折口信夫、沖縄の旅の足跡

横浜のトシ

2021年02月12日 13:48

折口(おりぐち)信夫(しのぶ)(しゃく)迢空(ちょうくう)


ご訪問、ありがとうございます。

今日は、折口(おりぐち)信夫(しのぶ)(しゃく)迢空(ちょうくう)先生について、
少し述べてみたいと思います。

折口信夫と釈迢空は同一人物であり、
民俗学の名前が「折口信夫(しのぶ)」であり、
歌人・詩人としての名が「(しゃく)迢空(ちょうくう)」です。

日本の民俗学(みんぞくがく)の大家といえば、
やはり二大巨頭、
柳田國男(やなぎだくにお)、折口信夫(しのぶ)
両先生です。

私はかつて、
國學院大學の、
文学部文学科日本文学専攻を卒業しましたが、
在学中に、
阿部正路先生の「浪漫主義文学研究会」と、
田島一「コメニウスの会」という、
いわば先生直属の研究会に属していました。
前者が民俗学、
後者が教育学の研究会でした
(東京大学の大田(たかし)先生の教育学の流れ)

私が國學院に行った最大の理由は、
折口先生の民俗学を研究するためでした。

多くの折口派の諸先生方がいらっしゃた中で、
実際に、
折口先生の弟子だった先生が3人いらっしゃって、
その一人の阿部正路先生に師事しておりました。
従って私は、折口先生の弟子の弟子、
孫弟子にあたります

柳田先生、折口先生、
両先生の沖縄に対する思いは強く、
柳田先生は大正9年(1920年)
折口先生は大正10年(1921年)
大正12年(1924年)、昭和10~11年(1935-36年)
沖縄の地を踏みました。

今ほど交通の便が良くないこの時代に、
九州から奄美を島伝いに移動するのですから、
沖縄へ調査に行くことは並大抵の事では、
ありませんでした。

大正10年7〜8月

しかも折口先生に至っては3度も訪れたのであり、
折口先生の沖縄に対する思いが、
ひときわ大きかったことが推察されます。

折口先生は、
沖縄研究の創始者と言われる、
伊波普猷(いはふゆう)先生と
親交が深かったと言われています。
大正10年には、伊波普猷、川平朝令、島袋源一郎、宮城聡、島袋源七、新垣孫一氏などと交流。
大正12年には、末吉安恭(麦門冬)、喜舎場永珣、岩崎卓爾氏などと交流。
(※その後、伊波普猷と沖縄行きを計画するが実現せず)
昭和10年には、國學院大學での教え子、
大城元長・島袋全幸氏らの尽力で、
那覇市の招きで来沖。
また帰京後すぐの5月には、
玉城盛重ら20名程を東京に招き、
「琉球古典芸能大会」を開催しました。

以上からも、
いかに折口先生と沖縄が深く繋がっていたかは、よくわかると思います。

伊波普猷から『古琉球』を寄贈された柳田先生は、1921(大正10)年1〜2月に沖縄に上陸します。沖縄県立図書館の伊波を訪ね、その後、沖縄本島を回ります。1月下旬には、宮古島を経由して石垣島に上陸して岩崎卓爾や喜舎場永珣らに迎えられて一週間近く石垣の御嶽や拝所を回ります。2月上旬に沖縄本島に戻り、2月中旬に帰京します。その体験『海南小記』として公刊され、晩年の『海上の道』に繋がっていきます。

折口先生は、柳田先生が帰京し南島体験を聞くなり来沖を計画し、夏には沖縄へ向かいます。

折口先生が回ったとされるのは以下。
①1921(大正10)年7〜8月
7月16日那覇着。
7月17日~8月10日までに回った所
那覇市 那覇各地・首里各地、 宜野湾市 普天間など、
国頭郡金武町 金武など
国頭郡大宜味村 塩屋・大宜味・喜如嘉など、
国頭郡国頭村 辺土名・奥間・宇嘉・宜名真・辺戸・奥・楚洲・安田・安波など
うるま市 津堅島など、 南城市 久高島・斎場御嶽など、 糸満市 糸満・喜屋武・米須・摩文仁など
8月3日付絵葉書に、国頭村を一週間がかりで歩いて那覇前田旅館に戻ったとある。
8月10日に那覇出帆を予定するが、時化で延期となり、8月14日に出帆。
途中奄美大島の名瀬で再び時化のために2泊し、8月21日に鹿児島着。
※地元研究者による案内で、この旅は「沖縄採訪手帖」に詳しく記載。


②1923(大正12)年7〜8月
7月18日に東京出発
7月31日から8月17日頃まで沖縄本島
那覇市 那覇・泊・安里・小禄・瀬長島など、首里各地、 島尻郡南風原町 津嘉山・兼城など
南城市 大里稲嶺など、 浦添市 浦添各地、 宜野湾市 普天間・宜野湾など
8月20日 宮古島に上陸し5時間滞在(船の荷役の間)
8月20日から8月28日石垣島 石垣市四ヶ所(登野城・石垣・大川・新川)・平得・名蔵・宮良・白保など
8月28日に台湾の基隆へ
9月1日に門司に到着
※地元研究者などによる案内で、この旅の一部は「沖縄採訪記」に、これまでの2回の採訪は「琉球の宗教」「沖縄に存する我が古代信仰の残孽」などに記載。後の『古代研究』に繋がっていく。


③②1935(昭和10)年12月〜36(昭和11)年年1月
昭和10年12月20日那覇着
当間那覇市助役、永吉波上宮宮司、志喜屋二中校長、川平女師校長、大城那覇市視学などが出迎える。
首里・那覇を見学後、夕方宝来館へ
12月20日から 那覇市 那覇各地・首里各地、 うるま市 泡瀬・江洲など
12月25・26日 名護で講演(国頭教育部会主催「国文学講習会」)
12月27日~昭和11年1月8日 名護で新年を迎え、本部半島を廻る。
※伊是名島、伊平屋島にはこの間に渡っている可能性大。
国頭郡本部町 渡久地・具志堅・伊豆味・崎本部など、 国頭郡今帰仁村 諸志など、 名護市 久志など
昭和11年1月9・10日 国頭郡国頭村 宇嘉・辺土名・辺戸など 国頭郡大宜味村 大宜味・津波など
1月11・12日那覇で万葉集についての講演(沖縄国語研究会主催の「万葉集講習会」昭和会館)
1月13日~15日久高島、斎場御嶽などにはこの間に廻っている可能性大。
1月16日珊瑚座で組踊「女物狂」
1月17日高原安詩翁の女踊(泉崎の福地家座敷)、松蔭会の招待で天理教で組踊「執心鐘入」
1月21日 波之上通り天理教別室で沖縄郷土協会の会員と座談会(琉球舞踊についての座談会)
宝来館で記者会見(「沖縄固有の信仰問題に就いて」)
1月22日内台飛行機「しらさぎ号」で那覇を発ち、太刀洗飛行場(福岡県筑前町)に着。


柳田先生も折口先生も、
沖縄に対する思いは強かったものの、
宮古や八重山まで旅した折口先生の、
沖縄に対する思いがいかに強かったかは、
今更、言うまでもありません。

更に、
歌人・詩人、釈迢空としての、
沖縄の足跡も忘れてはなりません。
波上宮参道の歌碑を筆頭に、
沖縄を旅しながら、
たくさんの歌を詠まれました。
(※歌の詳細は『那覇の江に(1984/昭和59年)』参照)


偶然とはいえ、
もしかすると私が沖縄に呼び寄せられ、よく訪れるようになったのは、孫弟子(高崎先生を挟むなら曾孫弟子)である影響を少なからず受けているのかも知れません。

ちなみに私が最初に、
沖縄で折口先生の足跡を発見し、
驚いた出来事が起こったのは、
久高島に渡って、
何気に休憩をかね食事をとった時です。
イラブーを注文して、
ふと目を上げた目の前の壁に貼られていたのは、
先生直筆の色紙でした。

あれには驚きました。

他にお客さんも多くはなく、
どこの席にでも座れるほど空いていたのに、
よりによって、
その席に、色紙に向かって、ったのですから。

たましぬぎたん!

では。

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