「神人(かみんちゅ)」とは?パート2
琉球沖縄の「神女」体制2
「(神人)祝女の変遷」
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以前に、琉球沖縄の「神女」について、概略として「琉球沖縄の神女体制、神人とは?」を書きました。
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今回は特に神人の中の「祝女」に焦点を当てて、そのの歴史や「変遷」を改めて追ってみることにします。
琉球沖縄における、宮古・八重山の司を含む神人の祝女が、集落の御嶽や拝所などを中心とした集落の公的な祭祀を執り行う女性の神官であることを、前回は説明させて頂きました。かつて琉球王府が国を治めていた時代、一番上の最高神女である聞得大君を筆頭に一番下の祝女までが、神人として国家を支える職として確立され、機能していました。もちろん、琉球神道にのっとって琉球の神々に仕え、国を治める太陽の子である琉球王に仕え、神事をもって国を守るのが仕事でした。そのような、琉球国家に仕え、琉球の神々に仕える人々が、神人と呼ばれました。
祝女や司は、今でいう国家公務員であり、世襲制で役職や役割りを引き継いで地域を治める大名並みの扱いの女性たちであって、民間の霊媒師、占い師や預言者と呼ばれる類いの人とはまったく異なります。従って、その都度きちんと辞令書が発行される由緒ある公儀の役職である、それが祝女や司でした。
その起源ですが、そもそも琉球沖縄の神女の発生は琉球國誕生より前であり、またある時に作られてそっくりそのまま続いたものでもなく、時代により神人たちの役割りは変化したのであり、今回はそのあたりの歴史も少し追ってみようと思います。
琉球沖縄の研究者が指摘してきたように、琉球沖縄では古来、兄弟から姉妹を指して「をなり」、姉妹から兄弟を指して「ゑけり」と呼ぶようになります。と同時に「をなりは、ゑけりを守護する現人神である」という考え方が琉球沖縄の社会に広く浸透していきます。つまり、「をなり」は「ゑけり」を霊的に守護し保護するという役割りが地域社会に定着していきます。それは後に「をなり神信仰」と呼ばれました。「をなり神信仰」は神人である祝女や司の発生と深く連関するものと説明されるのが普通です。
「まきょ」と呼ばれた琉球沖縄の古い時代には、「根屋」と呼ばれる集落の創始者の家があり、その家の「ゑけり」は「根人」と呼ばれて、村を守る御嶽とそこに祀られる神を守護する役目を担って政治的に集落を支配しました。そして根人の根神である「をなり」は、「ゑけり」を守ると同時に各家の「をなり神」である女性たちを統率して、集落の祭祀を執り行うことにより宗教的に集落を支配していくようになります。
やがて「根人」の中から、複数の集落を支配する有力な人物が出てきて「按司」と呼ばれるようになります。この按司になった「ゑけり」の根神である「をなり」が祝女と呼ばれるようになり、これが祝女の発生と言われています。
繰り返しますが、古くから「をなり」は「ゑけり」を守る存在でした。ただそれは正確に言い直すと、「をなり」と「ゑけり」は互いに守り合う平等の関係にありました。
ところが、根屋の根人の「ゑけり」の中から強大な力を持つ按司が出現するのに合わせるように、その「ゑけり」が「祝女」と呼ばれるようになってきたあたりから、かつて平等だった「をなり」と「ゑけり」の関係は、「ゑけり」先行の形に変化していきます。
やがて琉球沖縄では、覇権を競いながら勝ち残った有力な按司が各地を治めていくことになります。やがてその按司の中から、「按司の中の按司」と呼ばれる「世の主」が誕生します。そして長い時を経た15世紀、「琉球國」という統一国家が琉球沖縄に生まれたのでした。
統一国家となった琉球國は、多くの男性を国家の構成員として再編成し組織化しました。と同時に、女性を組織化するにあたって、神女組織をもって再編成して国家を支える強い柱の一つに変えました。そのため琉球沖縄の神女組織は日本の他の地域とは異なる独特の道を歩み始めることになります。
この国家を立ち上げるための組織づくりによって、国王の姉妹の「をなり神」が最高神女の「聞得大君」と定められました。聞得大君を頂点とし、その下に「三平等の大阿母志良礼」が置かれ、続いて地方の有力神女である、今帰仁の阿応理屋恵、久米島の君南風、そして地域地域に大阿母が置かれました。そして大阿母などによって、祝女と宮古や八重山の司が統率されることになりました。しかしながら、実際にその琉球國の女神官の体制がほぼ完成するのは15世紀後半から16世紀にかけてで、琉球國第二尚氏王統、第三代尚眞王の時代です。
なぜ以前からずっとあった神女組織が尚眞王の時代に確立されたとするかと言うと、その根拠は、尚眞王が王になってからの五十年余りをかけて、琉球王府はより強固な体制と確立したからです。王を頂点とする中央集権体制が整えられました。
地方の按司を首里に住まわせ、代わりに管理者として按司掟という役人を配置し、地方の隅々まで支配下に置きました。また、一目で階級が分かる身分制度も確立しました。按司には、身分に応じた六色の鉢巻冠、髪に挿す簪「じーふぁー」、綏の色を決めて身に付けさせました。琉球國の中央集権化をほぼ完成させた功績が尚眞王にはあるというわけです。そんな中で神女組織も、国家を支える柱の一つとして再整備され体制が整えられたため、尚眞王によって神女体制が作られた、あるいは完成されたと言う考え方が存在しますが、個人的にはそう考えません。確かにこれ以後は、格式化され、しっかり定着した点だけは認めますが、今まで歴史を追ってきた通り、神女の歴史はもっともっと以前から存在していまますから、そうは考えられないという個人的な私の意見もあながち誤りではないと思います。
それでも国家的神女組織の再編成で祝女は、それまで通り自分が支配する地域の神々をたたえ五穀豊穣と繁栄などを祈る主たるそれまでの役目に加えて、国家の安泰と繁栄を祈る役目がより強くなっていきます。祝女だけでなく、最高神女「聞得大君」を筆頭に琉球國の神人である女性神官達は、国のトップから集落までの祭祀を執り行い、ますます国家にとっても地域にとっても神人は、なくてはならないより重要な存在に変わっていきました。
男性の官僚制度と同様に祝女には、琉球王府により国家公認として辞令書が発行され、祝女 殿内を与えられ、「オエカ地(ノロクモイ地)」という利益を得るための役地なども与えられました。
ところが、何年も経ない一六〇九年に、琉球國は島津の侵攻により支配下となり、同時に奄美は島津藩に編入されてしまいます。従って、尚眞王の中央集権はその後もずっと強力に推し進められたという、尚眞王や王府の表現が少なくないものの、経過と結果からして疑問をもたざるを得ません。それは神女のその後の変遷からも明らかで、祝女の辞令書の発行が停止され、一六六七年の「軽き官僚への御印判(辞令書)の発給停止」により三司官の「覚」によって任じられるようになってしまうのは、祝女にとって大きな転換点といえます。最高神女の聞得大君から阿応理屋恵や君南風といった高級神女までには引き続き御印判が支給されたものの、祝女は地方の神職に格下げとなってしまい、つまり地方役人や下級官人と同様の軽い官職レベルにまで下げられてしまった点は、見逃せないところです。それでも平均すると二つ~三つの村に一人は王府公認の祝女がそれまでに存在していて、「公儀祝女」と呼ばれました。そしてやがて、「村祝女」と呼ばれる、その地方の地域や集落でのみ公的性格を持つ祝女で、琉球王府公認ではなく辞令書も発行されない祝女も誕生するようになります。
琉球國の財政困難などにより、琉球國時代には高級神女の統合や廃止という改革が進んでいき、琉球國滅亡に向かう中で琉球沖縄の神女体制は、常にその時代時代と共に変化していったのでした。
やがて江戸時代が終わると共に琉球國時代が終わる、明治に入った一八七九年に、神人の歴史において大事件が起こります。琉球処分により沖縄の廃藩置県が断行されると、最高神女「聞得大君」を筆頭に、「三平等の大阿母」はじめ女神官体制はすべて解体され廃止されることになりました。
ところが祝女だけは、地方役人の人々と同様に、明治新政府の沖縄統治を円滑に進めるために残されることとなり、辞令も県知事から発行されました。役俸は明治十三年の現収高に応じて石高給与、明治十七年以降は金禄支給となりました。そして一九一〇年になって祝女職が廃止され、その代わりにそれまでの金禄は公債の発給で処理され、制度上の公的職としての祝女はこの時点で終止符が打たれるはずでした。しかしながら、役地のノロクモイ地の問題が以前からあちこちで頻発していて、特に一九〇三年の土地整理の際に、ノロクモイ地が祝女やその一族の私有地になって地域で問題が次々に頻発していったところに、祝女職廃止が重なったため、祝女の神性と地域における公的存在は、打ち消されたのにも関わらず存続しました。そして琉球沖縄では現在でもなお、地域の共同体意識が強い地域がたくさん残り、沖縄独特の祭祀が地域文化として息づいているというのが現状です。個人的には、琉球らしく素晴らしい事だと思います。ぜひとも残すべきだと考える一方で、歴史や伝統、特に目的を見失って初心を忘れて迷走する地域の行く末についは、非常に危惧してやみません。
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