羽衣伝説は日本各地に伝わり、民間に伝わる伝承説話、つまり民話として語り継がれてきた多くの昔話の中でも有名な一つといえます。個人的にも羽衣伝説は好きな種類の話です。
日本の羽衣伝説で最も有名なのは、やはり静岡県の三保の松原に伝わる話でしょう。
羽衣伝説は、神々の世界から人間の世界に神が降りる、つまり、「天降り」に分類される話です(天人女房譚とも)。あるいは、天女昇天の説話などとも言います。
その最も古い話となると、『風土記』の逸文、『近江国風土記』と『丹後国風土記』にあります。また、平安時代の中期に書かれた、現存する最古の物語である『竹取物語』、つまり、かぐや姫の物語もまた、天降り、天女昇天の話です。
羽衣伝説は、ときに天女が白鳥と同じと考えられてきたため、「Swan maiden」(白鳥処女伝説)として広くアジアや世界中に話が伝わってきました。
琉球沖縄にもまた、今に伝わる素適な羽衣伝説があります。実に数多くの話があるのを、みなさんはいくつご存知でしょうか。
そこでまず、調べて私が訪れてきた場所を並べてみることにします。
●琉球王朝~2つの伝説
●喜界島~奄美諸島
●徳之島~奄美諸島。2つの伝説
●沖永良部島~奄美諸島
●与論島~奄美諸島
●多良間島~宮古諸島
●尻間御嶽~宮古島・平良
●目利眞御嶽~宮古島・下地川満
●御宿井~沖縄本島・南風原の宮城
●久場塘~沖縄本島・与那原
●烏帽子井~沖縄本島・西原の我謝
以上は、私が今まで調べた上で実際に行ってきた所です。このように、琉球沖縄には本当に沢山の羽衣伝説があるのが、わかって頂けるのではないかと思います。まさに琉球の羽衣伝説もまた、先祖から子孫に伝わる宝の一つです。
では早速、もう少し具体的に見ていくことにしましょう。
二つある、琉球國の王府に伝わる羽衣伝説の一つが、森之川伝説です。
この話は、察度王の生まれにまつわる話です。琉球沖縄で、最も有名な羽衣伝説と言えるでしょう。察度という人物は、按司といわれる諸侯達に推されて、1394年に中山王になったとされる人物です。また三国時代の中山が初めて、中国の当時の国、明と国交を結んだとされています。現在の宜野湾市大山に、むかし浦添間切謝名村がありました。
そこに、農民であった察度の父、奥間大親がいましたが、余りに貧しい暮らしのために嫁をとることができませんでした。ところがそんな奥間大親と絶世の美女である天女が夫婦になって、二人の間に察度が生まれるという話が伝わります。つまり、察度の母は天女なのであり、粗筋はこうです。
畑仕事の帰りに、奥間大親は、天女が水浴びしているのを見て、羽衣装、別名、飛衣装を隠してしまいます。天女は衣がなくなって天に帰ることができなくなって困り果てていると、何食ぬ顔で奥間大親が優しく声を掛け、家に連れ帰ってやがて夫婦になります。やがて一男一女が生まれて何年かが経ったある日のこと、羽衣装を見つけた天女は、一人、天へと舞い上がり、飛び去るという話です。
※「羽衣」という表記について~「羽衣装」や「「羽衣」などという表記などがあります。本土での発音が「はごろも」なのに対して、琉球では「はにんす/ハニンス」。また同様に、「飛衣装」や「飛衣」なども「とぅびんす/とびんす/トゥビンス/トビンス」などと発音します。
あくまで作られた物語であり、時代も世の中も現在とは違いまますが、話はできるだけそのまま感じるのがよさそうです。
とはいえ、それにしても実際にはどんな事があって、それが話となって今に伝わってきたのかを考えると、なかなか想像が搔き立てられる意味深く面白い話なのでないでしょうか。それが琉球國の国書に出てくる羽衣伝説の一つなのです。
この羽衣伝説の舞台は、宜野湾市の西の真志喜森川。森川公園に真志喜のムンヌカーと呼ばれる泉があり、そこに伝わる伝説です。
※注「天女は果たして誰か?」〜中山国の察度王統は、浦添按司の察度が建てた王統で、二代続きます。この察度の出自にまつわる話がこの有名な天女伝説で、察度は、真志喜大主の養子の奥間大親と天女から生まれたことになっています。この天女とは、5代続いた英祖王統の3代英慈王(恵慈王とも)の次女、真銭金ともいわれます。英慈亡き後、兄弟間を中心にしてかなりの大きな争いがあったようです。その結果、王位は4代玉城王が継ぐことになります。英慈には、長男・浦添王子、次男・西原王子、三男・中城王子、四男・玉城王子、五男・越来王子、長女・真亀金、次女・真銭金がいたとされ、正子をはじめとする兄たちを差し置いて四男の玉城王子が王になるという、琉球沖縄の歴史からみても異例なことが起こり、継承争いが並々ならぬものであったことが推察できます。恐らくそのために真銭金は、争いを避けて浦添にやってきて、奥間大親が匿ったのでしょう。あるいは、一緒に逃げて来たことも考えられます。従って、話の中の羽衣は、王族の姫の高価な着物なのではないかと個人的には考えています。その後、夫婦になって子どもができた奥間大親と真銭金でしたが、別れてそれぞれ再婚したようです。真銭金は大里按司と再婚して多和田ヌルと称し、長男・承察度と次男・汪英紫(下之世主)を産みました。この長男の承察度はやがて大里按司となって南山をまとめ、南山国の大里王統を建てます。なお、真銭金が結婚した順序の逆も考えられると思います。というのも一説には、奥間大親と天女の間に一男一女が生まれたものの、天女が若くして亡くなり、奥間大親は謝名村の又吉の女子と再婚して三男一女が生まれたとも言われるからです。他に考えられることとして、奥間大親が娶った天女真銭金が、大里按司と再婚した多和田ヌルとは別人という可能性もあり、また今まで見てきたどこかに混同などがある可能性もあります。いずれにしても、もしも三山時代の2つの王統を建てたそれぞれの子、察度と承察度の母が真銭金だとしたら、たとえそうでないにせよ、ほとんど歴史的に無名に近い真銭金は、歴史的にもっと注目されてしかるべき人物といえそうです。
さて、琉球國の王府に伝わる羽衣伝説の二つ目は、第二尚氏王朝、第3代国王・尚眞王の、あるひとりの夫人にまつわる謎めいた話です。
国書には、その名が茗刈子の娘とある女性が記録されています。この女性の出自が明らかでなく、代わりに天女の子と公的な文献に書かれているわけです。そうせざるを得なかった事情があったようですが、それにしても天女の子とは、なかなか素適で粋な表現だと個人的には感心してしまいます。
伝わる話はこうです。
茗刈子という農夫が、六月の雨期に天下井戸で髪を洗っている天女を発見し、飛び衣を隠したため、天女は天へ昇れなくなってしまいます。そして茗刈子の嫁になって、姉と弟の二人の子を産みます。やがて天女は、姉が弟に歌う「泣くなよ泣くな、私たちの母親の羽衣は、稲倉の下にあるから、お前に見せてやろうね」という歌の歌詞から、飛び衣の隠し場所を知って見つけ、それを着て天に帰るお話です。
※注「天女は果たして誰か?」〜先ほど、「この女性の出自が明らかでなく」と書きましたが、多くの研究書をはじめとする書物にもそう書かれていて、その理由は、国書に茗刈子の娘としか書かれていないためです。そこで、このあたりをもう少し考えてみましょう。中山国の察度王統は、察度王と息子の武寧王の二代で滅びます。具体的には、尚思紹・尚巴志親子に武寧王は負けて、中山国を失いました。そのため武寧王の子ども達は各地に散ってゆくことになります。武寧王の五男が浦添親方という人物で、天久村で隠遁して暮らしたともいわれています(屋号は原川)。この浦添親方の長男が茗刈里主という人物で、その茗刈里主の長男がこの話の茗刈子なのであり、天女を妻にして娘が生まれたことになっているわけです。この天女とは、尚徳王の妹で聞得大君だった人物ともいわれています。兄である王のための、をなり神であるべき聞得大君という神に仕える立場上、その後の国の神女体制の維持のために名前が伏せられたとしたら、当然のことと言えます。また、尚徳王といえば、第一尚氏王統、最後の王であり、第二尚氏王統からすれば、第一尚氏王統の末裔を王の妻に迎えたために出自を隠したかったという思惑があったのかも知れません(ただ、尚眞王の時代あたりから、第二尚氏王統は、第一尚氏王統やそのゆかりの人々を王府に向かい入れる方針に転換しています)。いずれにせよ、第一尚氏王統が滅亡した時から後、金丸こと尚圓王によって、第一尚氏王統とそのゆかりの者達が次々と粛清されていった中、尚徳王の妹を茗刈子が匿った、あるいは、伊是名島の銘苅御殿に預けられることになったのでしょう。そしてやがて茗刈子の妾になったようです。なお余談ですが、伊是名島の銘苅御殿と天久村銘苅はとても深い関連があるようです。天久村にある銘苅墓跡群の中心に、最大規模の亀甲墓があって、伊是名殿内といいます。伊是名殿内は、1800年代初頭に、伊平屋間切(伊平屋島と 伊是名島)の総地頭家であった伊是名家の墓とされ、この間切と伊平屋間切の両方を治めたようです。ですから、様々な点で二つの地には、離れていても共通性が多いといえます。それを考慮に入れた上での仮説ですが、浦添親方の隠遁先も、茗刈子がいた場所も、そして尚徳王の妹が預けられたのも、伊是名島なのではないかと個人的には考えています。そして後の時代に、伊是名島に伝わる天女伝説が天久村に伝わったのではないでしょうか。また、茗刈子と天女の間に生まれた真鍋樽という人物は尚眞王の夫人になるわけですが、伊是名から天久にすでに出て来ていたのかも知れません。なお、この伝説に出てくる羽衣ですが、王の妹が着た高価な着物とも考えられるものの、神職者が着る透けた神衣をいっているのではないかとも考えられます。いずれにせよ結果的には、茗刈子と尚徳王の妹との間に生まれた娘真鍋樽は、尚眞王の夫人となったものの、その出自が何らかの理由で公的には隠されました。そして、尚眞王と夫人の間には、佐司笠按司加那志という娘が生まれました。佐司笠按司加那志は茗刈殿内と称し、茗刈殿内は湧川殿内の美里王子朝易に嫁いだため、茗刈殿内は湧川殿内に祀られることになります。
この羽衣伝説の舞台は、那覇市おもろまち銘苅にあります。戦後アメリカに長い間占領され、返還後、新らしく生まれ変わってできた新都心の中に、今も大切に泉が残されています。一方で殆どの文献には、アメリカの占領時に破壊されたとあります。しかし事実は異なるようです。想像の域を越えませんが、アメリカ占領時代、大変な思いをして銘苅の人々は自分たちの大切な場所であると訴えて、基地内に入れてもらい、ずっと大切に泉を守ってきました。今に到るまで、地元、銘苅の人々によって、とても大切に保存されています。看板や案内板は一切なく、興味本位や観光目的の人、各種宗教団体やユタを拒み続けてきました。琉球沖縄の正しい歴史を学んでいない者は踏み入るべき場所ではないと、研究者としての立場からもそう考えています。あくまでこの神聖な場所は、銘苅の人々のための場所なのであり、それ以外の人々が勝手な自己都合や興味本位で立ち入る場所ではありません。地域の御嶽や拝所の多くは、本来、そういうもののはずです。井戸の名は「スグルクガー、シグルクガー」といいます。
さて次の話が、奄美大島の隣りにある、喜界島の羽衣伝説です。なんといっても注目されるのが、羽衣である飛衣装そのものが残されている点です。
琉球國時代の昔、村の祭祀を執り行う、地域を治める祝女といわれる神官が、国から任命され、その職は世襲制でした。ただ神官とはいうものの、琉球國の祝女の場合ですから、祭祀を通して地域を治めるのが目的のため、地域を治める大名のような存在ともいえます。身に付けた祝女の祭祀の衣装が羽衣として道具と共に残されています。それらは先祖代々伝えられて子孫が大切に守ってきました。長年、蒲生集落の栗原家の奥深くにしまわれ、決して人目に触れる事がなかったため、かつては島の者でも見る人は殆どいなかったとか。それでも衣装や装具などは時々外に出されて風を通されたため、それを目にした人はいたそうで、いずれにせよ長い間、大切に保管されてきました。品々の中の衣類が天女の羽衣と伝わってきた(神事を司る祝女の神具である衣類が羽衣として伝わってきた)わけですが、現在それは、喜界島民俗資料館の2階から渡り廊下をへた別館2階で見る事が可能です(「飛衣・羽衣」)。天女伝説に関わることでは、蒲生集落の中心の小さい森には、天女伝説由来の天降神社があります。なお、喜界島には、集落毎に羽衣伝説があるともいわれ、沢山の天女由来に関わる場所があります。天女の泉や、天女二人が舞い降りたとされる岩もあります。その岩にはガジュマルなどの木々が生い茂り、マンジョの木と呼ばれ、その一帯は、どこまでも続く真っ直ぐな有名な道とサトウキビ畑が広がり、高い木が殆どない場所のため、遠くからでもよく見えます。塩道の三原の田んぼの中の岩に兄妹二人が天降りし、妹だけが岩から降りて坂を下りました。すると、蒲生の山裾に綺麗な泉があるのを見つけて、そこで水浴びをしていたところ、飛衣を男に取られてしまいます。そしてその男の妻になり、生まれた子どが歌う歌詞で、飛衣のありかを知ることになります。
先祖から伝わる話や考えや物などを、後世の子孫が大切に守って伝えていく、それは特別なことでもなんでもなく、当たり前にかつては行われてきた人の営みですが、今ではつい忘れられがちです。天女の羽衣が今に伝わり、その現物を目の当たりにした私は感無量でした。しかも偶然、奇跡的に見つけたのですから、まるで羽衣に呼び寄せられたとしか思えませんでした。なお色々と親身に相談にのってくださったのが、隣接する喜界町図書館の職員の方々。資料や情報を、親切に色々と調べて下さったり、教えて下さったり、コピーを取って下さって、みなさんが本当に親切でした。またそこにいた志戸桶集落の男の子が、広い図書館内の本の配置をよく知っていて案内してくれたり、喜界島にまつわる伝説を次々に話してくれるのには舌を巻きました。
さて本題に戻して、話の筋の方ですが、嘉鈍という村に天女が舞い降ります。そして3人の子どもが生まれ、やがて羽衣を見つけた天女が、子ども達と共に天に昇っていきます。ところが帰ってみると天の様子が以前とすっかり変わってしまっていたという話です。
次に、やはり奄美大島の隣りの島の物語。奄美群島の徳之島の羽衣伝説には、アモレ天人女房の話と、トゥピギンマイギン伝説があります。
アモレの話は、伊仙町の耳付という場所の話で、田袋(※注~奄美でいう田)わきの泉に伝わる天女伝説があります。天女はやがて、2人の子を連れて天に帰ります。すると残された夫は、妻が書き残した言葉にしたがって、庭に竹を植え、やがて天までのびた竹をつたって、家族に会うために登ってゆく話です。
トゥピギンマイギンの話もまた、徳之島に伝わる話です。徳和瀬と浅間のそれぞれの場所に似た羽衣伝説が伝わり、徳和瀬の話は「アモラ口説き」といわれています。
奄美の沖永良部島にも羽衣伝説があり、天人女房として羽衣伝説が伝わっています。
沖永良部島の前の名前はミカル国といい、ミカル川という神々しく、きれいな川が流れていました。そして毎月、一日と十五日に、天のお姫様が降りて来て髪を洗う川でもありました。そのお姫様、天女アムレシシが髪を洗っていたところ、ミカエルシシメという長者が羽衣を隠し、タバコを一服、差し上げますと言って、自宅に連れて行きます。そしてタバコに縁づいてしまったアムレシシは、長者の妻となります。やがて生まれた子が五歳と三歳になった時、五歳の子が歌を唄います。そして歌の内容から、羽衣が倉にあるのを知ったアムレシシは、五歳の子を背負い、三歳の子を脇に抱えて飛ぼうとしますが、重過ぎて飛べません。仕方なくアムレシシはひとりで天上に帰って七人兄弟と会います。そして、騙されたいきさつと子ども二人の事を話し、子ども達の運命を兄弟にお願いします。そして七人兄弟が唱えるとミカル国は海に沈んでしまいますが、二人の子だけは松の木のてっぺんに登って助かります。そしてしばらくすると島は再び浮き上がり、二人の子は地面に降りて暮らします。そしてそれからは、欲しい物は天にお祈りすれば出てくるようになり、この島を「沖イラブ」と名付けたという筋書きになっています。(※タバコで天女を誘うというのが、近年の沖永良部に伝わる民話の傾向ですが、古い昭和15『おきえらぶ昔話』岩倉市郎著「78天人女房」などではタバコ記載は無い)
奄美の与論島にも羽衣伝説があります。島の農耕の起元とされる羽衣伝説ゆかりの麦屋井という湧き水が出る場所があり、話の前半が「天ヌ飛ビ衣ヌパナシ」という羽衣伝説で、後半が「天ヌ川ヌパナシ」という七夕伝説になっていて、内容はこうです。
貴族の男と天女の間に、3人の子どもが生まれます。やがて天女は羽衣を見付けて飛ぼうとします。長男を背負い、長女と次男を抱えて飛び立とうとしますが、重過ぎてどうしても飛び上がることができません。仕方なく天女は、子ども達に、次のように言い聞かせると、ひとり飛び去ります。
長男は、国を治める者になりなさい。
長女は、国を守る神官になりなさい。
次男は、父ミカドゥの言う通りにしなさい、と。
さて、宮古島には羽衣伝説が、二つあります。
尻間御嶽の羽衣伝説ほど、悲しい伝説を、私はあまり他に知りません。
幼い女の子の母が死んでしまいます。性悪の女が後妻となり、夫に隠れて継子いじめ。何の罪もない幼い女の子は、散々いじめ抜かれた挙げ句、最後には、継母によって、洞窟に突き落とされます。女の子は落ちて動けないまま苦しみ続けて、数日後に見かねた神が現われて、優しく抱き抱えて昇天する話です。
実際に起こったことを、心ある人々が憐れんで、供養のため、きっとこの話として残したのでしょう。勿論、二度と再びそんなことが起こらないようにとの祈りがこもっている話だと思えてなりません。涙なくして、伝えることも、聞くこともできない、地域で生まれて根付いた話です。個人的には、日本の民話の中で最も悲しい物語に思え、だからこそ決して忘れ去られてはならない、語り継がれなければならない物語と考えます。尻間御嶽は、平良市役所の向かいにある、平良図書館の敷地内にあります。なお図書館のある建物の2階の観光課で、近隣の御嶽マップが頂けます。
宮古島の、下地川満にもまた御嶽がいくつもあり、それらは地域の方々によってとても大切にされてきました。その中の一つ、目利眞御嶽の羽衣伝説は、こんな話です。
女神が、四人の子どもを産みます。次に、身に覚えがないのに、三女が男の子を産み、やがてその特異な子が、祖母や母と一緒に昇天する話です。
宮古諸島の、宮古と石垣の中間にある多良間島にも、羽衣伝説があり、それがニヌパブスと、ンマヌパブスの話です。内容は、中国の昔の伝説として有名な七夕伝説と融合した話です。
羽衣を見つけた天女の母は、2人の子どもを抱いて飛ぼうとしますが、重くて飛べません。諦めた天女は、夫である父親に子どもを預けて飛び去ります。やがて父は子どもたちを連れて天まで飛んでいきますが、妻を見つけることができないという話です。
ところで、そもそも中国の七夕伝説は、遠い昔に伝わった元々は中国の話で、日本中にも広まって人々の心に浸透してきたため、今では日本の伝説だと勘違いしている人がいるほど日本では有名な物語です。元は中国の古い伝説で、牽牛星と織女星の話です。日本では織姫と彦星の話として有名です。話はアジア各地に広く伝わりました。この男女の悲恋物語が自然に受け入れられる精神文化を特にアジアの人々が持っていたためなのでしょう。
では次に、再び沖縄本島の話に戻って、琉球王府に伝わる伝説以外の、地域に伝わる羽衣伝説を見ていくことにしましょう。
南風原の宮城、現在の宮城農村公園の近くに、御宿井の羽衣伝説があります。また近くの宮城公園には、この伝説についての解説の碑や、壁にこの話の絵が描かれています。
この話では、天女は天に帰ることなく亡くなります。男と天女の間には一男一女が生まれ、やがて男の子は宮城地頭職に就き、女の子は祝女の職を授かったとあります。
与那原の久場塘は、南風原の天女が天に帰ろうとしたところが戻れず、ここまで逃げ延びてきて身を隠した御嶽といわれています。駐車場の一角に御嶽があります。なお、南風原宮城に久場塘嶽があり、その嶽の下に御宿井があると書かれた史料もあり、久場塘という御嶽、ないし、嶽は両方にあったとも、あるいは、いくつかの話が混ざったとも色々考えられ、まだまだ研究の余地がありそうです。
烏帽子井にも羽衣伝説があります。中頭郡西原町我謝の北西、運玉森の麓に、拝井泉である烏帽子井があります。
この泉にまつわる羽衣伝説は、天女が子どもたちを抱えて、天に帰っていく話です。
なお、この烏帽子井は、かつて聞得大君加那志(※)が祭祀を行った場所でもあります。
以上が、色々みてきましたが、琉球沖縄に伝わる素適な羽衣伝説の数々です。
※注~聞得大君(ちふぃじん/ちぃふぃうじん/ちぃふぃうふじん/きこえのおおきみ/きこえおおぎみ)。異名は、「とよむせだかこ」(※「とよむ」~「世に名が知られている~「せだかこ」~「霊力が強い人」の意)。
※注~加那志(がなし/じゃなし)。加那志や加那志前(がなしーめー)は、尊称・敬称の接尾辞。聞得大君に接尾辞が付くと、聞得大君加那志(ちふぃうふじん・がなし)。
※注~琉球國が成立すると、それまで諸侯の意であった「按司」は、王族の位の一つに変化していきます。そして、第二尚氏の時代には、王子の次の位となり、そしてまた、王妃や王女なども按司と呼ばれるようになり、女性の場合はよく「加那志」の敬称がついて、「・・・・・・按司加那志」と呼ばれたりしました。なお、国王がなくなると、王妃は最高神女である聞得大君にしばしば選ばれて、「聞得大君加那志」と呼ばれました。なお聞得大君が最高神女になったのは、主に第二尚氏王統からのことで、それ以前は「阿応理屋恵」、その前は「佐司笠」が最高神女でした。
天女に関しては、その他に、浦添城に天女の嘆きの話があり、そのため浦添城は「羽衣伝説の城」とも呼ばれます。
また沖縄で、天女というと、真っ先に「天女橋」を思い浮かべる人が多いはずです。
※注~「天女橋」
首里城横の円覚寺の前に、円鑑池という有名な池があります。首里城や円覚寺からの、湧き水や雨水を集める仕組みの大きな池です。円鑑池は、第二尚氏王統の第3代国王尚眞王が1502年に造りました。円鑑池から溢れた水は隣りの、より大きな龍潭池に流れ出る仕組みです。龍潭池は15世紀に尚巴志王が造ったとされ、尚眞王が増水しないように水量調節のため、城側に円鑑池を造りました。
円鑑池には島も造られ、有名な弁財天堂があります。この中之島にかかっている橋が、かの有名な「天女橋」で、琉球石灰岩による切石積みで造られた、現存する日本で最も古い中国式アーチ橋です。欄干には見事な蓮の彫刻などが施され、最初に造られた時は観蓮橋という名でした。高麗の国から贈られた「方冊蔵経」(高麗版大蔵経)を納めるため、1502年に円鑑池の中之島に経堂が造られ、同時に観蓮橋が造られましたが、1609年に薩摩藩の琉球侵攻により経堂は破壊されてしまいました。1621年に弁財天を祀る堂として新たに建てられてから橋は新たに天女橋と呼ばれるようになりました。
色々とみてきましたが、琉球沖縄には、羽衣伝説はじめ、天女にまつわる話が数えきれないほど沢山伝わってきました。
ですから、琉球沖縄には伝統的に、今も昔も天女の生まれ変わりのような女性が多いのだと個人的にはそう思っています。
そのむかし、
琉球沖縄の空を、
羽衣を靡かせ、
縦横無尽に、
天女たちが、駆け巡っていた・・・・・・
そんな夢見心地に、琉球沖縄の大きな空を眺め直してみるのは、いかがでしょうか。
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