「しーやーぷー」とは?

横浜のトシ

2017年10月18日 08:20

はいさい、今日(ちゅう)(うが)なびら。
ご訪問、ありがとうございます。

むかし、
沖縄の方からこんな質問を受けて、
わからないので調べてから返事する、
そう言ったままになっていた、話題です。
ご質問した方、すみません。

質問の内容は、
『しーやーぷー』って、
どういう意味ですか。
」です。

その後、色々と調べてみたものの、
いまだに意味が分からない、
というのが現在の私の答えです。

しかも、
この質問を受けてから、
気づいたのですが、
みんな分かっていないだけに、
「しーやーぷー」の部分でする動作が、
まちまち、
みんな違う気がするのです。

今まで調べてわかったところでは、
「しーやーぷー」の意味には、
次の2つがありました。(※根拠や出典は曖昧)

①漢字を当てると「西安布」であるという説。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)梵語(ぼんご)「しーやんぷ」からきたという説。


とは言うものの、
①も②も、調べてみたものの、
根拠や出典など見つけきれないまま、
今日にいたっております。

どちらかというと、
②の説明の方が説得力はあるものの、
①の漢字も、伝わる以上は、
何らかの意味があるような気が、
しないでもありません。

ただ改めまして、
私には珍しく「わからない」と、
お答えしておきます。


ところで、沖縄の方々に、
「しーやーぷー」の説明は、
いまさら必要ないと思いますが、
沖縄以外の方も、
このページを読まれるかも知れず、
念のために、
少しだけ整理しておきたいと思います。


赤田(あかた)首里(すん)殿内(どぅんち)」という、那覇市首里赤田(あかた)において琉球王朝時代から石川家を中心に行われてきた祭礼(さいれい)弥勒迎け(みるくうんけー)」の歌が、やがて沖縄各地で歌われる童歌(わらべうた)として広まったようです。

ただし、「弥勒迎け(みるくうんけー)」の祭礼は昭和初期に途絶(とだ)え、赤田(あかた)の人々を中心に1994年(平成6年)復興(ふっこう)されました。

この祭事で歌われる(うた)の、(ふし)が終わるごとに、囃子詞(はやしことば)が毎回ついて、それと同時に、()りがつきます。

歌詞はこうです。
しーやーぷー、しーやーぷー
 みーみんめー、みーみんめー。
  ふぃーじんとぅー、ふぃーじんとぅー。
   ゐーゆぅみー、ゐーゆぅみー。


まさに、
謎の言葉「しーやーぷー」が、
ここに登場するわけです。


琉球王府の時代、政治は男性によって成され、神事に関する一切の祭事は女性神官が(つかさど)りました。

その最高位(さいこうい)は「聞得大君(ちふぃうふじん/きこえおおぎみ)」で、多くは王の姉妹が()きました。「をなり神」信仰によるものです。

そして、首里城城下には、赤田(あかた)殿内(どぅんち)儀保(じぃぶ)殿内、真壁(まかび)殿内の「三殿内(みどぅんち)」が置かれて、直轄(ちょっかつ)のもと「祝女(ぬる/のろ/ぬん・)殿内(どぅんち)(※=女神官の館)が設置され、祭事(さいじ)円滑(えんかつ)執行(しっこう)されました。

なお「赤田首里殿内」という言葉ですが、「赤田村」の「首里殿内」という意味です。「赤田」「首里」「殿内」と切ってしまうと、首里より前に赤田村があるのは、おかしいことになります。

弥勒迎け(みるくうんけー)」は、毎年、旧盆の頃に沖縄各地で行われますが、弥勒(みるく/みろく)さまに(ふん)する人選(じんせん)は決して無差別ではありません。昔の場合は、その集落の中でも人品(じんぴん)(いや)しからず、健康で、見るからに福々(ふくぶく)しくなければならないと、そう伝わってきました。またひとたび、弥勒の役目をこなすと、村人から大いに尊敬されたともいわれます。

行列(スネーイ)は、弥勒(みるく/みろく)さまを先頭に、村中を()り歩きます。

後に従うのは、聡明(そうめい)かつ利発(りはつ)で元気な者とされ、その上、容貌(ようぼう)がよい十歳前後の男児が多く選ばれて行列します。もちろん、「赤田首里殿内」を歌い、()りをつけながらの行列です。

なお、子ども達のことを、特別に「弥勒(みるく)(ぐぁ)(※弥勒さまの子、の意)」といいます。

行列(スネーイ)は、高張(たかはり)提灯(ぢょうちん)一対(いっつい)を先頭に、警護役に続いて、弥勒(みるく/みろく)さま。そして、弥勒ん子、楽方(さんしんがた)、鳴り物(がた)(※銅鑼(どら)鉦鼓(しょうこ/しょうご)楽法螺(がくぶら)などに続いて、踊り方、村人、の順に集落(しゅうらく)()り歩きます(※構成〜弥勒(みるく)、露払い、お供(ドゥキナサー)、提灯持ち、つおな/ガク(ピーラルラー)カニ(ドラ/銅鑼)ウスデーク/小太鼓(クー)チャンチャン(スイシン)、ミルクングァー)。

歌詞と訳は、以下の通り。

一、
赤田(あかた)首里(すん)殿内(どぅんち) 黄金(くがに)灯籠(どぅーるー)()げてぃ
(※訳~首里赤田村の首里殿内に 黄金に輝く灯籠(とうろう)()げて)

うりが(あか)がりば 弥勒(みるく)御迎え(うんけー)
(※それが明るく灯ったらば 弥勒様をお(むか)えしよう)

囃子(はやし)
しーやーぷー、しーやーぷー。
みーみんめー、みーみんめー。
ふぃーじんとぅー、ふぃーじんとぅー。
ゐーゆぅみー、ゐーゆぅみー。



二、
(あがり)(あか)がりば (しみ)習い(なれー)行きよん(いちゅん)
(※日が昇ったら 習いに参ります)

(かしら)()てぃ(たぼ)り 我親(わうや)がなし
(※髪を()って下さい 私の親御(おやご)さま)

囃子(はやし)
しーやーぷー、しーやーぷー。
みーみんめー、みーみんめー。
ふぃーじんとぅー、ふぃーじんとぅー。
ゐーゆぅみー、ゐーゆぅみー。



三、
だい()()弥勒(みるく) ()(しま)()もち
(※だいこくの弥勒さま 私の島にもおいで下さい)

御拡(うか)()せみそうり 弥勒(みるく)世果報(ゆがふ)
(※そして広めて下さい 弥勒の太平の世「ゆがふ」を)

囃子(はやし)
しーやーぷー、しーやーぷー。
みーみんめー、みーみんめー。
ふぃーじんとぅー、ふぃーじんとぅー。
ゐーゆぅみー、ゐーゆぅみー。



四、
道々(みちみち)()(ちまた) (うた)(うた)てぃ(あし)
(※道々のそこかしこで みんなが唄を口ずさんで遊ぶ(平和な世の中)

弥勒世(みるくゆ)()世果報(ゆがふ) (ちか)くなたさ
(※弥勒の「ゆがふ」が 近くなったようだよ)

囃子(はやし)
しーやーぷー、しーやーぷー。
みーみんめー、みーみんめー。
ふぃーじんとぅー、ふぃーじんとぅー。
ゐーゆぅみー、ゐーゆぅみー。。



なお、動作ですが、
しーやーぷー」は、
(ほほ)(ふく)らませて首を振りながら両手を体の(わき)前で動かしたり、お腹をさすったり、さまざま。(※弥勒菩薩の容姿の表現と考えられる。)

みーみんめー」は、 
両手で耳を軽く引っ張って、左右に振る。(※福耳にあやかって長寿を願う。)

ふぃーじんとう」は、
体の前で(ひじ)を曲げ、左右交互(こうご)(ひじ)(てのひら)()いたり、さすったりする。(※精気。生気。命の勢気を表現する。)

ゐーゆうみー」は、
幼児が左の手のひらに右の指を指して頂戴(ちょうだい)とねだる格好(かっこう)。本来は、両方の(てのひら)を重ね合わせて、物を(いただ)く格好をする。(※弥勒菩薩から、福や徳を戴く、あるいは、授かる事の歓びを表現する。)

なお「ゐーゆぅみー」は、「ゐーゆーみー」、「いーゆぬみー」 「いゆぬみー」などとも歌われます。
本来は、「ゐーゆうみー」で、つまり「ゐーゆん」という意味。「ゐーゆん」とは、物を(もら)う、頂戴(ちょうだい)するということ。 従って、神さまや仏さまから、福や徳を頂戴(ちょうだい)するという意味。

他に、時々ですが、 「いーゆぬみー」を「いゆ、ぬ、みー」と、大変な勘違(かんちが)いをして、 「(うお)()」と、変に訳しているのをよく見かけますが、ご注意を。つまり「いゆ=魚」「ぬ=の」「みー=目」から、「いーゆぬみー」を「魚の目」と勘違いしているわけですが、そもそもそれでは前後の歌詞の意味が通りません。誰が言い出したにせよ誤解だと思います。

最後に、
赤田(あかた)弥勒(みるく)」の由来として、次の四つをご紹介致します。

①今から三百年前、首里殿地から大国に派遣された求道長老(グドォーチョウロウ)は皇帝に会い、琉球の教育や信仰の問題について話した。すると皇帝は「釈迦」「孔子」「弥勒」の中から選択するように言い、求道長老(グドォーチョウロウ)が平和を祈願する「弥勒」の()(じく)を持ち帰ったことに由来する。
②西来院の北谷長老(※勝連長老)から大石川(ウフイシチャー)の先祖がみるくの掛け軸を頂いたことに由来する。
③寺屋敷にある寺の()トゥ長老から、大石川(ウフイシチャー)の先祖がみるくの掛け軸を頂いたことに由来する。
④首里勤めの隠淳長老から、大石川(ウフイシチャー)の先祖がみるくの掛け軸を頂いたことに由来する。


なお「弥勒(ミロク)」は、梵語(ぼんご)「マイトレア」の写音(しゃおん)とされています。


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