「神人(かみんちゅ)」とは?

横浜のトシ

2020年12月27日 08:48


琉球沖縄の「神女(しんにょ)」体制
神人(かみんちゅ)とは?」



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 琉球沖縄の「神女(しんにょ)」について、前々からまとめてみたかったので自分なりに書いてみることにします。

 古くから琉球沖縄では神女(しんにょ)を「神人(かみんちゅ)」と呼んできました。琉球國時代には神女(しんにょ)制度(せいど)は非常に高度に組織(そしき)化されたものとなり、基本的には決まった一族から世襲制(せしゅうせい)で役目が代々、伝わっていきました。
 ただ高度に組織化される以前から神女制度は(すで)にあり、その神女組織は琉球國第一尚氏(しょうし)王統(おうとう)の時代、首里の 佐司笠/差笠(さすかさ)という祭司(さいし)と、国頭郡地方由来の阿応理屋恵(あおりやえ/おーれー)という祭司を最高位(さいこうい)とし、祭政一致(さいせいいっち)による国の統治(とうち)のために確立されたのが最初と現在は考えられています。
 そして、琉球國第二尚氏王統第3代国王尚眞王(しょうしんおう)時代、より強固(きょうこ)な中央集権による国家基盤が固められた際に、神女組織もまた最高神女(しんにょ)() (ふぃ) ()()を頂点として、より高度なものとして再編成され整備されなおします。これによって、それまで以上に国家から地域社会にいたるまで神人の重要度が増し、国家を支える制度の(かなめ)ともなりました。
 日本本土でいう日本神道の巫女(みこ)といった神女(しんにょ)と同様、琉球の神女(しんにょ)は琉球神道に(のっと)り琉球の神々と国家(古くは君主)に仕え、地域において御嶽(うたき)拝所(うがんじゅ)などを守るための神事(しんじ)()り行います。ただそれだけにとどまらず祝女(ぬる/のろ)(つかさ)などは特に地域を統治(とうち)する役目があった点が、日本本土の神女とは性格が大きく異なりました。なお間切(まぎり)においては(※地域は「間切(まぎり)」単位に分けられていた)、その地域の古い家「根所(にーるくる)根屋(にーやー)」という祭主である根神(にーがん)祝女(ぬる/のろ)などの配下に組み()まれました。
 ()り返しますが、琉球の神女(しんにょ)神職者(しんしょくしゃ)であると同時に、地域の統治者(とうちしゃ)的存在なのであり、待遇(たいぐう)はいわば大名(だいみょう)並みでした。神人(かみんちゅ)である大阿母(うふあむ)祝女(ぬる)(つかさ)などは、琉球王府(おうふ)から辞令書と共に神衣装(かみいしょう)勾玉 (まがたま)神扇(かみおおぎ)(じーふぁー)などが与えられました(※神扇の模様(もよう)は、表には日輪(にちりん)と2つの鳳凰(ほうおう)瑞雲(ずいうん)が描かれ、裏には(つき)牡丹(ぼたん)が描かれる彩色が一般的)。そしてまた「祝女(ぬる)殿内(どぅんち)」などの住居を与えられ、収入を得る土地(オエカ地/ノロクモイ地)役料(やくりょう)(※王府から支給される手当)が支給されました。国が地域を(おさ)める体制の中に神女(しんにょ)制度はしっかりと組み()まれていたわけで、つまり神人(かみんちゅ)は単なる神職者ではなく、また誰でもなれるという役職でもなく、まさに選ばれし一族の者、限られし血族の者によって受け継がれる終身職でした。あくまで琉球沖縄における神人(かみんちゅ)は、琉球國の体制を維持する上でとても重要な役目を果たす役職であり、まさに神人(かみんちゅ)という言葉の通り、国に任命されて琉球神道の神々と地域の自然神に仕えて神事を()り行うことにより琉球國を支えるという、とても神聖な職でした。その中の祝女(ぬる)(つかさ)は今で例えるなら地方を治める上級の国家公務員的存在だったと言えます。そして、定期的に琉球王府に参上し、自分を統括する上級の神人たちに連れられ、琉球王府にとって重要な首里城周辺の拝所や御嶽を回って祈り、また王府にあがって地域の事を報告していました。

 1879年、明治政府により琉球処分が実行されて琉球國体制は崩壊し、聞得大君(ちふぃじん)三平等(みふぃら/みひら)大阿母(うふあん/おおあむ)はじめとする高級神女が(はい)されて、女神官制度は消滅するはずでした。

 ところが明治政府の琉球沖縄統治を円滑に進めるために、祝女(ぬる/のろ)(つかさ)は、地方役人層と共に存置(そんち)されることとなったため、辞令がそれまでの琉球王府に代わって県知事が出すことに変わっただけで存続する事になったのでした。役俸は明治13年の現収高に応じて石高(こくだか)給与に、明治17年以降は金禄(きんろく)が支給され、そしてついに明治43年(1910年)になって祝女(ぬる/のろ)(つかさ)職が廃止(はいし)されることになり、政府は金禄を公債の発給をもって処理したのでした。これをもって制度上の祝女(ぬる/のろ)(つかさ)の公的職(公儀職)は消滅したのでした(※なお琉球時代末期には、国家の財政困難などにより、一部の集落では村祝女(ぬる/のろ)が生まれていたが、これまで述べてきた祝女(ぬる/のろ)には含まれない。村祝女(ぬる/のろ)は王府に参上しない、あくまで地域が任命する存在) (※祈祷(きとう)師、霊媒(れいばい)師、(うらな)い師、口寄(くちよ)せ、特に加持(かじ)祈祷を私的なことのために行うユタとはまったく異なる。特に大きく異なる点が、「神人(かみんちゅ)」は国家や地域の平和のために祈り、また御嶽や拝所の神、地域の自然神に祈りを捧げながら国家につくす職である点。従って、祈りは個人の私的目的のためのものではなく、金品を個人からは受け取らない(受け取る必要がない)。人々を私的に占い、人心を(あやつ)(まど)わし、金品を受け取るといった、国家や地域や家を乱して壊す存在とは正反対である点を、しっかり認識しなければならない。なお琉球國時代、トキやユタは邪術(じゃじゅつ)をもって人々を(たぶら)かす者たちとして国家の禁圧(きんあつ)対象であり、神人ではありない。それどころか神人とは正反対の存在。繰り返すが、ユタは国家に背いて国や地域の治安を乱し、庶民をたぶらかして家庭を崩壊させる者たちであり、琉球國と琉球神に仕えずに私的で曖昧な神に仕える者たちであるため、琉球王府は取り締まる以外になんどか大弾圧を実行した。確かに長い歴史の中には、ごくわずかではあるものの琉球王府に信頼されたユタはいたが、あくまでごくわずか。なお琉球王府がユタ禁圧した理由は明確で、以下の通り。①虚言(きょげん)をもって人々を(たぶら)かすため。②風俗を乱すため。③御政道(ごせいどう)(さまた)げる行為をするため。④造佐ヶ間敷風を助長するため。⑤百姓(ひゃくせい)(※一般の庶民。つまり王族や(さむれー)以外の一般大衆)の人々から金品を受け取り困窮(こんきゅう)させて家を滅ぼす存在であるため、など。)


 ではこれから「琉球王府の神女(しんにょ)組織」の最も整っていた時代の体制を上から見ていくことにしましょう。琉球沖縄における「神人(かみんちゅ)」とは、以下で(くわ)しく見てゆくところの、聞得大君(ちふぃじん)大阿母志良礼(うふあんしたり)大阿母(うふあむ)祝女(ぬる)(つかさ)()します。


 最高神女(しんにょ)である聞得大君(ちふぃじん)には王の姉妹(しまい)()きましたが、それは姉妹が王や国を守護(しゅご)するという考え方「()なり(しん)信仰」によるものでした。それは、御嶽(うたき)信仰と祖先崇拝(そせんすうはい)を軸として、をなり神、つまり「兄弟」を守護する姉妹による信仰として琉球の隅々にまで浸透していました。


1、最高神女(しんにょ)
聞得大君加那志(ちふぃじんがなし)
聞得大君(ちふぃじん)御殿(うどぅん)とも)


 最高神女(しんにょ)である「聞得大君(ちふぃじん)」は、高級神女(しんにょ)統率(とうそつ)する、王の次の最上位の職でした(1667年には王妃の次と改められる)
その下の高級神女は、まず以下の大きく2つの職に分かれていました。


2、高級神女(しんにょ)
王府三十三君(ちみちみ)
首里(すい/しゅい/)三平等(みふぃら/みひら/)大阿母志良礼(うふあんしたり/おおあむしられ)

①の王府三十三君とは、王府内の貴族からなる神女たち。中央神女。中央神女である三十三君には「君々」という通称があった。なお33は数を表すのではなく、たくさんという意。1662〜1712年に君々が減員された以降は、中央に聞得大君と司雲上按司(つかさぐむいあじ)、地方の職はほぼ廃職となり、わずかに今帰仁阿応理屋恵按司(なちじんあおりやえあんじ)伊平屋阿母加那志(いへやあぼがなし)と久米島の君南風(ちんベー/ちみはえ)君南風阿母志良礼(ちんべーあぼしたり)とも)が残されただけだった。
王府三十三君の神事の一つ『雨乞(あまぐいぬ)御嶽(うたき)(雨乞嶽とも)』は、(時には王と共に)王府内の神女(しんにょ)祭祀(さいし)()りおこなった時代と、首里殿内の首里大阿母志良礼の管轄で祭祀(さいし)()りおこなった時代がある。
首里城内の「十嶽(とぅたき)」と『 園比屋武(そのひやふ)御嶽(うたき)』は、①と②が共同で祭祀(さいし)()りおこなう(なお十嶽(とぅたき)のうち9が女性のみの領域にあり、残る1つが十嶽の中で最も重要な首里森(すいむい/しゅいむい)御嶽(うたき)。首里森御嶽は琉球開闢七御嶽の一つでもある)
首里(すい/しゅい/)三平等(みふぃら/みひら)大阿母志良礼(うふあんしたり)」は3人の総称で、3人にはそれぞれほかに具体的な呼び名もあった。かつて首里は「三平等(みふぃら/みひら)」 と呼ばれる三つの地域に分けられ、3人の「首里三平等大阿母志良礼」がそれぞれを管轄していた。 また、国中の祝女(ぬる/のろ)(つかさ)の管轄も3人に振り分けられていた。首里「三平等(みふぃら)」とは、「②-1、南風之平等(はえぬふぃら)首里(すい)殿内(どぅんち)」「②-2、真和志之平等(まーじぬふぃら)真壁(まかん/まかべ)殿内)」「②-3、西之平等(にしぬふぃら)儀保(じーぶ)殿内)」で、管轄は、「首里大阿母志良礼」が「②-1、南風之平等」を、「真壁大阿母志良礼」が「②-2、真和志之平等」を、「儀保大阿母志良礼」が「②-3、西(北)之平等」を管轄した。
大阿母志良礼(うふあんしたり)は、首里の(さむれー)(むすめ)から選出。また配下に掟阿母作業阿母(うっちあんさじあん)がいて祭祀を助けた。


 2のうちのである、3人の「首里(すい)三平等(みふぃら)大阿母志良礼(うふあんしたり)」には、それぞれ他に大切な役目や仕事がありました。これからそれを見ていくことにしましょう。それぞれには、具体的な呼び名、直轄(ちょっかつ)御嶽(うたき)と地域、管轄(かんかつ)する祝女(ぬる)(つかさ) (※宮古や八重山などは祝女(ぬる)ではなく(つかさ)がいました祝女(ぬる)(つかさ)がそれぞれの地域を管轄)。また特別な地域である重要な要所(ようしょ)には大阿母(うふあむ)が置かれ、大阿母志良礼(うふあんしたり)の管轄下にありました。


-1、南風之平等(はえぬふぃら)首里(すい)殿内(どぅんち)
(具体的な名)
首里(すい) 大阿母志良礼(うふあんしたり)

直轄(ちょっかつ)御嶽(うたき)
辨/弁(びん/べん)())((うふ)())御嶽(冕大嶽・冕小嶽)・あかす(アカス)(むい)(杜)御嶽・国中城(くになかぐしく)御嶽・崎山(さちやま)御嶽(崎山ノ嶽)安谷川(あだにがー)(阿灘川)御嶽・仲里(なかざとぅ)(中里)(うふ)御嶽(中里大嶽)・仲里(中里)()御嶽(中里小嶽)(※2つを合わせて「仲里二御嶽」とも)(・雨乞(あまぐいぬ)御嶽(うたき)(※王府三十三君が管轄の時代もあり)
(直轄村)
赤田・崎山・鳥小堀・当蔵・大中・桃原
(要所の管轄大阿母(うふあむ)
伊平屋大阿母
(管轄する「12の」の地域の祝女(ぬる/のろ)
南風原祝女・大里祝女・佐敷祝女・知念祝女・玉城祝女・具志頭祝女・恩納祝女・大宜味祝女・金武祝女・国頭祝女・伊江島祝女・伊平屋祝女


-2、真和志之平等(まーじぬふぃら)真壁(まかん/まかべ)殿内(どぅんち)
(具体的な名)
真和志(まーじ)大阿母志良礼(うふあんしたり)
管轄(かんかつ)御嶽(うたき)
免津良(めづら/めずら/みんちら/しんちら)(美連)御嶽(めずら嶽おがみ)後原 (くしばる)(後原拝所)(※「後原」とは一説によると「真和志森」の事であり、『琉球国由来記』(巻五)に「有中山門坊外。(中山門の坊外に有り。/中山門内町の外にある。)とある。現在でいう首里高校の西南端周辺より西側にある小丘を指し、かつて拝所があったと考えられる。)見上(みやーぎ)(むい)(杜)御嶽・内金城(うちかなぐしく)御嶽
(直轄村)
真和志・町端・山川・寒水川・金城
(要所の管轄大阿母(うふあむ)
那覇大阿母・楚辺大阿母・泉崎大阿母・久米島君南風(ちんべー)・宮古大阿母・八重山大阿母・<久米村>西井(江)大阿母・<久米村>東井(江)大阿母
(管轄する「16の」の地域の祝女(ぬる/のろ)
久志祝女・名護祝女・読谷山祝女・北谷祝女・真壁祝女・東風平祝女・小禄祝女・豊見城祝女・摩文仁祝女・喜屋武祝女・兼城祝女・高嶺祝女・真和志祝女・久米島祝女・宮古島(つかさ)・八重山(つかさ)


-3、西之平等(にしぬふぃら)儀保(じーぶ)殿内(どぅんち)」。
(具体的な名)
儀保(じーぶ)大阿母志良礼(うふあんしたり
管轄(かんかつ)御嶽(うたき)
あすい(アスイ・アシー)(むい)(杜)御嶽・くむでぃ(むい)(杜)(クンディ)御嶽(くもて・クムデ森御嶽)・あむとぅ御嶽(あむと・アムトゥ嶽)(にし)(むい)(杜)御嶽(アモトダケ)・白金(しろ)かね)御嶽(白金嶽)(かな)(むい)(杜)御嶽
(直轄村)
汀志良次(てぃしら)・久場川・赤平・儀保
(要所の管轄大阿母(うふあむ)
大阿母(うふあむ))・今帰仁阿応理屋恵(あおりやへ)
(管轄する「16の」の地域の祝女(ぬる/のろ)
西原祝女・浦添祝女・宜野湾祝女・中城祝女・越来祝女・美里祝女・具志川祝女・勝連祝女・与那城祝女・羽地祝女・本部祝女・今帰仁祝女・慶良間二間切・粟国島祝女・渡名喜島祝女


 なお、要所(ようしょ)管轄(かんかつ)するために配置された「大阿母(うふあむ)」は、町方村間切(まぎり)の上級神女(しんにょ)であり、その土地の門閥(もんばつ)である決まった家が代々継承(けいしょう)しました。そして祝女(ぬる)と同様、祝女(ぬる)殿内(どぅんち)に住んで役料も支給されました。
 上記の上級祝女(ぬる/のろ)が治める以外の多くの地域においては、そこを治める祝女(ぬる/のろ)御嶽(うたき)拝所(うがんじゅ)を守り、神事を()りおこなうことにより地域を統治(とうち)していました。


3、首里三平等の祭祀
正月
 元日・十五日朝の御拝/正月初御願/百人御物参/弁の御嶽行幸/庫裡の御願

二月
 長月の御たかへ/麦の穂祭

三月
 百人御物参/四度御物参/麦大祭

四月
 百人御物参

五月
 弁の御嶽行幸/稲の穂祭

六月
 稲の穂祭

七月
 十三日御施餓鬼/十五日円覚寺先王かなし御霊前へ焼香 

八月
 百人御物参/四度御物参

九月
 弁の御嶽行幸/麦初種子/百人御物参/四度御物参

十月
 竈廻

十一月
 冬至朝の御拝

十二月
 御願ほとき/君々御玉改/掃煤

その他
 法事/雨乞/風凧御願/御新下り/三平等御願/婚礼/代相/毎月朔日十五日火神拝み/臨時


参考~『女官御双紙』『琉球國由来記』『琉球の国家祭祀制度』『琉球宗教史の研究(鳥越憲三郎)』『沖縄のノロの研究(宮城栄昌)』「首里の御嶽地図」「三平等の大あむしられの役割とその変遷(大城涼子)」『系図・地図等資料集(伊敷賢)』『琉球宗教史の研究(後田多敦)』「女神官の階層図(後田多敦)

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