~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第61話。

お乗馬の口取男

 むかしむかし、勝連村に、儀保掟(ぎぼうっち)という人がいました。
 その人は、お祭りの前にはかならず、吉日を選んで、三日前に、聞得大君御殿(きこえおうぎみおどん)に行って、お祭りの日が、もう直(す)ぐやってくるということを申しあげ、やはり三日前から、飼っている馬を、万事(ばんじ)調子が良いように準備します。
 そして、いよいよ、お祭りの日になると、首里に行き、うやうやしく大君加那志がお乗りになる馬の口を取って、あっち、こっちに参詣(さんけい)して、お祭りをいたします。
 そのため、俗(ぞく)に馬駄(うまだ)と申します。
 今でも、儀保掟の子孫が、かならずこの職を受け継ぎ、お祭りをいたします。


※註
~「大日本地名辞書」によれば、聞得大君は方言で「チフジン」と唱え、その殿を「チフジンオドン」と号(ごう)す。聞得大君は、昔は、王姫、又は、王妃を以(も)って任(にん)ぜしが、尚貞王以後、更めて王母を任ずる原則とせり。毎年三月、六月は例祭を施行(せこう)し、又、毎年の一月三日には、国王、駕をまげて年賀の参詣をなす例ありしという・・・・・・。尚清王代の冊封使(一五三四年来琉)の『陳侃(チンカン)使録』には、「琉球の貴族の夫人は、外出の時に、竹若笠をかぶって、馬上に坐(ざ)し、女僕三四人が、お供をしている云々(うんぬん)」と、婦人乗馬の風(ふう)を書いているが、当時、女の神官ばかりでなく、一般に女人乗馬の風俗があったと思われる。
 
※注
【お乗馬の口取男】(おじょうばのくちとりおとこ)
【勝連村】(カツレン・そん)勝連の以前の発音では「カッチン」など。1908年の島嶼町村制で、勝連間切が勝連村に。1980年に勝連町。2005年、具志川市・石川市・与那城町が合併して、うるま市となり、勝連町消滅。
【掟】(うっち)琉球王国時代、地方には、おもに按司(あじ)と掟(うっち、おきて)がいた。按司は寨官(さいかん)とも言い、グスクを拠点(きょてん)に、各地方に割拠(かっきょ)する首長(しゅちょう)。掟は、結制・結致とも言う。按司の下にいる、各地方の行政官のような役割と考えられ、対外貿易にも派遣される。
【お祭り】(おまつり)現代では、お祭りの、そもそもの意味が忘れられがちといえる。そもそも、「お祀り、お祭り」の「まつる」とは、儀式を整えて神霊をなぐさめ、また、祈願するためのもの。
【俗に】(ぞくに)世間で。世間一般に。
【駕をまげて】「駕(が)を枉(ま)げる」とは、貴人がわざわざ来訪する。


Posted by 横浜のtoshi





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