てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球沖縄(初期長編) › 新・羽衣をなびかせ、天から琉球沖縄に舞い降りた天女とは?
 羽衣伝説(はごろもでんせつ)日本各地(にほんかくち)(つた)わり、民間(みんかん)(つた)わる伝承(でんしょう)説話(せつわ)、つまり民話(みんわ)として(かた)()がれてきた(おお)くの昔話(むかしばなし)(なか)でも有名(ゆうめい)(ひと)つといえます。個人的(こじんてき)にも羽衣伝説(はごろもでんせつ)()きな種類(しゅるい)(はなし)です。

 日本(にほん)羽衣伝説(はごろもでんせつ)(もっと)有名(ゆうめい)なのは、やはり静岡県(シズオカけん)三保(ミホ)松原(マツバラ)(つた)わる(はなし)でしょう。

 羽衣伝説(はごろもでんせつ)は、神々(かみがみ)世界(せかい)から人間(にんげん)世界(せかい)(かみ)()りる、つまり、「天降(あまう)り」に分類(ぶんるい)される(はなし)です(天人(てんにん)女房(にょうぼう)(たん)とも)。あるいは、天女昇天(てんにょしょうてん)説話(せつわ)などとも言います。

 その(もっと)(ふる)(はなし)となると、『風土記(フドキ)』の逸文(いつぶん)、『近江国(オウミのクニの)風土記(フドキ)』と『丹後国(タンゴのクニの)風土記(フドキ)』にあります。また、平安時代(へいあんじだい)中期(ちゅうき)()かれた、現存(げんぞん)する最古(さいこ)物語(ものがたり)である『竹取物語(たけとりものがたり)』、つまり、かぐや(ひめ)物語(ものがたり)もまた、天降(あまう)り、天女昇天(てんにょしょうてん)(はなし)です。

 羽衣伝説(はごろもでんせつ)は、ときに天女(てんにょ)白鳥(はくちょう)(おな)じと(かんが)えられてきたため、「Swan maiden(スワン・メイデン)」(白鳥処女伝説)として(ひろ)くアジアや世界中(せかいじゅう)(はなし)(つた)わってきました。

 琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)にもまた、(いま)(つた)わる素適(すてき)羽衣伝説(はごろもでんせつ)があります。(じつ)数多(かずおお)くの(はなし)があるのを、みなさんはいくつご存知(ぞんじ)でしょうか。

 そこでまず、調(しら)べて私が訪れてきた場所を(なら)べてみることにします。

琉球王朝(りゅうきゅうおうちょう)~2つの伝説(でんせつ)
喜界島(キカイジマ)奄美諸島(アマミしょとう)
徳之島(トクノシマ)奄美諸島(アマミあまみしょとう)。2つの伝説(でんせつ)
沖永良部島(オキノエラブジマ)奄美諸島(アマミしょとう)
与論島(ヨロンジマ)奄美諸島(アマミしょとう)
多良間島(タラマジマ)宮古諸島(みやこしょとう)
尻間御嶽(シシマうたき)宮古島(ミヤコジマ)平良(ヒララ)
目利眞御嶽(メリマうたき)宮古島(ミヤコジマ)下地(シモジ)川満(カワミツ)
御宿井(ウスクガー)沖縄本島(おきなわほんとう)南風原(ハエバル)宮城(ミヤグスク)
久場塘(クマドウ)沖縄本島(おきなわほんとう)与那原(ヨナバル)
烏帽子井(ユブシガー)沖縄本島(おきなわほんとう)西原(ニシハラ)我謝(ガジャ)


 以上(いじょう)は、(わたくし)(いま)まで調(しら)べた(うえ)実際(じっさい)()ってきた(ところ)です。このように、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)には本当(ほんとう)沢山(たくさん)羽衣伝説(はごろもでんせつ)があるのが、わかって(いただ)けるのではないかと(おも)います。まさに琉球(りゅうきゅう)羽衣伝説(はごろもでんせつ)もまた、先祖(せんぞ)から子孫(しそん)(つた)わる(たから)の一つです。

 では早速(さっそく)、もう少し具体的(ぐたいてき)に見ていくことにしましょう。

 二つある、琉球國(りゅうきゅうこく)王府(おうふ)(つた)わる羽衣伝説(はごろもでんせつ)の一つが、森之川(ムイヌカー/モリのカワ)伝説(でんせつ)です。

 この(はなし)は、察度王(サット・おう)()まれにまつわる(はなし)です。琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)で、(もっと)有名(ゆうめい)羽衣伝説(はごろもでんせつ)と言えるでしょう。察度(サット)という人物(じんぶつ)は、按司(あじ/あんじ)といわれる諸侯(しょこう)達に()されて、1394年に中山王(ちゅうざんおう)になったとされる人物(じんぶつ)です。また三国時代の中山(ちゅうざん)(はじ)めて、中国(ちゅうごくの)当時(とうじ)(くに)(みん)国交(こっこう)(むす)んだとされています。現在(げんざい)宜野湾市(ギノワンし)大山(オオヤマ)に、むかし浦添間切(ウラソエまぎり)謝名村(シャナそん)がありました。

 そこに、農民(のうみん)であった察度(サット)(ちち)奥間(オクマ)大親(うふや)がいましたが、(あま)りに(まず)しい()らしのために(よめ)をとることができませんでした。ところがそんな奥間(オクマ)大親(うふや)絶世(ぜっせいの)美女(びじょ)である天女(てんにょ)夫婦(ふうふ)になって、二人の(あいだ)察度(サット)()まれるという(はなし)(つた)わります。つまり、察度(サット)(はは)天女(てんにょ)なのであり、粗筋(あらすじ)はこうです。

 畑仕事(はたけしごと)(かえ)りに、奥間(オクマ)大親(うふや)は、天女(てんにょ)水浴(みずあ)びしているのを見て、羽衣装(はにんす)別名(べつめい)飛衣装(とぅびんす)(かく)してしまいます。天女(てんにょ)(ころも)がなくなって(てん)(かえ)ることができなくなって(こま)()てていると、何食(なにくわ)(かお)奥間(オクマ)大親(うふや)(やさ)しく(こえ)()け、(いえ)()(かえ)ってやがて夫婦(ふうふ)になります。やがて一男一女(いちなんいちじょ)()まれて何年(なんねん)かが()ったある()のこと、羽衣装(はにんす)()つけた天女(てんにょ)は、一人(ひとり)(てん)へと()()がり、()()るという(はなし)です。

※「羽衣」という表記について~「羽衣装」や「「羽衣」などという表記などがあります。本土での発音が「はごろも」なのに対して、琉球では「はにんす/ハニンス」。また同様に、「飛衣装」や「飛衣」なども「とぅびんす/とびんす/トゥビンス/トビンス」などと発音します。

 あくまで作られた物語(ものがたり)であり、時代(じだい)()(なか)現在(げんざい)とは(ちが)いまますが、(はなし)はできるだけそのまま(かん)じるのがよさそうです。

 とはいえ、それにしても実際(じっさい)にはどんな(こと)があって、それが(はなし)となって(いま)(つた)わってきたのかを(かんが)えると、なかなか想像(そうぞう)()()てられる意味深(いみぶか)面白(おもしろ)(はなし)なのでないでしょうか。それが琉球國(りゅうきゅうこく)国書(こくしょ)()てくる羽衣伝説(はごろもでんせつ)の一つなのです。

 この羽衣伝説(はごろもでんせつ)舞台(ぶたい)は、宜野湾市(ギノワンし)西(にし)真志喜(マシキ/マシチ)森川(モリカワ)森川公園(モリノカワこうえん)真志喜(マシキ/マシチ)のムンヌカーと()ばれる(いずみ)があり、そこに(つた)わる伝説(でんせつ)です。

※注「天女は果たして誰か?」中山(ちゅうざん)国の察度(さっと)王統(おうとう)は、浦添按司の察度(さっと)が建てた王統で、二代続きます。この察度(さっと)出自(しゅつじ)にまつわる話がこの有名な天女伝説で、察度(さっと)は、真志喜(マシキ)大主(うふしゅ/うふぬし)の養子の奥間(オクマ)大親(うふや)と天女から生まれたことになっています。この天女とは、5代続いた英祖王統(えいそおうとう)の3代英慈(えいじ/エージ)王(恵慈王とも)の次女、真銭金(マジニガニ)ともいわれます。英慈(えいじ/エージ)亡き後、兄弟間を中心にしてかなりの大きな争いがあったようです。その結果、王位は4代玉城(たまぐすく)王が()ぐことになります。英慈(えいじ/エージ)には、長男・浦添王子、次男・西原王子、三男・中城王子、四男・玉城(たまぐすく)王子、五男・越来王子、長女・真亀金、次女・真銭金(マジニガニ)がいたとされ、正子(せいし)をはじめとする兄たちを差し置いて四男の玉城(たまぐすく)王子が王になるという、琉球沖縄の歴史からみても異例(いれい)なことが起こり、継承争(けいしょうあらそ)いが並々(なみなみ)ならぬものであったことが推察(すいさつ)できます。恐らくそのために真銭金(マジニガニ)は、(あらそ)いを()けて浦添にやってきて、奥間(オクマ)大親(うふや)(かくま)ったのでしょう。あるいは、一緒に逃げて来たことも考えられます。従って、話の中の羽衣(はごろも)は、王族の姫の高価な着物なのではないかと個人的には考えています。その後、夫婦になって子どもができた奥間(オクマ)大親(うふや)真銭金(マジニガニ)でしたが、別れてそれぞれ再婚したようです。真銭金(マジニガニ)は大里按司と再婚して多和田ヌルと称し、長男・承察度(しょうさっと)と次男・汪英紫(おうえいじ)(下之世主)を産みました。この長男の承察度(しょうさっと)はやがて大里按司となって南山をまとめ、南山(なんざん)国の大里王統(おおさとおうとう)を建てます。なお、真銭金(マジニガニ)が結婚した順序の逆も考えられると思います。というのも一説には、奥間(オクマ)大親(うふや)と天女の間に一男一女が生まれたものの、天女が若くして亡くなり、奥間(オクマ)大親(うふや)は謝名村の又吉(マテーシ)の女子と再婚して三男一女が生まれたとも言われるからです。他に考えられることとして、奥間(オクマ)大親(うふや)(めと)った天女真銭金(マジニガニ)が、大里按司と再婚した多和田ヌルとは別人という可能性もあり、また今まで見てきたどこかに混同などがある可能性もあります。いずれにしても、もしも三山時代の2つの王統を建てたそれぞれの子、察度(さっと)承察度(しょうさっと)の母が真銭金(マジニガニ)だとしたら、たとえそうでないにせよ、ほとんど歴史的に無名に近い真銭金(マジニガニ)は、歴史的にもっと注目されてしかるべき人物といえそうです。

 さて、琉球國(りゅうきゅうこく)王府(おうふ)(つた)わる羽衣伝説(はごろもでんせつ)の二つ()は、第二尚氏王朝(だいにしょうし・おうちょう)(だい)(だい)国王(こくおう)尚眞王(ショウシンおう)の、あるひとりの夫人(ふじん)にまつわる(なぞ)めいた(はなし)です。

 国書には、その名が茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)の娘とある女性(じょせい)が記録されています。この女性(じょせい)出自(しゅつじ)(あき)らかでなく、()わりに天女(てんにょ)()と公的な文献に書かれているわけです。そうせざるを()なかった事情(じじょう)があったようですが、それにしても天女(てんにょ)()とは、なかなか素適(すてき)(いき)表現(ひょうげん)だと個人的(こじんてき)には感心(かんしん)してしまいます。

 伝わる話はこうです。

 茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)という農夫が、六月の雨期に天下井戸(アモリガー)で髪を洗っている天女を発見し、飛び衣(とびんす)を隠したため、天女は天へ昇れなくなってしまいます。そして茗刈子の嫁になって、姉と弟の二人の子を産みます。やがて天女は、姉が弟に歌う「泣くなよ泣くな、私たちの母親の羽衣は、稲倉の下にあるから、お前に見せてやろうね」という歌の歌詞から、飛び衣の隠し場所を知って見つけ、それを着て天に帰るお話です。

※注「天女は果たして誰か?」〜先ほど、「この女性の出自が明らかでなく」と書きましたが、多くの研究書をはじめとする書物にもそう書かれていて、その理由は、国書に茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)の娘としか書かれていないためです。そこで、このあたりをもう少し考えてみましょう。中山国の察度王統(さっとおうとう)は、察度王と息子の武寧(ぶねい/ブニー)王の二代で滅びます。具体的には、尚思紹(しょうししょう)尚巴志(しょうはし)親子に武寧(ぶねい)王は負けて、中山国(ちゅうざんこく)を失いました。そのため武寧(ぶねい)王の子ども達は各地に散ってゆくことになります。武寧(ぶねい)王の五男が浦添親方という人物で、天久(あみく/あめく)村で隠遁(いんとん)して暮らしたともいわれています(屋号は原川(ハルガン))。この浦添親方の長男が茗刈(ミカル/メカル)里主という人物で、その茗刈(ミカル/メカル)里主(さとぅぬし)の長男がこの話の茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)なのであり、天女を妻にして娘が生まれたことになっているわけです。この天女とは、尚徳王(しょうとくおう)(いもうと)聞得大君(ちぃふぃじん/ちぃふぃうふじん)だった人物ともいわれています。兄である王のための、をなり神であるべき聞得大君という神に(つか)える立場上、その後の国の神女体制の維持のために名前が()せられたとしたら、当然のことと言えます。また、尚徳王(しょうとくおう)といえば、第一尚氏王統、最後の王であり、第二尚氏王統からすれば、第一尚氏王統の末裔(まつえい)を王の妻に迎えたために出自(しゅつじ)(かく)したかったという思惑(おもわく)があったのかも知れません(ただ、尚眞王の時代あたりから、第二尚氏王統は、第一尚氏王統やそのゆかりの人々を王府に向かい入れる方針に転換しています)。いずれにせよ、第一尚氏王統が滅亡した時から後、金丸こと尚圓王によって、第一尚氏王統とそのゆかりの者達が次々と粛清(しゅくせい)されていった中、尚徳王(しょうとくおう)(いもうと)茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)(かくま)った、あるいは、伊是名島の銘苅御殿に預けられることになったのでしょう。そしてやがて茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)の妾になったようです。なお余談ですが、伊是名島の銘苅御殿と天久(あみく/あめく)村銘苅はとても深い関連があるようです。天久(あみく/あめく)村にある銘苅墓跡群の中心に、最大規模の亀甲墓(かめこうばか/キッコウバカ)があって、伊是名殿内(いぜなどぅんち)といいます。伊是名殿内は、1800年代初頭に、伊平屋間切(伊平屋島と 伊是名島)の総地頭家であった伊是名家の墓とされ、この間切と伊平屋間切の両方を治めたようです。ですから、様々な点で二つの地には、離れていても共通性が多いといえます。それを考慮に入れた上での仮説ですが、浦添親方の隠遁先も、茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)がいた場所も、そして尚徳王(しょうとくおう)(いもうと)が預けられたのも、伊是名島なのではないかと個人的には考えています。そして後の時代に、伊是名島に伝わる天女伝説が天久(あみく/あめく)村に伝わったのではないでしょうか。また、茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)と天女の間に生まれた真鍋樽という人物は尚眞王の夫人(ふじん)になるわけですが、伊是名から天久にすでに出て来ていたのかも知れません。なお、この伝説に出てくる羽衣(はごろも)ですが、王の妹が着た高価な着物とも考えられるものの、神職者が着る透けた神衣(しんい)をいっているのではないかとも考えられます。いずれにせよ結果的には、茗刈子(ミカルシィ/メカルシィ)尚徳王(しょうとくおう)(いもうと)との間に生まれた(むすめ)真鍋樽は、尚眞王(ショウシンおう)夫人(ふじん)となったものの、その出自が何らかの理由で公的には隠されました。そして、尚眞王(ショウシンおう)夫人(ふじん)の間には、佐司笠按司加那志(サシカサアジガナシ)という娘が生まれました。佐司笠按司加那志(サシカサアジガナシ)茗刈殿内(メカルドゥンチ)と称し、茗刈殿内(メカルドゥンチ)湧川殿内(ワクガードゥンチ)の美里王子朝易に(とつ)いだため、茗刈殿内(メカルドゥンチ)湧川殿内(ワクガードゥンチ)(まつ)られることになります。

 この羽衣伝説(はごろもでんせつ)舞台(ぶたい)は、那覇市(ナハし)おもろまち銘苅(めかる)にあります。戦後(せんご)アメリカに(なが)(あいだ)占領(せんりょう)され、返還後(へんかんご)(あた)らしく()まれ()わってできた新都心(しんとしん)(なか)に、(いま)大切(たいせつ)(いずみ)(のこ)されています。一方で殆どの文献には、アメリカの占領(せんりょう)時に破壊されたとあります。しかし事実は異なるようです。想像の域を越えませんが、アメリカ占領(せんりょう)時代(じだい)、大変な思いをして銘苅の人々は自分たちの大切な場所であると訴えて、基地内に入れてもらい、ずっと大切に泉を守ってきました。(いま)(いた)るまで、地元(じもと)銘苅(めかる)人々(ひとびと)によって、とても大切(たいせつ)保存(ほぞん)されています。看板や案内板は一切なく、興味本位(きょうみほんい)観光目的(かんこうもくてき)の人、各種宗教団体やユタを(こば)み続けてきました。琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)(ただ)しい歴史(れきし)(まな)んでいない(もの)()()るべき場所(ばしょ)ではないと、研究者としての立場からもそう(かんが)えています。あくまでこの神聖な場所は、銘苅(めかる)の人々のための場所なのであり、それ以外の人々が勝手な自己都合や興味本位で立ち入る場所ではありません。地域の御嶽(うたき)拝所(うがんじゅ)の多くは、本来、そういうもののはずです。井戸の名は「スグルクガー、シグルクガー(直禄井)」といいます。

 さて(つぎ)の話が、奄美大島(あまみおおしま)(とな)りにある、喜界島(キカイジマ)羽衣伝説(はごろもでんせつ)です。なんといっても注目(ちゅうもく)されるのが、羽衣(はごろも)である飛衣装(とぅびんす)そのものが(のこ)されている(てん)です。

 琉球國時代(りゅうきゅうこくじだい)(むかし)(むら)祭祀(さいし)()(おこな)う、地域(ちいき)(おさ)める祝女(ノロ)といわれる神官(しんかん)が、国から任命され、その職は世襲制(せしゅうせい)でした。ただ神官(しんかん)とはいうものの、琉球國(りゅうきゅうこく)祝女(ノロ)の場合ですから、祭祀(さいし)を通して地域を治めるのが目的のため、地域を治める大名のような存在ともいえます。()()けた祝女(ノロ)祭祀(さいし)衣装(いしょう)が羽衣として道具(どうぐ)と共に(のこ)されています。それらは先祖代々(せんぞだいだい)(つた)えられて子孫(しそん)大切(たいせつ)(まも)ってきました。長年、蒲生(がもう)集落の栗原家(くりはらけ)奥深(おくふか)くにしまわれ、(けっ)して人目(ひとめ)()れる事がなかったため、かつては(しま)(もの)でも()(ひと)(ほとん)どいなかったとか。それでも衣装や装具などは時々外に出されて風を通されたため、それを目にした人はいたそうで、いずれにせよ長い間、大切に保管されてきました。品々(しなじな)の中の衣類が天女(てんにょ)羽衣(はごろも)と伝わってきた(神事を司る祝女(ノロ)の神具である衣類が羽衣として伝わってきた)わけですが、現在それは、喜界島民俗資料館の2階から渡り廊下をへた別館2階で見る事が可能です(「飛衣(とびんす)羽衣(はにんす)」)。天女伝説に関わることでは、蒲生(がもう)集落の中心の小さい森には、天女伝説由来(ゆらい)の天降神社があります。なお、喜界島には、集落(ごと)に羽衣伝説があるともいわれ、沢山(たくさん)の天女由来に関わる場所があります。天女の泉や、天女二人が舞い降りたとされる岩もあります。その岩にはガジュマルなどの木々が生い茂り、マンジョ(天女)()と呼ばれ、その一帯は、どこまでも続く()()ぐな有名な道とサトウキビ畑が広がり、高い木が(ほとん)どない場所のため、遠くからでもよく見えます。塩道の三原の田んぼの中の岩に兄妹二人が天降(あまう)りし、妹だけが岩から降りて坂を下りました。すると、蒲生(がもう)山裾(やますそ)綺麗(きれい)な泉があるのを見つけて、そこで水浴(みずあ)びをしていたところ、飛衣(とびんす)を男に取られてしまいます。そしてその男の妻になり、生まれた子どが歌う歌詞で、飛衣のありかを知ることになります。

 先祖(せんぞ)から(つた)わる(はなし)(かんが)えや(もの)などを、後世(こうせい)子孫(しそん)大切(たいせつ)(まも)って(つた)えていく、それは特別(とくべつ)なことでもなんでもなく、()たり(まえ)にかつては(おこな)われてきた(ひと)(いとな)みですが、(いま)ではつい(わす)れられがちです。天女の羽衣が今に伝わり、その現物(げんぶつ)()の当たりにした私は感無量(かんむりょう)でした。しかも偶然、奇跡的に見つけたのですから、まるで羽衣に呼び寄せられたとしか思えませんでした。なお色々と親身に相談にのってくださったのが、隣接(りんせつ)する喜界町図書館の職員の方々。資料や情報を、親切に色々と調べて下さったり、教えて下さったり、コピーを取って下さって、みなさんが本当に親切でした。またそこにいた志戸桶(しとおけ)集落の男の子が、広い図書館内の本の配置をよく知っていて案内してくれたり、喜界島にまつわる伝説を次々に話してくれるのには(した)()きました。

 さて本題に戻して、(はなし)(すじ)(ほう)ですが、嘉鈍(カドン)という(むら)天女(てんにょ)()()ります。そして3人の()どもが()まれ、やがて羽衣(はごろも)()つけた天女(てんにょ)が、()ども(たち)(とも)(てん)(のぼ)っていきます。ところが(かえ)ってみると(てん)様子(ようす)以前(いぜん)とすっかり()わってしまっていたという(はなし)です。

 次に、やはり奄美大島の隣りの島の物語。奄美(アマミ)群島の徳之島(トクノシマ)羽衣伝説(はごろもでんせつ)には、アモレ天人女房(てんにんにょうぼう)(はなし)と、トゥピギンマイギン伝説(でんせつ)があります。

 アモレの(はなし)は、伊仙町(いせんちょう)耳付(ミンツキ)という場所(ばしょ)の話で、田袋(※注~奄美でいう田)わきの(いずみ)(つた)わる天女伝説(てんにょでんせつ)があります。天女(てんにょ)はやがて、2人の()()れて(てん)(かえ)ります。すると(のこ)された(おっと)は、(つま)()(のこ)した言葉(ことば)にしたがって、(にわ)(たけ)()え、やがて(てん)までのびた(たけ)をつたって、家族(かぞく)()うために(のぼ)ってゆく(はなし)です。

 トゥピギンマイギンの話もまた、徳之島(トクノシマ)(つた)わる(はなし)です。徳和瀬(トクワセ)浅間(アサマ)のそれぞれの場所(ばしょ)()羽衣伝説(はごろもでんせつ)(つた)わり、徳和瀬(トクワセ)(はなし)は「アモラ口説(あもらくど)」といわれています。

 奄美(アマミ)沖永良部島(オキノエラブジマ)にも羽衣伝説(はごろもでんせつ)があり、天人女房(てんにんにょうぼう)として羽衣伝説(はごろもでんせつ)が伝わっています。

 沖永良部島(オキノエラブジマ)(まえ)の名前はミカル国といい、ミカル川という神々(こうごう)しく、きれいな川が流れていました。そして毎月、一日と十五日に、天のお姫様が降りて来て髪を洗う川でもありました。そのお姫様、天女アムレシシが髪を洗っていたところ、ミカエルシシメという長者が羽衣を隠し、タバコを一服、差し上げますと言って、自宅に連れて行きます。そしてタバコに縁づいてしまったアムレシシは、長者の妻となります。やがて生まれた子が五歳と三歳になった時、五歳の子が歌を唄います。そして歌の内容から、羽衣が倉にあるのを知ったアムレシシは、五歳の子を背負い、三歳の子を脇に抱えて飛ぼうとしますが、重過ぎて飛べません。仕方なくアムレシシはひとりで天上に帰って七人兄弟と会います。そして、騙されたいきさつと子ども二人の事を話し、子ども達の運命を兄弟にお願いします。そして七人兄弟が唱えるとミカル国は海に沈んでしまいますが、二人の子だけは松の木のてっぺんに登って助かります。そしてしばらくすると島は再び浮き上がり、二人の子は地面に降りて暮らします。そしてそれからは、欲しい物は天にお祈りすれば出てくるようになり、この島を「沖イラブ」と名付けたという筋書(すじが)きになっています。(※タバコで天女を誘うというのが、近年の沖永良部に伝わる民話の傾向ですが、古い昭和15『おきえらぶ昔話』岩倉市郎著「78天人女房」などではタバコ記載は無い)

 奄美(アマミ)与論島(ヨロンジマ)にも羽衣伝説(はごろもでんせつ)があります。島の農耕の起元とされる羽衣伝説(はごろもでんせつ)ゆかりの麦屋井(インジャゴー)という湧き水が出る場所があり、(はなし)前半(ぜんはん)が「天ヌ飛ビ衣ヌパナシ(アマヌトゥビギヌヌパナシ)」という羽衣伝説(はごろもでんせつ)で、後半(こうはん)が「天ヌ川ヌパナシ(アマヌコホオヌパナシ)」という七夕伝説(たなばたでんせつ)になっていて、内容(ないよう)はこうです。

 貴族(きぞく)(おとこ)天女(てんにょ)(あいだ)に、3人の()どもが生まれます。やがて天女(てんにょ)羽衣(はごろも)見付(みつ)けて()ぼうとします。長男(ちょうなん)背負(せお)い、長女(ちょうじょ)次男(じなん)(かか)えて()()とうとしますが、重過(おもす)ぎてどうしても()()がることができません。仕方(しかた)なく天女(てんにょ)は、()ども達に、次のように()()かせると、ひとり()()ります。
 長男(ちょうなん)は、(くに)(おさ)める(もの)になりなさい。
 長女(ちょうじょ)は、(くに)(まも)神官(しんかん)になりなさい。
 次男(じなん)は、(ちち)ミカドゥの()(とお)りにしなさい、と。

 さて、宮古島(ミヤコジマ)には羽衣(はごろも)伝説(はごろもでんせつ)が、二つあります。

 尻間御嶽(シシマ・うたき)羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)ほど、(かな)しい伝説(でんせつ)を、私はあまり他に知りません。

 (おさな)(おんな)()(はは)()んでしまいます。性悪(しょうわる)の女が後妻(ごさい)となり、(おっと)(かく)れて継子(ままこ)いじめ。(なん)(つみ)もない(おさな)(おんな)()は、散々(さんざん)いじめ()かれた挙げ句(あげく)最後(さいご)には、継母(ままはは)によって、洞窟(どうくつ)()()とされます。(おんな)()()ちて(うご)けないまま(くる)しみ(つづ)けて、数日後(すうじつご)に見かねた(かみ)(あら)われて、(やさ)しく()(かか)えて昇天(しょうてん)する(はなし)です。

 実際(じっさい)()こったことを、(こころ)ある人々(ひとびと)(あわ)れんで、供養(くよう)のため、きっとこの(はなし)として(のこ)したのでしょう。勿論(もちろん)二度(にど)(ふたた)びそんなことが()こらないようにとの(いの)りがこもっている(はなし)だと思えてなりません。(なみだ)なくして、(つた)えることも、()くこともできない、地域(ちいき)()まれて根付(ねづ)いた(はなし)です。個人的(こじんてき)には、日本(にほん)民話(みんわ)(なか)(もっと)(かな)しい物語(ものがたり)に思え、だからこそ(けっ)して(わす)()られてはならない、(かた)()がれなければならない物語(ものがたり)(かんが)えます。尻間御嶽(シシマ・うたき)は、平良市役所(ヒララ・しやくしょ)()かいにある、平良図書館(ヒララ・としょかん)敷地内(しきちない)にあります。なお図書館(としょかん)のある建物の2(かい)観光課(かんこうか)で、近隣(きんりん)御嶽(うたき)マップが(いただ)けます。

 宮古島(ミヤコジマ)の、下地(シモジ)川満(カワミツ)にもまた御嶽(うたき)がいくつもあり、それらは地域(ちいき)方々(かたがた)によってとても大切(たいせつ)にされてきました。その(なか)の一つ、目利眞御嶽(メリマうたき)羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)は、こんな(はなし)です。

 女神(めがみ)が、四人の()どもを()みます。(つぎ)に、()(おぼ)えがないのに、三女(さんじょ)(おとこ)()()み、やがてその特異(とくい)()が、祖母(そぼ)(はは)一緒(いっしょ)昇天(しょうてん)する(はなし)です。

 宮古諸島(みやこしょとう)の、宮古(ミヤコ)石垣(イシガキ)中間(ちゅうかん)にある多良間島(タラマジマ)にも、羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)があり、それがニヌパブスと、ンマヌパブスの(はなし)です。内容(ないよう)は、中国(ちゅうごく)(むかし)伝説(でんせつ)として有名(ゆめい)七夕(たなばた/しちせき)伝説(でんせつ)融合(ゆうごう)した(はなし)です。

 羽衣(はごろも)()つけた天女(てんにょ)(はは)は、2人の()どもを()いて()ぼうとしますが、(おも)くて()べません。(あきら)めた天女(てんにょ)は、夫である父親(ちちおや)()どもを(あず)けて()()ります。やがて(ちち)()どもたちを()れて(てん)まで()んでいきますが、(つま)()つけることができないという(はなし)です。

 ところで、そもそも中国の七夕伝説(たなばたでんせつ)は、(とお)(むかし)に伝わった元々は中国の話で、日本中(にほんじゅう)にも(ひろ)まって人々(ひとびと)(こころ)浸透(しんとう)してきたため、(いま)では日本(にほん)伝説(でんせつ)だと勘違(かんちが)いしている(ひと)がいるほど日本では有名(ゆうめい)な物語です。(もと)中国(ちゅうごく)の古い伝説(でんせつ)で、牽牛星(けんぎゅうせい)織女星(しょくじょせい)(はなし)です。日本(にほん)では織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)(はなし)として有名です。話はアジア各地(かくち)(ひろ)(つた)わりました。この男女(だんじょ)悲恋(ひれん)物語(もんがたり)自然(しぜん)()()れられる精神文化(せいしんぶんか)を特にアジアの人々(ひとびと)(もっ)っていたためなのでしょう。

 では(つぎ)に、(ふたた)沖縄本島(おきなわほんとう)の話に(もど)って、琉球王府(りゅうきゅうおうふ)に伝わる伝説(でんせつ)以外(いがい)の、地域(ちいき)(つた)わる羽衣伝説(はごろもでんせつ)()ていくことにしましょう。

 南風原(ハエバル)宮城(ミヤグスク)現在(げんざい)宮城農村公園(ミヤグスクのうそんこうえん)(ちか)くに、御宿井(ウスクガー)羽衣(はごろも)伝説(はごろもでんせつ)があります。また(ちか)くの宮城公園(ミヤグスクこうえん)には、この伝説(でんせつ)についての解説(かいせつ)()や、(かべ)にこの(はなし)()(えが)かれています。

 この(はなし)では、天女(てんにょ)(てん)(かえ)ることなく()くなります。(おとこ)天女(てんにょ)(あいだ)には一男(いちなん)一女(いちじょ)()まれ、やがて(おとこ)()宮城(みやぐすく/みゃーぐすぃく/なーぐしく・)地頭(じとう)(しょく)()き、(おんな)()祝女(のろ)(しょく)(さず)かったとあります。

 与那原(ヨナバル)久場塘(クバドウ/クバトウ/クマドウ/コバダウ)は、南風原(ハエバル)天女(てんにょ)(てん)(かえ)ろうとしたところが(もど)れず、ここまで()()びてきて()(かく)した御嶽(うたき)といわれています。駐車場(ちゅうしゃじょう)一角(いっかく)御嶽(うたき)があります。なお、南風原(ハエバル・)宮城(ミヤグスク)久場塘(クバドウ/クバトウ/クマドウ)(ごく)があり、その(ごく)(した)御宿井(ウスクガー)があると()かれた史料(しりょう)もあり、久場塘(クバドウ/クバトウ/クマドウ)という御嶽(うたき)、ないし、(ごく)両方(りょうほう)にあったとも、あるいは、いくつかの(はなし)()ざったとも色々(いろいろ)(かんが)えられ、まだまだ研究(けんきゅう)余地(よち)がありそうです。

 烏帽子井(ユブシガー/エボシガー)にも羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)があります。中頭郡(ナカガミぐん)西原町(ニシハラちょう)我謝(ガジャ)北西(ほくせい)運玉森(ウンタマムイ)(ふもと)に、拝井泉(うがみがー)である烏帽子井(ユブシガー/エボシガー)があります。

 この(いずみ)にまつわる羽衣(はごろも)伝説(はごろもでんせつ)は、天女(てんにょ)()どもたちを(かか)えて、(てん)(かえ)っていく(はなし)です。

 なお、この烏帽子井(ユブシガー/エボシガー)は、かつて聞得大君(ちぃふぃじん/ちぃふぃうふじん)加那志(がなし)(※)祭祀(さいし)(おこな)った場所(ばしょ)でもあります。

 以上(いじょう)が、色々(いろいろ)みてきましたが、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)(つた)わる素適(すてき)羽衣伝説(はごろもでんせつ)数々(かずかず)です。


※注~聞得大君(ちふぃじん/ちぃふぃうじん/ちぃふぃうふじん/きこえのおおきみ/きこえおおぎみ)。異名は、「とよむせだかこ」(※「とよむ」~「世に名が知られている~「せだかこ」~「霊力が強い人」の意)

※注~加那志(がなし/じゃなし)。加那志や加那志前(がなしーめー)は、尊称・敬称の接尾辞。聞得大君に接尾辞が付くと、聞得大君加那志(ちふぃうふじん・がなし)

※注~琉球國(りゅうきゅうこく)成立(せいりつ)すると、それまで諸侯(しょこう)()であった「按司(あじ/あんじ)」は、王族(おうぞく)(くらい)の一つに変化(へんか)していきます。そして、第二尚氏(だいに・しょうし)時代(じだい)には、王子(おうじ)(つぎ)(くらい)となり、そしてまた、王妃(おうひ)王女(おうじょ)なども按司(あじ)()ばれるようになり、女性(じょせい)場合(ばあい)はよく「加那志(がなし)」の敬称(けいしょう)がついて、「・・・・・・按司加那志(あじ・がなし)」と()ばれたりしました。なお、国王(こくおう)がなくなると、王妃(おうひ)最高(さいこう)神女(しんにょ)である聞得大君(ちふぃうふじん)にしばしば(えら)ばれて、「聞得大君加那志(ちふぃうふじん・がなし)」と()ばれました。なお聞得大君(ちふぃうふじん)最高(さいこう)神女(しんにょ)になったのは、主に第二尚氏(しょうし)王統(おうとう)からのことで、それ以前(いぜん)は「阿応理屋恵(あふりやえ)」、その(まえ)は「佐司笠(さしがさ)」が最高(さいこう)神女(しんにょ)でした。


 天女(てんにょ)(かん)しては、その(ほか)に、浦添城(ウラソエ・ぐすく)天女(てんにょ)(なげ)きの(はなし)があり、そのため浦添城(ウラソエ・ぐすく)は「羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)(しろ)」とも()ばれます。

 また沖縄で、天女(てんにょ)というと、()(さき)に「天女橋(てんにょばし)」を(おも)()かべる(ひと)(おお)いはずです。

※注~「天女橋(てんにょばし)
 首里城(しゅりじょう/すいグシク)横の円覚寺(えんかくじ)(まえ)に、円鑑池(えんかんち)という有名(ゆうめい)(いけ)があります。首里城(しゅりじょう/すいぐすく)円覚寺(えん)からの、()(みず)雨水(あまみず)(あつ)める仕組(しく)みの(おお)きな(いけ)です。円鑑池(えんかんち)は、第二尚氏(しょうし)王統(おうとう)の第3代国王(こくおう)尚眞王(しょうしんおう)が1502年に(つく)りました。円鑑池(えんかんち)から(あふ)れた(みず)(とな)りの、より(おお)きな龍潭池(りゅうたんいけ)(なが)()仕組(しく)みです。龍潭池(りゅうたんいけ)は15世紀(せいき)尚巴志王(ショウハシ・おう)(つく)ったとされ、尚眞王(しょうしんおう)が増水しないように水量調節のため、城(がわ)円鑑池(えんかんち)を造りました。
 円鑑池(えんかんち)には(しま)(つく)られ、有名(ゆうめい)弁財天堂(べんざいてんどう)があります。この中之島(なかのしま)にかかっている(はし)が、かの有名(ゆうめい)な「天女橋(てんにょばし)」で、琉球(りゅうきゅう)石灰岩(せっかいがん)による切石積(きりいしづ)みで(つく)られた、現存(げんぞん)する日本(にほん)(もっと)(ふる)中国式(ちゅうごくしき)アーチ(ばし)です。欄干(らんかん)には見事(みごと)(はす)彫刻(ちょうこく)などが(ほどこ)され、最初(さいしょ)(つく)られた(とき)観蓮橋(かんれんきょう)という()でした。高麗(こうらい)の国から贈られた「方冊蔵経」(高麗版大蔵経)(おさ)めるため、1502年に円鑑池の中之島に経堂(きょうどう)が造られ、同時に観蓮橋(かんれんきょう)が造られましたが、1609年に薩摩藩の琉球侵攻により経堂は破壊(はかい)されてしまいました。1621年に弁財天を(たてまつ)る堂として新たに建てられてから橋は新たに天女橋と()ばれるようになりました。


 色々(いろいろ)とみてきましたが、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)には、羽衣(はごろも)伝説(でんせつ)はじめ、天女(てんにょ)にまつわる(はなし)(かぞ)えきれないほど沢山(たくさん)(つた)わってきました。

 ですから、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)には伝統的(でんとうてき)に、(いま)(むかし)天女(てんにょ)()まれ()わりのような女性(じょせい)(おお)いのだと個人的にはそう(おも)っています。

そのむかし、
  琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)(そら)を、
    羽衣(はごろも)(なび)かせ、
      縦横無尽(じゅうおうむじん)に、
        天女(てんにょ)たちが、()け巡(めぐ)っていた・・・・・・



 そんな夢見心地(ゆめみごこち)に、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)(おお)きな(そら)(なが)(なお)してみるのは、いかがでしょうか。


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仲本勝男さま、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

琉球だけで、恐らくこれ以上あって、
伝わって残っているだけで、たくさんあるので、整理してみました。

僕は、仲本さんと沖縄に昇る初日を見ながら、いつも見ようとしてるんですが。

今まで、沖縄で風に吹かれながら旅し、
天女が見えないかな、会えないかなと、ずっと探し求めてきたんですが、
そろそろ違うところを探そうかと(笑)
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年11月03日 06:31


toshiさん
こんなたくさんの羽衣1ダースも神様はお造りになったのですかね。
帰る時に羽の布ですか?。考えてみると昔の人も雲の上を見たくて
ねむレズ夢に空を飛ぶことを考えたのですかね。昔の人の夢が
実現して今の飛行機に変身そんな事しか考えませんでした。
こんなにも教えていただき、沖縄のものとして感謝申し上げます。
ありがとうございました。夢は実現するものですね。
Posted by 仲本勝男仲本勝男 at 2011年11月02日 23:53


ルミさん、はいさい、今日拝なびら。

羽衣伝説の中でも、特に以前から、
宮古の二つに、妙に、興味をひかれていて、
今年の夏、この二ヶ所へ行って、感無量でした。

ただ、尻間御嶽(シシマ・うたき)は、想像と違って、
図書館の裏の駐車場の一角で、名残りはありませんでした。

僕も、もう一度、行ってみたいと思った所もあります。

それから、
ちゅららの前が「龍潭池」で、円覚寺の前は「円鑑池」なんです。
僕も、以前は間違えて、「龍潭池」一つだと勘違いしていました。

実は、最近、セコムを連れて散歩に行った時に、
欄干のハスを探してみたんですが、発見できませんでした。

ええっと、天女でしたら、上のfacebookの「いいね」の下に、
それらしきアイコンが・・・・・・
Posted by 横浜のtoshi at 2011年11月02日 06:08


横浜のtoshiさん
こんばんは~

羽衣伝説…

こんなにたくさんあるんですね~

沖縄だけでも、いろいろな地域であるんですね!

その、ほとんどが愛する家族との悲しい別れがあり…

何とも切ないですね~

それと…
りゅうたん池の橋を

今度、よ~く見たいと思いましたよ。

そこは、主人が子どもの頃よく遊んだ場所で…

年に一度は 拝んだほうが良いと言われた事がありました。
数年前に一度だけ拝んだだけで…

今度拝みに行く時は、青空を仰ぎながら『天女』を想像して…
そして橋辺りに『天女の足跡?』を探してみます(笑)

ロマンチックな天女伝説
ありがとうございます。
Posted by ルミ at 2011年11月01日 19:18


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