犬と女 ~琉球沖縄の伝説
みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第36話。
犬と女
むかし昔のことです。
宮古島の城辺の砂川という村は、津波の被害を受けたために元島から移動した村であるそうですが、それよりもっともっと前の時代にも、やはり宮古全体に押し寄せた大きな津波があったそうです。
その大津波がやって来た時、アパリパーという山だけは潮に覆われることがなく、たまたまそこにいた一人の女性だけが生き残ったのでした。なおこの女性は犬を夫にしていたそうです。
やがて潮が引いた頃、神が浜にやって来ました。
するとそこに、大きな蛸を頭に載せた犬がいます。神はそれを見て、犬がいるからにはきっと人間もいるに違いないと思い、犬の後をつけて行ったのでした。
そして、一人の女性と出会いました。
神が女性に尋ねることには、
「そなたには、夫がいますか。」と。
すると、女性が答えて言うことには、
「はい。おります。」と。
再び神が女性に尋ねることには、
「その人は何という名でしょうか。」と。
すると、女性が答えて言うことには、
「座ったら高殿、立てば長殿。」と。
それを聞いた神は、それが隣りにいる犬のことだと察するやいなや、犬を殺してしまったのでした。
それを見て女性は涙を流しながら言うことには、
「可哀相に、この犬は私の夫だったのに。」と、それはそれは嘆き悲しんだのはいうまでもありません。
なおその時に、女性が犬を尻に敷いて座ったために、女性には毎月下り物があるようになりました。
さてそれからのことですが、その女性は神と一緒になって夫婦になり、以後、子孫はしだいに増えていきました。
宮古の人は犬の子といわれるのは、この伝説のためなのだそうな。
※この話の参考とした話
①沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~「沖縄民俗」十八号
②沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町友利~『宮古島庶民史』
③沖縄先島・沖縄県宮古郡上野村新里~『上野村の民話』
④沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐和田~『沖縄の昔話』
⑤沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村塩川~『多良間村の民話』
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●伝承地
①沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~昔、砂川部落は、津波の害を受けて元島から移動したのであるが、それより以前にも宮古全体に津波があった。その時、アパリパー(友利の中原の前の山)だけは潮に覆われず、一人の女だけが生き残った。そして、その女は犬を夫にしていたそうである。潮が引いて神が浜にやって来た時、犬が大きなタコを頭にのせて行った。神は、それを見て、犬がいるからには人間もいるだろうと考えて後をつけて行った。そして、その女の所へ行き、「あなたには男がいるか」と聞いた。女は、
「います」と答えた。
「その人の名は何と言うのか」と神が聞くと、「座ったら高殿、立てば長殿」と答えた。それを聞いた神は、隣にいた犬を殴り殺した。女は、
「かわいそうに、この犬は私の夫だった」と言って悲しんだ。その時、犬を尻に敷いて座ったので、女は毎月下物があるとのことである。後に、女はその神と一緒になり、子孫が増えたという。(「沖縄民俗」十八号)
②沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町友利~友利村の東方に、アマリファという峰がある。昔、この辺一帯に大津波があり、村里全部が流されたが、ただ一人の女が難を免れてアマリファに住み、一匹の牡犬と同居していた。たまたま一人の倭人が保良宮渡(みやーど)の浜に漂着、当地を訪れて砂上の犬の足跡を見つけ、犬がいるなら人間もいるだろうと、アマリファの中腹で女と出会った。倭人が女に、夫はいるかと尋ねると、座れば高く立てば低い者がいると答える。倭人は犬であることを察知して、剣を抜いて犬を斬り殺し、女と夫婦となって子孫繁昌したという。そのアマリファの御嶽に、女はアマリ大ツカサ、倭人は「泊主」と称して祀られている。(『宮古島庶民史』)
③沖縄先島・沖縄県宮古郡上野村新里~キャーザには南元島、フウナウファ坂には北元島といって、それぞれ村があったが、津波で全部流されてしまった。たまたま老婆と大きな犬だけが、ツツバラ嶺に登っていて生き残り、それらに子どもができて、バルキヤに来て住んだ。それで宮古の人は犬の子と言われるようになった。(『上野村の民話』)
④沖縄先島・沖縄県宮古郡伊良部町佐和田~昔、大きな犬を養っていて、戦さに連れて行った。その犬のお陰で、負け戦さが勝利に導かれた。帰郷して犬に褒美を聞くと、娘を妻に欲しいという。父親は反対したが、娘自身の希望で夫婦となった。あるとき、夫の犬が、七日間探すなと言って家を出た。犬の妻は心配して探し回り、六日目に茅の中に夫を見つけたが、その姿は尻尾を残して人間の男に生まれ変っていた。その後、二人の間に子どもがたくさんできたが、その子どもたちには、皆尻尾があったという。(『沖縄の昔話』)
⑤沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村塩川~ある所に犬と結婚した女がいた。その犬が祝いの場所などでご馳走を盗むので、ある若者が剃刀で、その犬の腹を切って殺した。それを見て、犬の妻の女は、座ったまま泣いていると、生理が出始めた。これが女に生理が始まった最初という。その後、若者は、その女と結婚して二人の子どもができた。そして、ある日、女は、山に出て家を建てるための材木に印を付けようと夫を誘い、大木を抱えさせて、その両腕に釘を打ちつけ、木の神になれと言って、ひとりで家に戻ったという。(『多良間村の民話』)
●補足〜「明和の大津波」
元号から「明和の大津波」と呼ばれ、「八重山地震」とも。1771年4月24日(尚穆王20年/乾隆36年/明和8年、3月10日<新暦4/24>)午前8時頃に発生した地震と、それによる大津波。推定マグニチュード7.4〜8.7。津波により、先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害を受けた。震源地は、石垣島と多良間島の中間。八重山・宮古(先島諸島)全体では、死者9400人あまり、生存者18607人で、14の村が流され、住民の3分の1が、死亡したとも思われる。八重山諸島のあちこちには今でも、津波石と呼ばれる、600t以上もある海底の岩が陸上に打ち上がっている。琉球の歴史の上で、書物に記録されている地震と大津波は、決して少なくない。「明和の大津波」は、国内観測史上最大とされ、観測が始まって以来の地球規模からも、上から数番目に大きい大津波だったとされている。近年の、福島はじめとする、世界中で大災害を起こした大津波の、何倍も大きかったとされるが、その認識は殆ど誰にもないといえる。例えば、「明和の大津波」の3年前(尚穆王17年/乾隆33年/明和5年、6月9日)の、昼過ぎの大地震では、首里城の城壁の数十箇所が崩れ、建物の被害も多く、王は大美御殿(おおみうどぅん)への避難を余儀なくされた。首里の寺、玉陵、浦添の極楽陵(ゆどれ)はじめとする石垣が崩れ落ち、各所で大きな被害が出た。慶良間諸島の、津波による被害も大きかった。琉球の場合、地震もさる事ながら、それに伴う、津波の被害もまた大きいのが特徴。というのは、地震後に津波が押し寄せ、地震がやんでも、津波が繰り返し押し寄せるためである。小さな津波であれば、島を取り巻くリーフが津波を吸収してやわらげるが、「明和の大津波」級の大規模な津波となると殆ど効果はなく、小さな島や、高い山がない島はひとたまりもない。ましてリーフを埋め立てて破壊して作った港や町や基地は、ひとたまりもない。「明和の大津波」以前にも、沖縄を襲った大地震や大津波の記述が、あるにも関わらず、現在、沖縄県民の多くが全く知らないため、殆ど備えはない。なお「明和の大津波」後、石垣島では、「赤蠅(あかばえ)」の、「うまばえ」と呼ばれる吸血蠅(きゅうけつばえ)が異常発生し、生き残った牛馬にたかって血を吸い出し、やせ衰えさせたり、死に至らしめたが、なす術が無かったという現象が伝わる。しかし、殆どその過去の知識がその後に活かされていない。「明和の大津波」の翌年には、沖縄本島全域はじめ、伊江島や徳之島などの琉球の離島にまで、伝染病「疫気(ふーち)」が大流行。この時代に、流行による病死の場合は、疱瘡(ほうそう/天然痘<てんねんとう>)が多かったようである。「明和の大津波」については、琉球大学理学部・中村衛研究室がよく研究してきており、ぜひ、ネット検索して、学んでおくべきである。
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