鍋掻田 ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第177話。
鍋掻田
むかし昔、波照間島は、周囲に島がないので島外との行き来もなく、島の人々は自給自足の生活を楽しんでいました。ですから、自分達で作ったり採った物を食べながらのんびり過ごす、絶海の孤島の楽園でした。やがて島の真ん中にクツシ城を造ったアジマクが、八人の武士を伴って島を守る時代に入ってもそれは変わらず、海賊を島に一歩も上陸させず、相変わらず島の楽園の時代は、ずっと続くかと思われました。
それから後、琉球国こくがいよいよ攻めてきました。一度目の戦いは、大泊浜大泊の浜で繰り広げられ、地の利を知り尽くした、アジマクと八人の武士の奮戦によって、あちこちに切られた敵兵が横たわりました。そして何とか敵の上陸は阻止されたのでした。
すると琉球国の軍は、潮の流れを読んで夜船に灯を点して流し、東に移動して上陸するように見せかける陽動作戦を実行したところ、アジマク達は見事に騙されたのでした。
その間に琉球軍は、西のヤマトウフノーラという場所に集結して、上陸を果たしたのでした。
上陸した琉球軍は、圧倒的な軍備と兵の数で上回り、あっという間に波照間島を平定してしまったそうです。
それからの島の生活は言うまでもなく、琉球国に重い年貢を上納することを義務づけられ、島の暮らしが一変してしまいます。その暮らしは筆舌に尽くし難い、過酷で苦しいものでした。
島には富嘉という集落があり、その一番西に、屋久村がありました。そこの、ヤクアカマラーが大将になって、村の人々と一緒に、年貢の米俵や粟俵を満載した船を奪って、夜のうちに逃げたのでした。
さて、その時のことです。
村人全員を乗せた船が、波照間島を離れようとした時、一人の娘が、必ず持って行かなければならない鍋を家に忘れてしまったと言い出しました。船長や乗組員達は相談の上、仕方なく船を南の浜の沖合いに停泊させ、待っているから急いで取って来るようにと言うと、そこから娘を上陸させたのでした。しかし状況からして、それは余りに危険な行為であり、村人全ての命を守るため、その娘は見捨てられ、娘が上陸すると船はどんどん南に向かったのでした。
置き去りにされた娘は、やがて遠ざかる船に気付くと、鍋を振り回しながら船に合図を送りましたが、やがて船は、地平線の彼方に消えて行きました。
その場所は、今では畑になっていますが、それから鍋掻田と言われるようになったと言われています。
なお、他の話によると、いくら待っても一向に娘が戻らないために、仕方なく船は出帆したと伝える話もあるそうな。
※この話の参考とした話
①沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町波照間島~『奄美・沖縄民間文芸研究』第二号
②沖縄先島・八重山郡竹富町波照間島~『波照間島民俗誌』
③同上~『沖縄の昔話』
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●伝承地
①沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町波照間島~まえは、どっちからも外交もあまりしない。そして島内の産物は、皆自分で作って食べておったというのです。そして非常に裕福であった。この東にあるのですが、クッツアジマクという波照間の総大将がおるわけですが、その大将が治めた時代は、とても島内の産物は全部島内の住民で食べて、たらふくな生活をしておった。その後、薩摩藩じゃなかろうかと思うのですが、これは、ヤマトウフノーラというのもあるさ、西に。これは薩摩が平定したんじゃないかと思うのですよ。あの時一回目の闘いは、大泊(おおとまり)の浜という所があるさね。あちらで皆、敵を切り殺して皆治めたというのですよ。しかし二回目の闘いで、上陸したのは、夜船に燈(ひ)をつけて、そして潮流を考えて、東につけさせるような見せものをして、波照間の武士は全部、東にまわったというのですよ、この辺に。しかし、ほうと皆集結するでしょう、一方に。集結したもんだから、一方から西の方へ、ヤマトウフノーラというものがあるさ、フノーラといったら、船を上げる箇所であるわけ。船の上げ場所、あっちに船を上げて、あっちから上陸して、あの時は、二回目の時は、武器も備えたのじゃないかと思う。あの時、波照間を平定してしまったというのです。平定してしまって、その後、上納がひかれるわけ。上納がひかれた為、非常に住民は苦しんだわけ。そして苦しんだ為、ひと部落の人は、ヤク部落という所があるさ、富嘉(外)部落の一番西にね。ヤク部落のヤクアカマラーが大将になって、ひと部落の人を誘って、上納積んだ、いわば、昔の上納といえば、米俵、粟俵でしょう。あれを満載した船に、夜、ヤク部落の人が、その上納積んだ船に乗って、逃げたというのですよ。あの時の大将がヤクアカマラーといっているのですよ。であの時一人の娘が鍋を忘れて来たと。これは必ず持って行かなければならないという事で、船長と相談して、じゃ船は、南の浜に寄せるから、あんたはうちへ行って、鍋を持って、それじゃ南の浜に下りて来い、とこういう様な約束であったというのだが。まあその船長は、船を島につけさせたら、もっと危いからといって、あの一人をすてて、どんどん南へ行ったというのですよ。あの人が鍋をかいて泣いて、今でも、鍋掻き田(ナベハキアマス)というのがあるわけさ。現在でもありますよ。これは今は、畑になっています。あれも最近十年あまりしかにならないですよ、あれを畑になしてから……。(『奄美・沖縄民間文芸研究』第二号)
②沖縄先島・八重山郡竹富町波照間島~島民は人頭税に苦しんでいたが、ヤグムラにアカマリと称する男が、ムラの衆を集めて、重税を逃れるために逃亡することを相談した。折しも、人頭税ヲ運ぶ船が出立を待っていたので、役人たちの隙をうかがって、村人を船に乗せた。ところが、一人の女が鍋を忘れたと言って取りに戻ったが、いくら待っても戻って来ないので、やむなく船は出帆した。その女は船に戻る途中、田圃近くで船の出て行くのを見て、鍋を掻きながら地団駄を踏んで泣きわめいたという。それで今に、女が泣きわめいた田圃をナビカキマスと呼ぶようになった。(『波照間島民俗誌』)
③同右~人間がありあまって生活ができないので、島の人の一部を移住することになったが、ある娘が鍋を忘れて取りに戻る間に、船は出帆してしまった。その船を見て娘は田圃で、鍋を掻いて泣いたので、今にそこを鍋掻(なか)き田(ます)というようになった。(『沖縄の昔話』)
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