識名原(しきなばる)、尚徳王の墓など

2015年07月05日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(4)伝説・歴史・雑学・言い伝え等

6月28日、
お友だちの湧上高浩と会ってから、
近くの、
かつての識名原(しきなばる)へ行って(まい)りました。
調度(ちょうど)、識名トンネルの上あたりでしょうか。

私が思うに、
命をかけた歴史というものが存在する、
そんな場所の一つだと考えます。

琉球時代、
(しょう)巴志(はし)という(たぐ)(まれ)な人物が当時、
三つの勢力(せいりょく)に分かれていた沖縄本島を統一(とういつ)
それは初の国家、琉球國(りゅうきゅうこく)誕生(たんじょう)でした。
(※「琉球王国」という表記を、琉球時代の公文書で見た事はありません。「琉球國(国)」が正しいと思います。)

まさにその歴史的偉業(いぎょう)をなし()げた一族である第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)は、
不思議(ふしぎ)な事に、短期間で次々と王が代わり、
やがて、いとも簡単にあっけなく、
第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)に取って代わられてしまいます。

このあたりの歴史にメスを入れた研究が、
今でも非常に少ないのが気に()かりますが、
いずれにせよ、
展開してきた色々な第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)のドラマが、
終焉(しゅうえん)を一応、迎えたと言える地、
それが識名原(しきなばる)という土地です。

まさにその際、
命を()けたさまざまな戦いや策略(さくりゃく)が、
確かにこの地で展開したと思われます。

そしてもう一つ、
この地を中心に歴史が動いた、
もう一つの時代があります。

薩摩に攻められ、
戦いという戦いもないまま降伏(こうふく)した琉球國。
それでも数少ない武士たちは、
あちこちで抵抗し、
この識名原の近辺でもまた、
最後の抵抗が()り広げられました。

話を第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)終焉(しゅうえん)に戻して、
一族にとって最期の時を迎えた時、
その無念(むねん)はいかばかりだったでしょうか。

琉球を統一し大国家を打ち立てた、
第一尚氏王統の一族と、それを支えた人々。
その人々が最期(さいご)死闘(しとう)()り広げた、
それが識名原(しきなばる)という土地です。

第一尚氏の最後の王は、尚徳王(しょうとくおう)でした。
(※尚徳王の死去は、『中山世鑑』によると、成化5(1469)年4月22日頃だったようで、尚徳王享年(きょうねん)41歳でした。直ぐ3人の子の、最年長で16歳の「中和」が(くらい)()ぎました。そういった意味では、中和が最期の王です。中和は、父の尚徳の名で、朝鮮に遣使し、明へも使節を送りました。なお父の名を用いた理由ですが、琉球は年に1回もしくは2回の朝貢を行なってきましたが、国王の死去後しばらくはその国王の名で朝貢し、一年前後たって()が明けてから、死去を中国に報告し、冊封にうつるのが慣例でした(『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の、高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」に中和の話が述べられています。もちろん最期の王は尚徳王で、中和は次の王になるべき人なのでした)。琉球の王の在位期間を調べてみれば、王の在位の最後と、次の王の在位の最初が重なる事がなく、きれいに翌年になっているのも、そういうわけです。ところが中和の場合、金丸の謀反(むほん)クーデターが起こって政権を奪われてしまいます。しかも金丸は王位に()くやいなや、中和と2人の弟を直ぐさま殺害します。と同時に、第一尚氏の一族とゆかりの者を抹殺する命令を金丸は出し、次々に第一尚氏の一族は殺され、それは徹底されたものの、ごく一部の者は第一尚氏ゆかりの忠臣(ちゅうしん)たちによって逃がされ、隠されたのでした。)


ちなみに、
尚徳王(しょうとくおう)が死に、
金丸が政権を奪い取った、
その交代劇については多くが謎のまま、
現在まで放置されてきたところがあります。

ただ、
第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)に対して、
余りに都合(つごう)良く伝わってきた、
交代劇にまつわる話はどれも、きな臭く、
真実を隠蔽(いんぺい)するために作られた話だろうと、
容易(ようい)に想像できるものばかりです。

例えば、尚徳王に関して伝わる話の中には、
久高の祝女(ノロ)、クニチャサとの愛に(おぼ)れ、
帰京(ききょう)を忘れるうちに、
革命が首里で起こったという話がありますが、
クニチャサを王が愛惜(あいせき)したにせよ、
第二尚氏王統向けに作り上げられた、
まことしやかな嘘の話であり、
事実でないのは明らかです。

いずれにせよ、
まったく第一王統と(えん)もゆかりもない、
金丸という人物が、
王族をしりぞけ王に成り代わるという、
とんでもない、
そして歴史的に(だぐい)(まれ)にない出来事が、
琉球國で起こります。

ちなみに戦国の世ではありません。

さすがに現在は、
政権交代や尚徳王の死については、
金丸(かなまる)一派によるクーデター、
という考え方が一般的になりつつあるものの、
まだまだありえない話を鵜呑みにして、
疑わない人は、
今もなお多いままの状態です。

クーデターを知ってショックを受け、
尚徳王の子達は死んだとか、
クーデターが起こって、
どこかに逃れたという、
いずれにせよ簡単すぎる、
いんちきの説明では、
尚徳王の幼い世子が即位したことも、
政権が奪われた動きすべてが、
闇に葬られたままで辻褄(つじつま)が合いません。

つまり、
もしも先にクーデターが起こったなら、
尚徳王の子の即位(そくい)は無い筈です。
尚徳王の急死の中味は、
もっと正しく検討されるべきです、

いずれにせよ、
尚徳王が亡くなったのは確かです。

尚徳王が亡くなった後、
クーデターが起こったか、
クーデターにより、
尚徳王が殺されたのか、
何らかの理由で亡くなって、
政権が代わるという出来事が、
起こったのだけは確かです。
私は後者の可能性が高いと考えます。

ちなみに、
丸ごと国の乗っ取りに成功した金丸(かなまる)は、
尚圓王(しょうえんおう)名乗(なの)って、
第一尚氏王統の一族を、
消しにかかって痕跡(こんせき)を絶やそうとする一方で、
自分はその子孫であるかのように、
なり代わります。

なお交代劇において、
金丸(かなまる)を王にした立役者(たてやくしゃ)は、
安里大親(あさとうふや)という人物だとする話が、
伝わっています。
その人を、
護佐丸(ごさまる)の兄と言う人がいますが、
明らかな誤りだと考えます。

なぜなら、
後の家譜(かふ)を見てみれば分かる通り、
護佐丸同様に毛氏(もうし)ではあるものの、
名乗(なの)(がしら)が、
護佐丸系統の(せい)ではなく、
安里大親自身が大宗(たいそう)となる(せい)で、
流れが違うからです。

いずれにせよ、
それまでの王の血をまったく引かず、
武功(ぶこう)の一つも上げたことのない金丸(かなまる)が、
その悪知恵(わるぢえ)の限りを尽くして、
王になりました。

かなり無理があったため、
その後の王の采配においては、
上手(うま)くは運んだとはいえず、
やがて、
王は()くなってゆく事になります。

ただその子孫たちは、
なかなかうまくやって、
政権を第一尚氏に奪い返される事はなく、
続いてゆくかに思われました。

しかしそんな時に、
薩摩藩(さつまはん)が攻めて来て、
いとも簡単に、
その支配下に組み入れられてしまいます。

私見ですが、
その最大の理由が、
第二尚氏王統にとっては、
第一尚氏王統やゆかりある者たちによる、
政権の奪回を恐れたため、
国全体の武装解除にばかり目が行って、
国防を疎かにしたためと考えます。
つまり、
護佐丸の教えを早くも忘れたと言えます。

とにもかくにも、
尚徳王(しょうとくおう)無能(むのう)で、
家臣(かしん)金丸(かなまる)(おう)にしたといった類いの話を、
信じてはいけません。
その後に続く第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)の時代に、
第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)()うように、
でっち上げられた()()ぎませんから。

ただし、
第二尚氏の王が()わるうちに路線が変わり、
やがて、
第一尚氏王統の流れを()王族(おうぞく)たちや、
ゆかりある者達の一部が、
登用(とうよう)されるようになります。
まさにここにこそ、
第二尚氏王統の見事(みごと)さが(うかが)えるわけですが、
琉球の歴史は戦乱の時代が長く、
国家が安定した期間は短く、
真の独立国家の期間(きかん)は、
想像以上に短いともいえます。

独立国家としての琉球國が
事実上は滅んで、
島津の支配下に入ったしまった点の責任は、
第二尚氏王統にあります。

国際情勢を見()えていなかった点と、
国を守る国防義務を(おこた)った点はじめ、
罪は重いと思われます。


ほとんど抵抗らしい抵抗もないまま、
薩摩軍に琉球は、
いとも簡単に負けてしまいました。

そして、
対外的には独立国家という体裁(ていさい)で、
事実(じじつ)は島津の支配下にありながら、
苦難(くなん)のうちにも1879年から琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)までの、
19代、410年間という長きに渡って、
琉球國第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)は、
続いていきます。

しかも、
琉球時代最盛期(さいせいき)といえる時期を、
なんどか(むか)えてさえいます。

ただ逆に言えば、
第二尚氏王統の時代が長く続いたために、
琉球の歴史や何もかもが、
その王統に都合(つごう)よくねじ曲げられ、
伝わっていくことになります。
それは確かに世の(つね)
自然な流れなのかもしれません。

しかしながら、
琉球の歴史の真実は、
そんな(うそ)で、
決して()()げられるものではありません。

通常、「識名原の戦い」というと、
あまり知られていませんが、
島津が首里城を占拠(せんりょう)した後、
最後の勢力と、
薩摩軍が戦った戦場での出来事を指します。
それはある意味、
琉球という独立国家が消滅した瞬間が、
この地であり、
最後の抵抗がこの地だったと言えます。

識名(しきな)に、
「尚徳王御陵蹟」があることには、
それなりに意味があると私は考えます。




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佐藤様。

この所、私は仕事が忙しく、
お返事等が遅くなってしまった事を、
先ず、お詫び致します。

読んで頂いているとの事、恐縮でございます。

第二尚氏時代の言い分をそのまま受け取る訳にはいかないというのが、私の主張ですし、常に多方面から多角的に研究されるべきが、研究者の務めです。

「第一尚氏と一切血縁関係のないのに尚氏を名乗るのは解せない」は同感で、
ただ私は寧ろ、第一か第二かなど、きちんと表すべきだという意見です。もちろん両方の流れを汲む者も多いでしょうし、
そもそも、いつの世も、名を名乗っていてもその資格がある人物かどうかが、もっとも重要です。

尚徳王が傍若無人であったとする話は、政治的な意図以外の何ものでも無いと思います。他者の意見に耳を貸さないとの話も同様で、政治的かつ悪意に満ちた中傷、言い掛かりです。

まさに、当時の状況下を客観的かつ冷静に分析すれば、それがまかり通っても不思議ではありませんが、
あまりに次元が低いというか、幼稚な論理というか、後世の誰も嘘に対して疑問をもたず、それが歴史として伝わり、信じてしまう人が多い事の方に、疑問を持たざるを得ません。

何れにせよ、金丸の並外れた賢さと、度を超した悪人ぶりが、歴史から垣間見られます。

一方で、第一尚氏が、きちんとした後継者を育ててこなかった事実、後継者をきちんとサポートする人物や体制を、ないがしろにしてきた点は、いなめません。

朝貢貿易に力を入れたのは、尚徳王だけではありませんが、仰る通りです。

喜界島征伐の自ら出陣における本人最大の失敗は、裏切り者に国を任せて出陣してしまった事です。人を見る目が無かったという事です。出陣している間に、国を乗っ取られるわけですから。忠臣も沢山いたでしょうし、先祖や親族の期待を裏切り、国の王としての義務を果たさなかった責任は重大です。

その点で、尚巴志王と尚徳王はまったく逆と言えます。
いやむしろ2人は似ていて、時代が違いました。

統一に向けて国をまとめる時代に尚巴志王はマッチし、
統一後は、国を存続するに相応しい人物でないと駄目なわけで、あくまで結果論ですが、尚徳王はじめ失格といえます。

ただそれにしても、
あまりに琉球の基本の歴史の上で、第二尚氏一辺倒の、都合がいい解釈に対して、憤りを感じます。
なぜ異を唱える研究者が少ないのか、そしてトーンが低いのか、
私には不思議でなりません。

貴重なご意見を、ありがとうございました。
感謝。いっぺーにふぇーでーびる。
Posted by 横浜のトシ横浜のトシ at 2022年02月19日 09:19


興味深くブログを拝見しております。仰る通り第二尚氏時代の言い分をそのまま受け取る訳にはいきません。第一尚氏と一切血縁関係のないのに尚氏を名乗るのは解せない。この部分に大きな矛盾を感じます。尚徳王が傍若無人であったとする主旨の記述は多いに政治的な意図を感じさせます。他者の意見に耳を貸さないとの記述も多くありますが当時の状況下を鑑みれば致し方なかったと推察できます。長期に渡り王位継承を巡る争いが親族以外に家臣にまで及び信頼出来る者がいなかったはずです。また、傍若無人と朝貢貿易は相反する行為です。
朝貢貿易に力を入れたのは尚徳王時代です。喜界島征伐の際には自ら出陣を切り成功を収めます。琉球国の行く末を案じ、国の繁栄と安定を目指したのは歴代王では尚巴志王に継ぎ尚徳王であったはずです。
Posted by 佐藤 at 2022年02月15日 19:17


ひろみサン、ご無沙汰です。

祝女=「のろ」が、一応、正解です。

琉球国時代、
琉球国家の、統治の大黒柱の一つが、祝女(のろ)で、
地域の祭事(さいじ)を、つかさどった神人(かみんちゅ)なだけではなくて、
地域の、御嶽(うたき)はじめとする神々に祈りをささげながらも、
また、首里王府に、
地域の報告を、していました。

祝女の住む場所や家は、
祝女殿内(のろでんち)といって、
王府から与えられた土地や家の扱いであり、
王府から、祝女には、
資金が出ていますから(給料みたいなもの)、
言って見れば、
今で言う県知事的な感じ、また地域を収める行政官であり、
その地域を治める王とも、言えるのです。

神女を、ノロと発音する事例はあります。

ただそれを、ゆたと関連付けたり、
ゆたを神人とするのは、とんでもないことで、
祖先のぼうとく、学問や歴史を無視した、無学の異常者が、
勝手に、言っていたりするインチキです。

ちなみに、
祝女ですが、八重山などでは「司(つかさ)」と言い、
神人です。

一方で、
古くから、そのカミンチュ(国家)を脅かし、
人々を惑わしてきたのが、
ゆたです。

ゆたは、神人ではありません。
霊媒師です。
今でいうなら、占い師。
現代医学的には、精神病の中の、神懸かりの人です。
あるいは、それを語っているだけの、人に過ぎません。
伝統も、格式も、論理も、非社会的な特徴があります。
また、血統もありません。

琉球時代、
あまりの、ゆたの酷さに(地域社会を乱し、人を惑わすため)、
琉球国家は、
何度か、大規模な、ゆた弾圧を決行しています。

なお、
前にも書いたのですが、
琉球国が消滅して、明治時代に入った以降、
祝女や司の血筋の者たちの中には、
ゆたの系統の者と、血が混じって、
両方が行っていた行為の両方を行う人も、出てきています。

霊媒師ですが、
例えば、青森県の「いたこ」なども霊媒師で、
それでも、
ルールと言いますか、伝統があります。
母から娘に、祖母から孫などに、
受け継がれてきました。

それに対して、
ゆたは、
ある日、突然、神の啓示があり、
それに逆らうと、雷が落ちたりして、
といって、修行も、伝統もなく、
霊感は強いのかもしれませんが、
要するに、重い精神病で、
ことば巧みな、詐欺師です。

神も自然も社会も、冒とくするのですから、
「神」という字を当てるのは、明らかな間違いです。

琉球沖縄でいう「神」は、
やはり、伝統と格式を備えた、
きちんとした「琉球神道」を基本に考えた上での神のはずです。

最後に、
語学的に、「のろ」を、「祝女」と当てるか、「神女」と当てるか、
またその比率、時代の中での変遷は、
研究されれば、面白いかも知れませんね。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2015年07月18日 00:22


としさん、今晩は(^^)ご無沙汰でごめんなさい。

ノロ⇒祝女 ではなく

神女⇒ノロではないのですか?
Posted by ひろみ at 2015年07月07日 01:47


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