~琉球沖縄に伝わる民話~

『球陽外巻・遺老説伝』より、第87話。


崎山の嶽(さちやまのたけ)


 むかし、首里に崎山里主(さちやまさとぅぬし)という人がいました。
 正直で、純朴(じゅんぼく)な生れつきの性格で、それに精進(しょうじん)、修養(しゅうよう)をつねに怠(おこた)らず、とうとうその徳望(とくぼう)は、他に並ぶ者がいない程(ほど)になり、ごく自然に、人々から神様のように崇(あが)められ、人々があまりにも慕(した)いました。そのために、住(す)んでいた処(ところ)まで神嶽(しんごく)として崇(あが)められようになり、この人のことを、誰もが信じるようになりました。
 これが、今の崎山御嶽(さちやまうたき)です。


※註
~崎山御嶽のことは、『琉球国由来記』にも書かれ、崎山里主は「疲之上縁起」に「権現建社勧請の由来」の中にも見えて、内容は左の通り。
 むかし、南風原(はえばる)間切(まぎり)崎山村に、崎山里主(さちやまさとぅぬし)という人物がいて、何時(いつ)も釣りを楽しんでいた。ある日、声がしたので辺(あた)りを見たが、誰もいない。そして、その時に、珍(めず)らしい石があったので、それを高い処(ところ)に安置して、言うことには、「もしも、神霊(しんれい)がいらっしゃるようでしたら、今日の釣りが意(い)の如(ごと)くなりますように。」と。そうお祈りしたところ、果(は)たしてその通り、沢山(たくさん)の魚が釣れたので、その霊石(れいせき)を家に持ち帰りました。 それからというもの、度々(たびたび)、礼拝(れいはい)を繰(く)り返していたが、ある夜、霊石が光って声がした。「この国の諸神(しょしん)は、この石を奪い返そうとしている。この石を持っていると、必ず害がその身に及(およ)ぶであろう。」と。その通り、霊石を奪い返そうと、神々が迫って来るようなで、崎山は、その石を抱いて、波之上までやって来たが、前方は海で、もう他に行く道がない。「もう、霊石を捨てるしかない。それとも、霊石を持ったまま、自分は死んでしまおうか。」と、迷っていると、「吾は、日本熊野権現(くまのごんげん)なり。汝(なんじ)に縁(えん)あり。ここを社(やしろ)とすべし。然(しか)れば、国家の守護となるべし。」と。そう、霊石からの神託(しんたく)があった。そこで崎山里主は、琉球王庁に願い出て、神社を建てた。ある日、波に揺(ゆ)られて鐘(かね)が流れ着き、撞(つ)いてみると、「ナンミン」と響くので、その鐘を崇拝(すうはい)して、神殿に安置(あんち)した。
 以上が、崎山里主と、波之上権現の記録である。戦前は、官弊小社として、尊厳(そんげん)な域だったのが、戦火によって焼け、失なったが、現在は復元して、波之上宮として、参詣人は絶え間なく、戦前に劣(おと)らず参拝(さんぱい)されている。
 
※注
【崎山里主】(さちやまさとぅぬし)物語とは別に、神託(しんたく)を受け、波上宮を建設した崎山里主の死後、その徳を称(たた)えて住居跡を御嶽としたといわれ、境内に墓と伝えられるものがある。崎山里主は1372年に琉球からの最初の明(みん)入貢(にゅうこう)を行なった察度王(さっとおう)の子とされている。



Posted by 横浜のtoshi





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