~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第66話。

宮古島の農具の渡来

 むかし、久米島に、一人の按司(あじ)がいました。
 ある年、一人の女の子が産まれましたが、この子は、大層(たいそう)な才智(さいち)があり、その上に容貌(きりょう)が、たとえようもなく美しく、人として勝(すぐ)れた子供でした。
 七才になる頃から、いつも、お日様やお月様を拝(おが)み、神仏(しんぶつ)を崇(あが)め、世の中の物事の、ありとあらゆるものの吉凶(きっきょう)を前もって知っているという風(ふう)でした。
 この女の子には、兄の妻に当たる人がいましたが、余りに才智が勝(すぐ)れている事を嫉(ねた)んで、義妹(いもうと)を亡(な)きものにしようと、密(ひそ)かに思い続けていました。
 そして舅(しゅうと)に、嘘(うそ)の偽(つく)り話を吹き込(こ)むことに成功しました。
 「お父さん。貴方(あなた)がお寝(やす)みになってから、真夜中近くになると必ず、どこかの少年が部屋に忍(しの)び込(こ)んできて、義妹と悪い事をしています。」
 これを聞いた舅(しゅうと)は、一も二もなく、嫁(よめ)が言った事を真(ま)に受け、信じてしまい、大層、腹を立てて娘を叱(しか)りつけました。
 「お前が、もし悪い事をした覚(おぼ)えがなければ、無事に、住みやすい島に流れ着くだろう。けれども、悪い事をしたのが本当ならば、きっと鬼界(きかい)という淋(さび)しい島に漂(ただよ)い着いて、苦労する事だろう。」
と言うなり、否応(いやおう)なく小舟に乗せ、海に流してしまいました。
 女の子の兄がこれを知って、慌(あわ)てて父を諌(いさめ)ました。
 「妹は、とても慎(つつし)み深く、常日頃(つねひごろ)から、戒(いまし)めをよく守っています。あなたが考える悪い事をするような妹では、決してありません。どうして、妻の訴(うった)えだけで軽々(かるがる)しく、島流しなどなさったのですか。」
 ところが父は、そう言われて一言(ひとこと)も答えません。
 兄は、考えました。
 「妹とは、血を分けた唯一(ゆいいつ)の兄妹だ。妹が流されてしまった今、どうして自分だけおめおめ、独(ひと)り、生きることなどできようか。」
と思うなり、直(す)ぐさま海に飛び込(こ)んで、妹の船まで泳ぎ着いたのでした。そして船に上がってからは、二人で声を上げて嘆(なげ)き悲しみました。
 そうしているうちに舟は、浮きつ沈みつ、波の間(ま)に間(ま)に漂(ただよ)いながら、宮古の漲水の港に着いたのでした。
 兄妹(きょうだい)は、手に手を取り合って上陸し、その足で直ぐ、霊山嶽(れいさんたけ)にお詣(まい)りして、お祈りしました。
 その夜、舟の疲れで兄妹は、ぐっすり寝込(ねこ)みましたが、お祈りした甲斐(かい)あって、夢のお告(つ)げがありました。
 「お前たちは、少しも悪い事などしていないのに、この島に流されてきた。何(なん)と気の毒な事だろう。ついては、東仲宗根に船立地があるので、直(す)ぐさま其(そ)の地に行って、暮らしなさい。」
 眼を覚(さ)ました二人は、お互(たが)いが見た夢の話をすると、不思議な事に二人とも同じ夢なのであり、寸分(すんぶん)(たが)うことがなく、深く感謝しながら船立地に行ってみました。
 するとそこは、夢のお告げにあったように、この上なく住みよい土地であり、二人は早速(さっそく)、家を造って住み、朝、早くから、夜、星が出る頃まで、骨身(ほねみ)を惜(お)しまず、働きました。
 また、村人たちのため、ある時は山で薪(たきぎ)にする木を伐(き)り、また、水を引いたりして、人々のために善(よ)い行(おこな)いを次々にしました。
 そのうちに、隅屋の里、兼久(かねく)世の主(あるじ)は、この兄妹のことを耳にし、やがて、その妹の勝(すぐ)れた才能.と美しい容姿(ようし)を深く慕(した)うようになり、「是非(ぜひ)、わたくしの妻になって下さい。」と申(もう)し入れました。そして二人は目出度(めでた)く、夫婦の契(ちぎり)を結びました。
 その後、二人は仲(なか)よく暮らし、男の子が、次々に九人も生まれましたが、子供達は皆(みな)、揃(そろ)いも揃って人情が厚(あつ)く細(こま)やかな上に、容貌(きりょう)は、人並(ひとな)み優(すぐ)れて美しかったそうです。
 やがて、子供達が大きくなった時、母の里の祖父の事を思い、船を雇(やと)って、両親を伴(ともな)って久米島に行きました。
 船が岸に着いて早速(さっそく)、祖父の家を訪(たず)ねました。積もる話を色々としているうちに、祖父もすっかり打ち解(と)けて、孫達の話を何よりも喜んで聞いていました。
 しかしながら、そんな和(なご)やかな日々が、いつまでも永(なが)く続(つづ)く筈もなく、皆(みな)が島に帰る日がやって来ました。
 祖父は、名残(なごり)り惜(お)しさから、鉄綱(てっこう)と鉄匠秘書(てっしょうひしょ)を、孫達に授(さず)けて帰しました。
 ちなみに宮古島には、元々、鉄鋼(てっこう)がなかったため、僅(わず)かばかりの牛や馬の骨を、農具の材料にしていました。
 何といってもそんな幼稚(ようち)な農具では、思うように仕事が出来るわけもなく、そのため、昔から農作物が豊(ゆたか)な土地ではなく、屡々(しばしば)、飢餓(きが)に見舞(みま)われる事も少なくない有様(ありさま)でした。
 そのような処(ところ)に、祖父から貰(もら)った鉄で、農具を造っては、近所の百姓達に与えたので、目に見えて、百姓達の働きぶりは良くなり、また農作物もどんどん出来が良くなっていきました。
 五穀(ごこく)が豊(ゆたか)に実(みの)り、田畑(たはた)の仕事を、百姓の人々は何よりの喜びとするようになり、より一層、精(せい)を出(だ)すようになっていきました。
 その後、兄妹たちが病気で亡(な)くなると、村中(むらじゅう)の人々は、こぞって、その恩(おん)を深く感じ、その死骸(なきがら)を、船立山に葬(とむら)い、神嶽(しんごく)として尊(たっと・とうと)び、信心(しんじん)したということです。


※註
~昔の鉄材と農具と文化との関係・・・・・・くろがね(鉄)を持ち帰ると、兄弟は船立山で鍛治(かじ)を始(はじ)め、鍛鍬などの農具を造り出したため、農耕の業が開け、世間一般は豊作(ほうさく)となった。これより先、伊良部島長山御嶽(うたき)の神が、大和から鉄を持って渡来(とらい)し、農具を製造した事があったが、まだ全ての需要(じゅよう)を充(みた)すまではいかず、やはり以前からの牛馬(ぎゅうば)の骨などで耕し(たがや)している農民が圧倒的に多かった。そこで五穀も、長きにわたって不作(ふさく)になりがちであったところ、農具が充分(じゅうぶん)に製出(せいしゅつ)されるようになって、は収穫(しゅうかく)が格段(かくだん)増した。彼(か)の兄妹は、鍛治(かじ)の神、農耕の恩人(おんじん)として崇(あが)められるようになり、兄妹の没後(ぼつご)、船立山に葬(ほうむ)られて御嶽(うたき)が建てられ、兄はカネドノ、妹はシラクニヤスツカサと称(しょう)されたが、これが東仲宗根の船立御嶽である。毎年、旧十一月八日には、島内(とうない)の鍛治屋(かじや)、及(およ)び、大工等(だいくなど)はじめ、鉄器を取り扱(あつか)う仕事にある者達は、家畜を殺して供(そな)え、御嶽、及び、自宅で、盛大(せいだい)なフイゴ祭を行っている。(宮古史伝)



Posted by 横浜のtoshi





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