琉球沖縄の「神女」体制
「神人とは?」
ご訪問、ありがとうございます。
琉球沖縄の「神女」について、前々からまとめてみたかったので自分なりに書いてみることにします。
古くから琉球沖縄では神女を「神人」と呼んできました。琉球國時代には神女制度は非常に高度に組織化されたものとなり、基本的には決まった一族から世襲制で役目が代々、伝わっていきました。
ただ高度に組織化される以前から神女制度は既にあり、その神女組織は琉球國第一尚氏王統の時代、首里の 佐司笠/差笠という祭司と、国頭郡地方由来の阿応理屋恵という祭司を最高位とし、祭政一致による国の統治のために確立されたのが最初と現在は考えられています。
そして、琉球國第二尚氏王統第3代国王尚眞王時代、より強固な中央集権による国家基盤が固められた際に、神女組織もまた最高神女の聞 得 大君を頂点として、より高度なものとして再編成され整備されなおします。これによって、それまで以上に国家から地域社会にいたるまで神人の重要度が増し、国家を支える制度の要ともなりました。
日本本土でいう日本神道の巫女といった神女と同様、琉球の神女は琉球神道に則り琉球の神々と国家(古くは君主)に仕え、地域において御嶽や拝所などを守るための神事を執り行います。ただそれだけにとどまらず祝女や司などは特に地域を統治する役目があった点が、日本本土の神女とは性格が大きく異なりました。なお間切においては(※地域は「間切」単位に分けられていた)、その地域の古い家「根所、根屋」という祭主である根神が祝女などの配下に組み込まれました。
繰り返しますが、琉球の神女は神職者であると同時に、地域の統治者的存在なのであり、待遇はいわば大名並みでした。神人である大阿母や祝女や司などは、琉球王府から辞令書と共に神衣装、勾玉 、神扇、簪 などが与えられました(※神扇の模様は、表には日輪と2つの鳳凰、瑞雲が描かれ、裏には月と牡丹が描かれる彩色が一般的)。そしてまた「祝女殿内」などの住居を与えられ、収入を得る土地(オエカ地/ノロクモイ地)や役料(※王府から支給される手当)が支給されました。国が地域を治める体制の中に神女制度はしっかりと組み込まれていたわけで、つまり神人は単なる神職者ではなく、また誰でもなれるという役職でもなく、まさに選ばれし一族の者、限られし血族の者によって受け継がれる終身職でした。あくまで琉球沖縄における神人は、琉球國の体制を維持する上でとても重要な役目を果たす役職であり、まさに神人という言葉の通り、国に任命されて琉球神道の神々と地域の自然神に仕えて神事を執り行うことにより琉球國を支えるという、とても神聖な職でした。その中の祝女や司は今で例えるなら地方を治める上級の国家公務員的存在だったと言えます。そして、定期的に琉球王府に参上し、自分を統括する上級の神人たちに連れられ、琉球王府にとって重要な首里城周辺の拝所や御嶽を回って祈り、また王府にあがって地域の事を報告していました。
1879年、明治政府により琉球処分が実行されて琉球國体制は崩壊し、聞得大君や三平等の大阿母はじめとする高級神女が廃されて、女神官制度は消滅するはずでした。
ところが明治政府の琉球沖縄統治を円滑に進めるために、祝女 や司は、地方役人層と共に存置されることとなったため、辞令がそれまでの琉球王府に代わって県知事が出すことに変わっただけで存続する事になったのでした。役俸は明治13年の現収高に応じて石高給与に、明治17年以降は金禄が支給され、そしてついに明治43年(1910年)になって祝女 や司職が廃止されることになり、政府は金禄を公債の発給をもって処理したのでした。これをもって制度上の祝女 や司の公的職(公儀職)は消滅したのでした(※なお琉球時代末期には、国家の財政困難などにより、一部の集落では村祝女が生まれていたが、これまで述べてきた祝女には含まれない。村祝女は王府に参上しない、あくまで地域が任命する存在)。 (※祈祷師、霊媒師、占い師、口寄せ、特に加持祈祷を私的なことのために行うユタとはまったく異なる。特に大きく異なる点が、「神人」は国家や地域の平和のために祈り、また御嶽や拝所の神、地域の自然神に祈りを捧げながら国家につくす職である点。従って、祈りは個人の私的目的のためのものではなく、金品を個人からは受け取らない(受け取る必要がない)。人々を私的に占い、人心を操り惑わし、金品を受け取るといった、国家や地域や家を乱して壊す存在とは正反対である点を、しっかり認識しなければならない。なお琉球國時代、トキやユタは邪術をもって人々を誑かす者たちとして国家の禁圧対象であり、神人ではありない。それどころか神人とは正反対の存在。繰り返すが、ユタは国家に背いて国や地域の治安を乱し、庶民をたぶらかして家庭を崩壊させる者たちであり、琉球國と琉球神に仕えずに私的で曖昧な神に仕える者たちであるため、琉球王府は取り締まる以外になんどか大弾圧を実行した。確かに長い歴史の中には、ごくわずかではあるものの琉球王府に信頼されたユタはいたが、あくまでごくわずか。なお琉球王府がユタ禁圧した理由は明確で、以下の通り。①虚言をもって人々を誑かすため。②風俗を乱すため。③御政道を妨げる行為をするため。④造佐ヶ間敷風を助長するため。⑤百姓(※一般の庶民。つまり王族や士以外の一般大衆)の人々から金品を受け取り困窮させて家を滅ぼす存在であるため、など。)
ではこれから「琉球王府の神女組織」の最も整っていた時代の体制を上から見ていくことにしましょう。琉球沖縄における「神人」とは、以下で詳しく見てゆくところの、聞得大君、大阿母志良礼、大阿母、祝女、司を指します。
最高神女である聞得大君には王の姉妹が就きましたが、それは姉妹が王や国を守護するという考え方「をなり神信仰」によるものでした。それは、御嶽信仰と祖先崇拝を軸として、をなり神、つまり「兄弟」を守護する姉妹による信仰として琉球の隅々にまで浸透していました。
1、最高神女
聞得大君加那志
(聞得大君御殿とも)
最高神女である「聞得大君」は、高級神女を統率する、王の次の最上位の職でした(1667年には王妃の次と改められる)。
その下の高級神女は、まず以下の大きく2つの職に分かれていました。
2、高級神女
①王府三十三君
②首里三平等大阿母志良礼
※①の王府三十三君とは、王府内の貴族からなる神女たち。中央神女。中央神女である三十三君には「君々」という通称があった。なお33は数を表すのではなく、たくさんという意。1662〜1712年に君々が減員された以降は、中央に聞得大君と司雲上按司、地方の職はほぼ廃職となり、わずかに今帰仁阿応理屋恵按司と伊平屋阿母加那志と久米島の君南風(君南風阿母志良礼とも)が残されただけだった。
※王府三十三君の神事の一つ『雨乞御嶽(雨乞嶽とも)』は、(時には王と共に)王府内の神女が祭祀を執りおこなった時代と、首里殿内の首里大阿母志良礼の管轄で祭祀を執りおこなった時代がある。
※首里城内の「十嶽」と『 園比屋武御嶽』は、①と②が共同で祭祀を執りおこなう(なお十嶽のうち9が女性のみの領域にあり、残る1つが十嶽の中で最も重要な首里森御嶽。首里森御嶽は琉球開闢七御嶽の一つでもある)。
※「首里三平等大阿母志良礼」は3人の総称で、3人にはそれぞれほかに具体的な呼び名もあった。かつて首里は「三平等」 と呼ばれる三つの地域に分けられ、3人の「首里三平等大阿母志良礼」がそれぞれを管轄していた。 また、国中の祝女や司の管轄も3人に振り分けられていた。首里「三平等」とは、「②-1、南風之平等(首里殿内)」「②-2、真和志之平等(真壁殿内)」「②-3、西之平等(儀保殿内)」で、管轄は、「首里大阿母志良礼」が「②-1、南風之平等」を、「真壁大阿母志良礼」が「②-2、真和志之平等」を、「儀保大阿母志良礼」が「②-3、西(北)之平等」を管轄した。
※大阿母志良礼は、首里の士の女から選出。また配下に掟阿母作業阿母がいて祭祀を助けた。
2のうちの②である、3人の「首里三平等大阿母志良礼」には、それぞれ他に大切な役目や仕事がありました。これからそれを見ていくことにしましょう。それぞれには、具体的な呼び名、直轄の御嶽と地域、管轄する祝女や司 (※宮古や八重山などは祝女ではなく司)がいました(祝女や司がそれぞれの地域を管轄)。また特別な地域である重要な要所には大阿母が置かれ、大阿母志良礼の管轄下にありました。
「②-1、南風之平等(首里殿内)」
(具体的な名)
首里 大阿母志良礼
(直轄御嶽)
辨/弁(之)(大・小)御嶽(冕大嶽・冕小嶽)・あかす(アカス)森(杜)御嶽・国中城御嶽・崎山御嶽(崎山ノ嶽)・安谷川(阿灘川)御嶽・仲里(中里)大御嶽(中里大嶽)・仲里(中里)小御嶽(中里小嶽)(※2つを合わせて「仲里二御嶽」とも)(・雨乞御嶽(※王府三十三君が管轄の時代もあり))
(直轄村)
赤田・崎山・鳥小堀・当蔵・大中・桃原
(要所の管轄大阿母)
伊平屋大阿母
(管轄する「12の」の地域の祝女)
南風原祝女・大里祝女・佐敷祝女・知念祝女・玉城祝女・具志頭祝女・恩納祝女・大宜味祝女・金武祝女・国頭祝女・伊江島祝女・伊平屋祝女
「②-2、真和志之平等(真壁殿内)」
(具体的な名)
真和志大阿母志良礼
(管轄御嶽)
免津良(美連)御嶽(めずら嶽おがみ)・後原 拝(後原拝所)(※「後原」とは一説によると「真和志森」の事であり、『琉球国由来記』(巻五)に「有中山門坊外。(中山門の坊外に有り。/中山門内町の外にある。)とある。現在でいう首里高校の西南端周辺より西側にある小丘を指し、かつて拝所があったと考えられる。)・見上森(杜)御嶽・内金城御嶽
(直轄村)
真和志・町端・山川・寒水川・金城
(要所の管轄大阿母)
那覇大阿母・楚辺大阿母・泉崎大阿母・久米島君南風・宮古大阿母・八重山大阿母・<久米村>西井(江)大阿母・<久米村>東井(江)大阿母
(管轄する「16の」の地域の祝女)
久志祝女・名護祝女・読谷山祝女・北谷祝女・真壁祝女・東風平祝女・小禄祝女・豊見城祝女・摩文仁祝女・喜屋武祝女・兼城祝女・高嶺祝女・真和志祝女・久米島祝女・宮古島司・八重山司
「②-3、西之平等(儀保殿内)」。
(具体的な名)
儀保大阿母志良礼
(管轄御嶽)
あすい(アスイ・アシー)森(杜)御嶽・くむでぃ森(杜)(クンディ)御嶽(くもて・クムデ森御嶽)・あむとぅ御嶽(あむと・アムトゥ嶽)・北森(杜)御嶽(アモトダケ)・白金(白かね)御嶽(白金嶽)・金森(杜)御嶽
(直轄村)
汀志良次・久場川・赤平・儀保
(要所の管轄大阿母)
泊大阿母)・今帰仁阿応理屋恵
(管轄する「16の」の地域の祝女)
西原祝女・浦添祝女・宜野湾祝女・中城祝女・越来祝女・美里祝女・具志川祝女・勝連祝女・与那城祝女・羽地祝女・本部祝女・今帰仁祝女・慶良間二間切・粟国島祝女・渡名喜島祝女
なお、要所を管轄するために配置された「大阿母」は、町方村間切の上級神女であり、その土地の門閥である決まった家が代々継承しました。そして祝女と同様、祝女殿内に住んで役料も支給されました。
上記の上級祝女が治める以外の多くの地域においては、そこを治める祝女が御嶽や拝所を守り、神事を執りおこなうことにより地域を統治していました。
3、首里三平等の祭祀例
正月
元日・十五日朝の御拝/正月初御願/百人御物参/弁の御嶽行幸/庫裡の御願
二月
長月の御たかへ/麦の穂祭
三月
百人御物参/四度御物参/麦大祭
四月
百人御物参
五月
弁の御嶽行幸/稲の穂祭
六月
稲の穂祭
七月
十三日御施餓鬼/十五日円覚寺先王かなし御霊前へ焼香
八月
百人御物参/四度御物参
九月
弁の御嶽行幸/麦初種子/百人御物参/四度御物参
十月
竈廻
十一月
冬至朝の御拝
十二月
御願ほとき/君々御玉改/掃煤
その他
法事/雨乞/風凧御願/御新下り/三平等御願/婚礼/代相/毎月朔日十五日火神拝み/臨時
参考~『女官御双紙』『琉球國由来記』『琉球の国家祭祀制度』『琉球宗教史の研究(鳥越憲三郎)』『沖縄のノロの研究(宮城栄昌)』「首里の御嶽地図」「三平等の大あむしられの役割とその変遷(大城涼子)」『系図・地図等資料集(伊敷賢)』『琉球宗教史の研究(後田多敦)』「女神官の階層図(後田多敦)」
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