で、この話が村の初めということです。


※註
~『琉球国由来記』に、「宮屋島御嶽(おたけ/うたき)は、石垣村にあり、神名は、神ヲナハレ、御イベ名、豊見タトライ」となっている。
 
※注
【庵を結ぶ】庵をつくる、庵さす、とも。小さな草葺(くさぶ)きの家。
【災厄】(さいやく)災(わざわ)い、災難(さいなん)のこと。
【感じ入る】(かんじいる)すっかり感心(かんしん)する。
【登野城村】(とのしろそん)石垣島。以前の発音では「とぅぬぐすぃく/とぅぬぐしく」など。


Posted by 横浜のtoshi

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