穀物の始まり ~琉球沖縄の伝説

2013年09月17日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 02:30│Comments(4)琉球沖縄の伝説・沖縄先島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第43話。


穀物の始まり



 むかし(むかし)のこと、宮古島(みやこじま)の、村の南の方にあるウイピャー山に、サーニャプス(※本来、スは半濁音が正しいようです)という男がいましたが、とても(いえ)(まず)しかったため、幼少(ようしょう)(ころ)川満(かわみつ)のキサマーズ(※本来、キは半濁音が正しいようです)という人の(いえ)へ、奉公(ほうこう)に出されたのでした。
 なお、その奉公先(ほうこうさき)には、七才から十五才の奉公人(ほうこうにん)がいたそうです。
 さて、(かれ)が十五才になった(とき)のことです。
 宮古に、巨大な大津波(おおつなみ)がやってきました。
 キサマーズという所は(ぐすく/しろ)であり、また高い(みね)にあったため、そこにいたサーニャプスは(なん)とか(いのち)をとりとめたのでした。
 それからサーニャプスが、主人(しゅじん)に言うことには、
 「(わたくし)の父や母は、きっと大津波(おおつなみ)で、死んでしまったと(おも)われます。
 そこで私はこの(さい)自宅(じたく)(かえ)って父母(ふぼ)安否(あんぴ)確認(かくにん)したいと思います。場合(ばあい)によっては(とむら)ってあげたいと考えていて、ぜひともお(ひま)を、(いただ)けないものでしょうか。」と。
 その結果、主人から(ひま)(ゆる)され、故郷のウイピャー山に、サーニャプスは帰って()たのでした。
 自分の家に(もど)ってみると、やはり心配していた通り、父母(ふぼ)()くなっておりました。
 それから()なくサーニャプスは、()()えず洞穴(ほらあな)(なか)()みながら、東の海から塩水(しおみず)()み、津波の通り過ぎた後の、(わず)かに(のこ)っていた野菜(やさい)(など)を食べながら、(なん)とか一人で()らし(はじ)めたのでした。
 そんなある日のことです。
 海岸(かいがん)に行ってみると、東の海の方から、この世の者とは思われぬほど光り(かがや)く美しい女性が、(ふね)に乗ってやって来ました。サーニャプスは、その見知らぬ女性の(あま)りの美貌(びぼう)を前にして、自然に(ひたい)砂浜(すなはま)の地面につけると、一心(いっしん)(おが)んでいました。
 その女性の()は、ンマニャーズといい、サーニャプスに()かって言うことには、
 「私は、一番(いちばん)最初(さいしょ)出会(であ)った男性と夫婦(めおと/ふうふ)になりなさいと、龍宮(りゅうぐう)(おう)に言われてここまでやって()ました。
 そして、こうして今、最初にあなたと出逢(であ)いました。あなたと私は夫婦になるのが運命(うんめい)なのです。」と。
 さて突然(とつぜん)(あらわ)れた絶世(ぜっせい)美女(びじょ)からそう言われたサーニャプスが、腰を抜かすほど(おどろ)いたのは()うまでもありません。
 「このたびの津波(つなみ)で父も母も失ったばかりか、今の(わたくし)には何もありません。そして御覧(ごらん)のように、私には(いえ)すらないのです。」と。
 「そうですか。それはそれは大変(たいへん)でした。それにしてもあなたは今、一体(いったい)何処(どこ)寝泊(ねと)まりして、いらっしゃるのですか。」と。
 「先日(せんじつ)大津波(おおつなみ)で、村も家も(すべ)てが押し流されてしまいました。そこで仕方(しかた)なく今は、洞穴(ほらあな)(なか)()ております。」と。
 「それでは、()()えず、そこに()ってみることにしましょう。」と。
 そんな()りに行きで、結局、その(ばん)二人は、洞穴(ほらあな)(なか)()ることになったのでした。
 さて翌朝(よくあさ)のこと、二人(そろ)って、ンマニャーズがやって()たところの、ンナグザの(はま)()ってみました。
すると、其処(そこ)には、材木(ざいもく)沢山(たくさん)、海岸に()()げられているではありませんか。
 そこで二人はその材木(ざいもく)を、(やま)(ほう)(はこ)んだのでした。
 翌日(よくじつ)(ふたた)び同じ海岸(かいがん)()ってみたところ、今度は(かわら)が浜に打ち上がっていたのでした。
 そこでそれも(はこ)んで家を(つく)り、二人は其処(そこ)()(はじ)めました。
 やがて月日が流れ、二人の(あいだ)には、七人の女の子が生まれました。
 その子供達(こどもたち)には、ウイウス、ウイダチ、ウイムトゥ、ウイヌプヤーといった、ウイがつく()()けました。
 なおンマニャーズは、いつも(なべ)(みず)だけを()れて、御飯(ごはん)やおかずを(つく)ることができる(ちから)をもっていました。
 そんなある()のこと、ンマニャーズはいつものように、(なべ)(みず)を入れて、(ふた)をしながら、()うことには、
 「(わたくし)は、アマガーに()って(みず)()んでまいります。
 どうぞ、()()やして、ここの(ばん)を、御願(おねが)いします。
 それから、以前より度々(たびたび)御願(おねが)いしているように、絶対(ぜったい)(なべ)(ふた)()けて(なか)()てはいけません。」と。
 そう言うと、(みず)()みに出掛(でか)けたのでした。
 さて、()るなと()われると、かえって見てみたくなるのが人の気持(きも)ちというものであり、サーニャプスはこっそり(なべ)(ふた)()けてしまったのでした。しかしながら、(なか)は、ただの(みず)(はい)っているだけなのでした。
 ところが(かえ)って()るなり、ンマニャーズが(おこ)って言うことには、
 「あなたは、(わたくし)が、あれ(ほど)(なべ)(ふた)()けて中を見ないで(くだ)さいと言っておいたのに、そんな簡単な約束(やくそく)すら守れず、ついに中を()てしまいました。
 もう、あなたと私は、これから先、一緒(いっしょ)に世の中を渡って()かれなくなってしまいました。離縁(りえん)(いた)します。」と。
 こうして二人はそれから、別々(べつべつ)()むことになりました。ンマニャーズの家を(まえ)に、サーニャプスはその(うしろ)の家に住んだのでした。
 さて、その()のことです。
 ンマニャーズの(もと)に、狩俣のクバラパーズが(かよ)うようになりました。やがて二人の間に(むすめ)()まれました。その(むすめ)成長(せいちょう)してから、ンマニャーズはその娘を、父親のクバラパーズに(はじ)めて()わせたのでした。
 父親が()うことには、
 「(なに)()しいものはないか。」と。
 そう(むすめ)に聞きました。
 すると娘が()うことには、
 「親牛(おやうし)を、ぜひとも下さい。」と。
 そう(こた)えたのでした。それが、母親の()知恵(ぢえ)とも知らず、クバラパーズは娘の(もう)()承知(しょうち)しました。そして早速(さっそく)親牛(おやうし)()れて来て娘に(あた)えました。
 ところがその牛は当然、地域(ちいき)(うし)たちの親牛(おやうし)であったため、()づけばすべての牛が、親牛の所に集まって()たのでした。
 こうして新城の村のマキ(※野原)牧場(ぼくじょう)を開き、母と娘の牛飼(うしか)いの生活が始まったのでした。
 ンマニャーズはある(とき)に、(うら)()むサーニャプスに向かって、(すこ)しだけ(はな)しておきたいことがありますと、言いに()きました。
 「実は、私は()もなく(かえ)らなければならない()(うえ)です。
 ここを()る前に、あなたとの最後の(わか)れの(まえ)に、津波を(ふせ)方法(ほうほう)(おし)えてあげましょう。
 毎年(まいとし)旧暦(きゅうれき)の三月、ハットリの日に、ナーパイの祈願(きがん)をしなさい。
 (ただ)しその(とき)に、女はダディフを()ち、男はスサク(※スもサも半濁音が正しい)()ちなさい。」と。
 そう()(のこ)して宮古島を()ったのでした。
 なお、龍宮(りゅうぐう)(かえ)ったンマニャーズは、サーニャプスのために、小豆(あずき)(ひえ)はじめ、()穀物(こくもつ)種子(しゅし)(てん)から()ろして上げたということです。
 以上の伝説(でんせつ)が、城辺(ぐすくべ)砂川(うるか)の村で、毎年(まいとし)(おこ)なわれる行事(ぎょうじ)、ナーパイの起源(きげん)にまつわる話であり、また穀物(こくもつ)(はじ)まりの話なのだそうな。



※半濁音(はんだくおん)~たとえば、「ハ」の半濁音は「パ」。
 
 
※この話の参考とした話
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~「沖縄民俗」十八号
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町西中~『沖縄の昔話』・『ゆがたい』第四集
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~『宮古島庶民史』
同上~『ゆがたい』第四集
同上~『宮古・城辺町の昔話稿』
沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村塩川~『多良間村の民話』
沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町波照間島~『沖縄の昔話』
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~『宮古島旧記』〔雍正五年本〕
同上~『宮占島記事仕次』


Posted by 横浜のtoshi


●伝承地
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~ウイピャー山(部落の南の方にある)にサーニャプス(※スの半濁音)という男がいた。家が貧しかったので、幼少の頃、川満のキ(※キの半濁音)サマーズという人の家へ奉公にやらされた。そこには七才から十五才の頃までいたが、彼が十五才の頃、宮古に津波があった。キ(※キの半濁音)サマーズの城は高い峰にあったので、サーニャプス(※スの半濁音)は助かった。サーニャプス(※スの半濁音)は、主人に、
 「私の父や母は死んでしまったことだろう。私は、家へ帰って父や母の顔を見たいと思いますからおひまを下さい」と言ってウイピャー山に帰ってきた。やはり、父母は死んでいた。それで、サーニャプス(※スの半濁音)はほら穴の中に住み、東の海から塩水を汲み、野菜などを取って一人暮しの生活をしていた。
 ある日、海に行くと東の海の方から美しい女の人が船に乗ってやって来た。(天から下りてぎたという伝承もある)。サーニャプス(※スの半濁音)は、その女の人を知らなかったが、額を地につけて拝んでいた。女の人の名はンマニャーズといい、そしてサーニャプス(※スの半濁音)に向かって、
 「私は、一番最初に出会った男の人と夫婦になりなさい、と竜宮に言われて来ました。一番最初にあなたと会ったのだから、あなたと夫婦になりましょう」と言った。驚いたサーニャプス(※スの半濁音)は、 「私は父も母もありませんし、家もありません」と言った。
 「それでは、あなたはどこに寝るのですか」
 「ほら穴の中に寝ます」
 「ではそこに行きましょう」ということで、その晩は、ほら穴の中で寝た。翌朝、二人でンマニャーズがやって来たンナグザの浜に行ってみると、材木がたくさん寄ってぎていた。そこで、二人はその材木を山の方に運んだ。又、その翌日浜へ行くとカワラが寄ってきていたので、それを運び家を造ってそこに住んだ。二人の間には七人の女の子が生れた。その子供達には、ウイウスとか、ウイダチ、ウイムトゥ、ウイヌプヤーというようにウイという語を入れた名前をつけた。
 ンマニャーズは、いつも鍋に水だけを入れて、御飯やおかずを作っていた。ある日、ンマニャーズは鍋に水を入れてふたをし、
 「私は、アマガーに行って水を汲んでくるから火を燃やしていなさい。でも鍋のふたをあけて見てはいけません」と行って出かけた。しかし、見るなと言われると見たくなるもので、サニャープス(※スの半濁音)があけてみるとただの水だった。そこでンマニャーズは怒って、
 「あなたは私が鍋のふたをあけてみるなと言ったのにあけてみた、あなたと世の中は渡れない」と離縁し、二人別々の家に住むようになった。ンマニャーズは前の方に、サーニャプス(※スの半濁音)は後の方に住んだ。その後、ンマニャーズのもとには、狩俣のクバラパーズが通うようになった。二人の間に娘が生れた。その娘が成長した時、
 ンマニャーズは娘を父親に会わせた。クバラパーズが娘に、
 「何がほしいか」と聞くと、娘は、
 「親牛を下さい」と答えた。それは母親の入知恵であったが、クバラパーズは娘の申し出を承知した。そこで親牛を連れてくると、そこら辺にいた牛も、皆一緒についてきた。それで新城部落のマキ(野原のこと)で牧場をひらいて牛を養った。
 ンマニャーズは、ある時、サーニャプス(※スの半濁音)に一言話しておきたいことがあると言い、
 「私は帰らなければならない身の上です。最後に津波を防ぐ方法を教えましょう。毎年旧暦の三月ハットリの日にナーパイの祈願をしなさい。ただし、女はダディフを持ち、男はス(※スの半濁音)サ(※サの半濁音)ク(かい)をもちなさい」と言い残して去った。又、ンマニャーズは竜宮へ帰った後、サーニャプス(※スの半濁音)にアズキと稗の他の穀物の種子を下ろした。
 それが、砂川部落で毎年行なわれる行事、ナーパイの起源と穀物の発生だと言われている。(「沖縄民俗」十八号)
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町西中~天の神に娘が、地上に降りて最初に出会った者と夫婦になれと命じられる。その通りに最初に出会ったティンテクという男と夫婦になって暮らしていたが、この天女は、砂川の天川の水を汲んで、鍋で煮るとご馳走をつくることができたが、夫には決して蓋を開けてはならぬという。ところが、天女が天川に水汲みに行ってる留守に、夫が鍋の蓋を取ってなかをのぞいてからは、ご馳走をつくることができなくなった。天の神さまは、自分たちの力で食べるほかないから、砂川のアラダケで畑を切り開けと命じられ、粟・麦・米・芋などの種子を与えられたが、黍(きん)だけはくださらなかったので、天女は股の間に隠して持ち帰ったという。(『沖縄の昔話』・『ゆがたい』第四集)
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~昔、砂川村上比屋(ういびや)にサアネブズというみなし子がいたが、喜佐真按司がいたわり育てた。十五、六歳の頃、ミナゴジの浜を通りかかると、沖の方から小舟が漕ぎ来て、その中に天女とまがう美女がおり、ウマニヤーズと名告り、竜宮の命によってサアネと夫婦になるためここに来たと言う。二人は夫婦となり、七男七女を設けてサアネは富貴の身となったが、ある日ウマニヤーズは、天に帰らねばならぬとて、津波を防ぐ方法として、旧三月酉日に磯辺に出て、タイクを立てることを教えて去る。また、ウマニヤーズは、ご馳走を作る秘密の布袋をもって、夫のサアネに、それを見ることを禁じていたが、水汲みに行った留守に、サアネが火にかけた鍋の中をのぞき込んだので、ウマニヤーズは去って行ったともいう。そのウマニヤーズとサアネ按司とは、別々の御嶽に祀られている。(『宮古島庶民史』)
同上~天の神が娘のンナクザ神に、最初に出会った男と夫婦になれと命じて、砂川の海に行かせると、ンナクザの浜の波打ぎわのウィピャ岩に男がいるので、この男と夫婦になる。女の食事の支度は、あま水を鍋に入れて蓋をしただけで、それでご馳走になる。男は不思議に思って、女が水を汲んでいる間に、鍋の蓋をあけてみると、なかには水が湧いているだけで何もない。女が戻って来て、それを知り、これからは自分で働いて食べよという。二人の間に女の子三人、男の子一人があった。夫が亡くなった後、女はクバヌパー按司の妻となったが、按司は狩俣から女のもとに通ってきた。二人の間にも男の子が一人できたが、その子が父に会いに狩俣に行くとき、女は按司から子牛ではなく親牛をもらって来いと言う。子どもが親牛を貰って来ると、その親牛のあとから子牛が全部付いてきた。その牛を上比屋の下の谷間で飼っていると、按司がやって来て、牧を作ってくれる。上比屋の神のお陰で、砂川には牧ができたという。(『ゆがたい』第四集)
同上~昔、砂川の上比屋山に、テンチク・ブナザラという夫婦に、サーニャという息子がいた。サーニャは、両親が津波で亡くなった後、心のやさしいキサマ按司に育てられたが、十六歳の頃、ンナゴザ浜で、一艘の舟に乗った美しい女に出会う。女はウマニアズと名告り、竜宮の命でサーニャの妻になるためにやって来たという。二人は夫婦となって七人の子どもが生まれた。ある日、ウマニアズは、年季が来て天に帰らねばならないと言い、津波を防ぐ方法として、毎年旧暦三月の初酉の日、海浜にウキャを差して祭りをせよと教えて去る。それで今に、この津波を防ぐためのナーパイ御願がおこなわれることとなった。(『宮古・城辺町の昔話稿』)
沖縄先島・沖縄県宮古郡多良間村塩川~ある年、天からの使いが黍の種子を自分のイタン(女の褌)の裾の中にはさんで降りて来て、これからは、この黍の種子を蒔いて、豊かになれと言い、ただし、二れは女のイタンの裾にはさんできたので、神前のお初には供えてはならないと言われた。それで、島では、祭りの初穂に黍のそれだけは供えない。(『多良間村の民話』)
沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町波照間島~ある女が、スン(稗)を食べてたいへんうまかったので、女褌に隠して持って帰り繁殖したらしい。それで、神さまに五穀をお供えするのに、スンだけは上げないという。(『沖縄の昔話』)
沖縄先島・沖縄県宮古郡城辺町砂川~上平屋御岳。男女神、天てくこ、天のほなさらと唱。 右由来ハ、昔神代ニ、男ハ天てくこ、女ハ天のほなさらと申人、夫婦にて、砂川村上平屋と申所ヘ住居、男子一人産出申候。其名さあね大ちと申。其もの七歳の頃、他村遣置候折節、四海浪起て、村中の人家残ず引流申候。さあね帰宅致候ヘハ、村空相成、父母も行方知ズ失申候。然は、童之身寄付方無、方々と俳徊致、啼叫候処、喜佐真按司と申人ハ、不便思召被拘置、養育成被候。此童拾五六才にも成候時、みなこざ浜へ参候折、沖の方より厳しき女一人小船ニ乗、陸へ漕参候て申様、我ハむまの按司と申者にて候。汝か妻ニ成可為、竜宮の使ニ参申候。童大ニ驚、御身ハ只人非、我賎身為。夫婦の契成間敷と、砂上ニ拝礼致候処、女重て申候ハ、我適竜宮の命を請、参為事候ヘハ、汝
辞退及ず候。先汝か父母の旧跡を見申度候と、再三申被候間、有難存、親の旧跡上平屋へ列参申候。もはや村落て草木荒繁、浅間敷成果候所へ、夫婦の取合仕、千代万歳と契申候。然は、男子七人、女子七人産出、右子共成人致候間、女房むまの按司申様、我汝を助可為、此中夫婦仕候へ共、もはや子共も成人仕候間、古郷致(到カ)候。此世の縁を以、四海浪の難を凌可祭を授申候。三月酉ニたいくを磯端ニ差付、四海浪の境を立置可候。末世至其難之無と教、暇乞仕、海中へ飛入失申候。
此謂を以、三月酉日ニハ、毎年女ハたいくを取、磯端ニ差、男ハ船漕まねを仕候。尤、船漕まねハ、むまの按司ハ小船を漕参申為ニ付て、元祖之跡をまね、男女共白衣裳を着、祭申候。
諸願ニ付ても、村中中古迄ハ祭申候事。(『宮古島旧記』〔雍正五年本〕)
同上~おなしころにやありけん砂川村うへひやといふ所にありし人も四海浪にあふて失にけり其子佐阿祢大氏という男子七歳なりしを父母他村につかハせけるゆへ其難をのかれしとなりされとも幼稚之者にて寄る方なくあげくれ父母を志たふて啼ありくを喜佐真の按司と聞へし人ハ有徳の長者にて水難にもあハす彼さあねか有様を聞及ひいとねんころに養育せらる佐阿祢二八ハかりの比みなこさといふ浜辺を通る折ふし不思儀や沖の 方より小舟壱艘漕来る(り)月光のやうにひかりかゝやくハかりの美人壱人舟より上るさあね大きに驚き是天女なるへ(ひ)しと白砂の上に首をつけて再ひミる事あたハず美人佐阿祢に向て申やう我ハ}
む母の按司と申(いふ)ものなるが竜宮の命をうけ汝か妻にならんため只今この所に来るなりと聞へしかハ佐阿祢いよいよおそれ入かゝるいやしき孤の身としていかてか仙女に偶す事をえん是非にゆるせ給へと首をたに擡け祢は美人手を取て曰御身固く辞する事なかれ(り)命中の安排我も志らず人も志らずひとり天これを知るのミ佐阿祢面をあかふして手足の措所を志らず美人又曰いさや汝か父母の所にまいらんと聞ゆ佐阿祢なみたをなかし申やう父母ハそのかミお不なみの難に逢ふて何之東西なし今ハ寄方なき身となりて喜佐真の按司の御慈悲をかうむりて日をわたるを幸とおもふのみといふ女も此言葉を聞てなみたをなかしわれにへ能ぎ方便ありとことこ(とくとく)まいらんと催促すさあねも辞するにことはなく荒果たる旧屋敷に給てまいりぬ其夜ハそこにそミふしぬ翌朝又浜へ列行てわれハ過分の材木を寄り来れりこれをうへひや江持越し家を作り営ミ程なく富貴栄耀の身となり上比屋佐阿祢大氏と称す津なかぬ月日かさなりて七男七女を設けたり一日む母の按司夫に向て申やうわれ竜宮の命をうけて御身を助け(き)此とし月馴むつひし夫婦の縁をむすひかためて解はなれかたくハおもひとも年季満ぬれハ力なく帰るへしと聞ゆ大氏大きに驚き前後も志らず泣かなしむむ母の按司の曰われ人間界に身を置事数十年つきせぬなこりいはんかたなし志かれとも限あれ(り)ハいかゝハせん願ハ後世四海浪の難の防くの法を教へんとて三月酉日に磯辺にいてゝたいくをさし付る時ハ四海浪の境ひ別れて其難なしといひすてゝやかて海中に飛入ぬこの謂によって城辺の俗に毎年三月酉日にハ女ハたいくを取りて磯辺にさし付男ハ舟を漕く真似して男女白衣裳を着し祭をなす遺風あり(『宮占島記事仕次』)


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たかりんサン、こんにちは。
忙しいのは、お互いさまで~す。
まして、たかりんサンは、何足もワラジを履くスパーウーマンですから、
仕方がないことです。
どうぞ、体だけはご自愛下さい。

僕は、リスニングもヒヤリングも、まったく駄目です。
そもそも、使わないので、覚えても直ぐに忘れてしまいます。

会話より、むしろ、うちなーぐちの、語源や歴史に興味がそそられます。

宮古や、石垣は、我々の年代から上は、標準語です。
むしろ、うちなーやまとぐちを話す人の方が他の沖縄の人より、
はるかに訛っている事実に、気づいていない人が、
とても多い気がします。

つまり逆転現象で、
沖縄では、都会ほど訛っていて、離島ほど標準語だったりします。

ただ、うちなーぐちや、みやこふつ等は、
残さないといけませんし、使われるべきです。

実際、標準語の人も、ご年配の方とは方言を使うわけです。

さらに、例えば、漁師(海人)の方達特有の言葉とかがあって、
宮古の隣りの、伊良部島の言葉は、ちんぷんかんぷんでした。
伊良部島だけで4つの方言があるそうで、さらに、特殊な使い方があります。もうお手上げ。その地域の人と、結婚でもしないと、習得は無理~(笑)
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2013年09月22日 07:43


お久しぶりです
なかなか連絡もできず、時間だけが過ぎて・・・


宮古の方言、難しいですね
【ぱ】行が多いように感じます
私なんて、普通の沖縄方言(うちな~ぐち)も苦手で・・・
ヒヤリングはなんとか出来ますが・・・
でも、やっぱり喋れません(´Д` )
Posted by たかりん★たかりん★ at 2013年09月19日 02:05


SUZUサンへ。

僕は、宮古どころか、ウチナー口も、ウチナー大和口も、さっぱりです。
もちろん、その手の辞典類は、必要なので、少し持っていますが。

ちなみに、例えば『ホテル・ハイビスカス』の、
蔵下穂波さん演じる、中曽根美恵子役さんの映画も、
映画館で見た時には、笑えましたが、内容はさっぱり(笑)。

その後、この映画のDVDを買って、字幕を出して、やっと耳が慣れて、
今では字幕なしでOK!

ウチナーヤマトグチは、
デージ、リスニング、出来るようになったんだバァ~ヨ~

問題は、ウチナーグチ、であるわけさぁ。

アヌ、フシヌナーヤ、ニヌファブシ、ヤサ。
ユル、フニハラスル、トゥチネー。
アリガ、ミアティヤンドー。

アキサミヨ~。デージ、むずかしいやっさぁ~(笑)

ちなみに、宮古方言、ミャークフツは、僕には宇宙語です。

でも宮古方言にだけ、「こんばんは」の「サリー」があります。
他の沖縄クトゥバに、「こんばんは」がないようです。

ンミャーチ(いらっしゃい)
トニナシ(さようなら)
タンディガァータンディ(ありがとう)
プカラス(嬉しい)
ビキドゥン(男)
ミドゥン(女)

以上

アガッ!これじゃ、僕は宮古で、生きていかれませんねぇ~(笑)。
宮古島の女性にでも恋をして、必死にミャークフツ、勉強するか?(笑)
せめて行く前に、もう少し勉強しよ~ね~

いつもコメント、ありがとうございます。
ではでは。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年11月25日 07:12


toshiさんこんばんは、

県内の方言は、殆んどは聞いて理解はできますけど

宮古島の方言だけは、むつかしくて、さっぱりわかりません・

toshiさんは、沖縄方言も話せますか?
Posted by SUZUSUZU at 2010年11月24日 20:36


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