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~琉球沖縄に伝わる民話~

新訳球陽外卷(きゅうようがいかん)遺老(いろうせつでん)』第25話

(かあそ/あし)




 (とお)(むかし)時代(じだい)琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)(あら)たな(おう)(あら)われようとする(とし)の、八月(はちがつ)から九月(くがつ)(あいだ)に、(かなら)黄色(きいろ)凉傘(りゃんさん/あふり)をさした(かみ)阿武理花嶽(あふりのはなだき)今帰仁(なきじん)間切(まぎり)謝花(じゃな)(そん)()り)()つと、()ぐさま赤色(あかいろ)凉傘(りゃんさん)をさした(かみ)公房嶽(くぼうのうたき)今帰仁(なきじん)()り)()つのでした。あるいは(ぎゃく)黄色(きいろ)凉傘(りゃんさん)をさした(かみ)公房嶽(くぼうのうたき)()つと、()ぐさま赤色(あかいろ)凉傘(りゃんさん)をさした(かみ)阿武理嶽(あふりのはなだき)()って、あるいは(ほか)場合(ばあい)では、凉傘(りゃんさん)をさした(かみ)阿武理嶽(あふりたき)国頭(くにがみ/くんじゃん)間切(まぎり)辺戸(へど/ふぃどぅ)(そん)()り)()つこともありました。
 いずれも一日(いちにち)()えたそうです。
 ()ぐさまそれぞれの(むら)人々(ひとびと)は、即刻(そっこく)琉球(りゅうきゅう)王府(おうふ)にそのことを報告(ほうこく)しました。
 その凉傘(りゃんさん)(いた)っては、多種多様(たしゅたよう)(いろ)でまさに四方(しほう)(いろど)り、その(ひか)(かがや)くさまは(けが)れなく、それが()()(だか)(そび)える(やま)()きんでて(すぐ)れた容姿(ようし)で、(やま)全体(ぜんたい)(ひかり)(おお)()くしていたそうです。
 そうして各々(おのおの)(おな)じではありませんでした。
 それがいかなる理由(りゆう)かはよくわかりません。
 十月(じゅうがつ)になると、()まって(あたら)しい(かみ)である(おう)(あら)われました。
 まさしく(かみ)である(おう)守護(しゅご)する、をなり(しん)(およ)(おう)(まも)家臣(しょしん)たちは、みんな、まるで竜宮(りゅうぐう)(ひと)のようないでたちに着飾(きかざ)って、首里城(しゅりじょう/すいぐしく)御庭(うなー)(あつ)まり、凉傘(りゃんさん・)三十(さんじゅっ)(ぽん)以上(いじょう)(たか)さは七八(じょう)ばかりで、(おお)きさは五(じょう)あまり、あるいは十二(じょう)ばかり)(なら)べて()て、(つづみ)()(なら)して(うた)(うた)い、そして神遊(かみあそ)びを()(おこな)いました。



 
※注や解説

往昔(おうせき)】~()()った(むかし)大昔(おおむかし)往古(おうこ)昔々(むかしむかし)(はる)(むかし)(いにしえ)
新神(あらがみ)(まさ)出現(しゅつげん)()】~『旧記(きゅうき)』には「君真物(きんまむん)」とあり、また、『神道記(しんとうき)』には「新神(あらがみ)(いで)(たま)ふ。君手摩(きみてずり/きみてすり)(もう)す」とある。君真物(きんまむん)女神(おみながみ/めがみ)君手摩(きみてずり)男神(おとこがみ/おがみ)とする(かんが)えがある一方(いっぽう)で、伊波普猷(いはふゆう)は、「『君』は古琉球(こりゅうきゅう)()では神女(しんにょ)()」のため、(とも)(ふる)くは女神(おみながみ/めがみ)だったとした。『由来記(ゆらいき)』には、「君真物(きんまむん)出現(しゅつげん)」や君手摩(きみてずり)両方(りょうほう)表記(ひょうき)がみられ、君真物(きんまむん)君手摩(きみてずり)同一(どういつ)ともとれる。『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には、「荒神(あらがみ)(もう)すは海神なり」とあり、また、『球陽(きゅうよう)』には「荒神(あらがみ)は海神なり」とある。なお「海神」の発音(はつおん)は「わたつみ・わだつみ・わたづみ・わたのかみ」など色々(いろいろ)だが、「つ」は格助詞(かくじょし)「の」のためほぼ(おな)じで、意味(いみ)は、(うみ)支配(しはい)する龍宮(りゅうぐう)(かみ)(うみ)(かみ)が、荒神/新神(あらがみ)である。柳田國男(やなぎだくにお)によると、琉球神道(りゅきゅうしんとう)では、浄土(じょうど)(うみ)彼方(かなた)の「儀来河内(ぎらいかない)」にあると(かんが)えられてきたとする。そこを(まも)(かみ)が「あがるいの大神(おほぬし)」で、善縄大屋子(よくつなうふやこ)海亀(うみがめ)()まれた死後(しご)(そら)(こえ)あって、儀来河内(ぎらいかない)()ったという神託(しんたく)があった(れい)などをあげている。また、琉球神道(りゅきゅうしんとう)楽土(じょうど)は、(かみ)と、(えら)ばれし(もの)()()場所(ばしょ)天国(てんごく)であると同時(どうじ)に、(ぎゃく)地獄(じごく)でもあり、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)では神鬼(しんき)共存(きょうぞん)(しん)じたとしている。「儀来」の発音(はつおん)(かん)しては、「ぎらい」の(ほか)に「にらい・にらや・にれえ・ねらや・けらい」などがある。「河内」の表記(ひょうき)には、「かない・かなや・かねや」などがある。また柳田(やなぎだ)は、国頭(くにがみ)地方(ちほう)で、儀来(ぎらい)(うみ)()があるとしている(てん)や、大宜味(おおぎみ)(そん)謝名城(じゃなぐすく)謝名城(じゃなぐすく)という表記(ひょうき)であるが、明治(めいじ)三六(ねん)(みっ)つの(むら)合併(がっぺい)してでき、(もと)(むら)()から一文字(いちもじ)ずつ()ってつけられた。つまり、根謝銘(にじゃみ)(そん)の「謝」と、一名代(てぃんなし)(そん)の「名」と、(ぐすぃく/ぐしく)(そん)の「城」。)海神祭(うんじゃみ)の、おもろ(ちゅう)、「(ねらやじゆ)()すい、(みなと)じゆ(みち)ゆい……」とある(てん)などから、「儀来(ぎらい)」の意味(いみ)を、沖合(おきあい)()すのではないかと(かんが)えた。なお、ケラマ諸島(しょとう)慶良間(けらま)が、洋中(ようちゅう)(はる)かな(しま)()で、それに(つう)ずるとした。そして「河内(かない)」は、(おき)(たい)する()で、(はま)()すのではないかとする。つまり、「儀来河内(ぎらいかない)」は、「沖から」と「辺から」という対句(ついく)一語(いちご)(かんが)えられるようになったためであり、それがやがて(かみ)(いま)する(はる)かな楽土(じょうど)という意味(いみ)になって、儀来河内(ぎらいかない)から琉球神(りゅうきゅうしん)(とき)(さだ)めて(わた)って()ると(かんが)えるようになり、その(かみ)()を「にれえ神がなし」といったのが、(もと)なのではないかとした。そして柳田(やなぎだ)は、儀来河内(ぎらいかない)が、まさに日本神話(にほんしんとう)でいうところの根国(ねのくに)であると結論(けつろん)づけた。その()、それを()けて折口信夫(おりぐちしのぶ)は、琉球神道(りゅうきゅうしんとう)における(かみ)がいる他界概念(たかいがいねん)が、儀来河内(ぎらいかない)にだけあるという(かんが)えに疑問(ぎもん)をもった。つまり水平線上(すいへいせんじょう)(うみ)彼方(かなた)の、そこから(した)(うみ)()(そこ)にある、豊穣(ほうじょう)(いのち)根源(こんげん)異界(いかい)儀来河内(ぎらいかない)であると結論(けつろん)づけてしまうのでは、不足(ふそく)であると(かんが)えた。そして、折口(おりぐち)は、琉球神道(りゅうきゅうしんとう)他界概念(たかいがいねん)は、柳田(やなぎだ)概念(がいねん)でいう儀来河内(ぎらいかない)と、(さら)に、オボツカグラを(くわ)えたものであるとした。オボツカグラとは、天空(てんくう)にある異界(いかい)他界概念(たかいがいねん)である。つまり、水平線上(すいへいせんじょう)彼方(かなた)の、そこから(はる)(うえ)にあるとされる。なお、琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)は、太陽神(てぃだ)最高神(さいこうしん)とした。また琉球王(りゅうきゅうおう)太陽(てぃだ)とするところがあり、(おう)はまたニライカナイの守護神(しゅごしん)である君手摩(きみてずり)祝福(しゅくふく)()ける(もの)であり、また、オボツカグラの(かみ)認証(にんしょう)()(もの)であるとした。以上(いじょう)から、オボツカグラの守護神(しゅごしん)君真物(きんまむん)なのではないかと個人的(こじんてき)には(かんが)えている。なお余談(よだん)だが、(かみ)は、一柱(ひとはしら)二柱(ふたはしら)・・・・・・、と(かぞ)える。
凉傘(りゃんさん/あふり)】~きぬ(がさ)凉傘(りゃんさん)とは日傘(ひがさ)であり、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)では「うらんさん」(など)とも()び、おもに(おう)外出(がいしゅつ)()使用(しよう)された。()すりながら行進(こうしん)したりもする。琉球(りゅうきゅう)では、黄と赤の二種類(しゅるい)。なお中国(ちゅうごく)では、白、青、藍など各種(かくしゅ)。とくに中国(ちゅうごく)五方旗(ごほうき)は、東西南北(とうざいなんぼく)(あらわ)していて、青龍(せいりゅう)が「東・青」、白虎(びゃっこ)が「西・白」、朱雀(すざく)が「南・朱」、玄武(げんぶ)が「北・黒」、それに国王(こくおう)黄色(きいろ)(はた)をいう。「凉傘(りゃんさん)」は、『旧記(きゅうき)』によれば御蓋(みがい)ともいい、尚巴志(しょうはし)(おう)貢使(こうし)(めい)じて、凉傘(りゃんさん)(つく)って回来(かいき)帰国(きこく)せしむる、とある。また、一六六六年、尚真王( しょうしんおう)(とき)には、(とく)に、毛氏(もううじ)喜屋武(ちゃん)親雲上(ぺーくーみー)盛勝(せいしょう)(つか)わし、進貢(しんこう)(おり)公銀(こうぎん)使(つか)って、支那(しな)中国(ちゅうごく)で、凉傘(りゃんさん)(ならび)五方旗(ごほうき)(つく)らせた、とある。いずれにせよ凉傘(りゃんさん)中国(ちゅうごく)との進貢(しんこう)()琉球(りゅうきゅう)にもたらされたようである。なお、以前(いぜん)(やく)した(さい)は、(やま)凉傘(りゃんさん)()ったと、原文(げんぶん)直訳(ちょくやく)(ちか)(やく)をしたが、今回(こんかい)()えた。それは、冒頭(ぼうとう)(かみ)を、(かみ)ではなく(おう)という(やく)()えた(ほう)が、(はなし)後半(こうはん)とのつながりからいいと(かんが)えた影響(えいきょう)と、君真物(きんまむん)君手摩(きみてずり)なのではないかと(かんが)えているためである。
阿武理花嶽(あふりのはなだき)】~アフリヌハナ(ごく)。アフリバナ(ごく)とも。御嶽(うたき)にも色々(いろいろ)あるが、(うが)(むい/やま)腰当森(くさてむい/くさてぃむい)といった、(やま)(もり)全体(ぜんたい)拝所(うがんじゅ)場合(ばあい)といえる。なお腰当(くさて)とは、幼児(ようじ)(おや)(ひざ)(うえ)腰掛(こしか)けている()で、腰当森(くさてむい)は、(むら)鎮守(ちんじゅ)(もり)(いだ)かれて(まも)られているという()
公房嶽(くぼうのうたき)】~クボウヌ御嶽(うたき)標高(ひょうこう)(やく)一八九メートルの(やま/むい)が当初の拝み山でその象徴がこの御嶽。クボウ御嶽、コバウノ御嶽、こはうの御嶽、クバの御嶽等々(などなど)の呼び名がある。(※琉球國時代終わりに書かれた『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)等では、琉球の開闢(かいびゃく)御嶽(うたき)が、カナヒャブに代わってこの「こはうの御嶽」が入っている。「御国之御立始は国頭間切あおひ之御嶽今帰仁こはおの御嶽首里森之御嶽そやはの御嶽弁之御嶽久高こはおの御嶽玉城雨辻此七御嶽」)
阿武理嶽(あふりたき)】~安須森(あすもり/あしむり・)御嶽(うたき)辺戸(へど/ふぃどぅ・)御嶽(うたき)とも。プトゥキヌイッピヤ(「解きの岩屋」の意)と呼ばれる洞窟が在り、子宝を授かる拝所がある。
(すみ)やかに】~「(すみ)やか」に、(おな)じ。即刻(そっこく)()ぐさま。『神道記(しんとうき)』には「飛脚(ひきゃく)して・・・・・・(そう)す」とある。
王庭(おうてい)】~宮廷(きゅうてい)
()るや】~助動詞「たり」の連体形に助詞「や」がついた。特筆(とくひつ)すべき事柄(ことがら)(かん)して「・・・・・・と()えば、・・・・・・に(いた)っては」の()
煌々(こうこう)として】~「煌々/晃々(こうこう)」は、きらきらと(かがや)くさま。(あか)るく()るさま。
清潔(せいけつ)】~(けが)れがないこと。衛生的(えいせいてき)であること。また、そのさま。
巍峩(ぎが)】~(やま)()(だか)(そび)えるさま。
高大(こうだい)】~(たか)くて(おお)きいこと。()きんでて(すぐ)れていること。また、そのさま。
各設(かくせつ)】~意味不明(いみふめい)。)各々(おのおの)設定(せってい)ぐらいの()か。
()(かみ)(およ)諸臣(しょしん)】~「()(かみ)」が、(まえ)()ている(かみ)()すともとれるが、(かみ)(かみ)ととり、(かみ)である(おう)守護(しゅご)する、をなり(しん)(およ)(おう)(まも)家臣(しょしん)
聚会(しゅうかい)】~((ひと)が)()()う、会合(かいごう)する、(あつ)まる。(あつ)める、の()集会(しゅうかい)(おな)じ。
城庭(じょうてい)】~首里城(しゅりじょう/すいぐしく)正殿(せいでん)(まえ)御庭(うなー)
余把(よは)】~「余」は、ぐらいの()。「把」は助数詞。
(じょう)】~尺貫法(しゃっかんほう)における(なが)さの単位(たんい)曲尺(かねじゃく)鯨尺(くじらじゃく)の二つがあった。一尺(いっしゃく)一丈(いちじょう)十分(じゅうぶん)(いち)曲尺(かねじゃく)一尺(いっしゃく)は約三〇・三〇三センチ、その四(ぶん)の五である鯨尺(くじらじゃく)一尺(いっしゃく)は約三七・九センチ。一丈(いちじょう)一尺(いっしゃく)十倍(じゅうばい)
(きょ)】~(ねが)いを()()れる。(ゆる)す。おおよその数量(すうりょう)(あらわ)()。ばかり。
()す】~「()す」とも。(おこな)う。ある行為(こうい)をする。実行(じっこう)する。実施(じっし)する。あるまとまったものを(つく)()げる。(きづ)()げる。(「…をなす」の(かたち)で)そういう(かたち)状態(じょうたい)をつくる。(べつ)(もの)状態(じょうたい)()える。意識(いしき)して・・・・・・する。
【原文】~往昔之世新神將出現時八九月閒必立黄凉傘于阿武理花嶽(在今歸仁郡謝花邑)即立赤凉傘于公房嶽(在今歸仁邑)或立黄凉傘于公房嶽即立赤凉傘于阿武理花獄或有立凉傘于阿武理嶽(在國頭郡邊戸邑)一日而消即郡邑人民捷報□王庭其爲凉傘也五色已彩煌煌清潔巍峩高大覆盡一山而各設不同未知何故之事也至于十月必有神出現也則其神及諸臣皆扮竜宮人貌聚會城庭列建凉傘三十餘把(高七八丈許大五丈餘或一二丈許)拍鼓唱歌以爲神遊也


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