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もう一つの玉陵(たまうどぅん)、山川玉陵

2018年02月11日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 12:38│Comments(0)沖縄の旅その他
こんにちは。
はいさい、今日(ちゅう)(うが)なびら。
ご訪問、ありがとうございます。
いっぺー、にふぇーでーびる。

私は、今、行ってきた(5回目)山川(やまがー/やまがわ)玉陵(たまうどぅん)近くのスタバで、玉陵を見下ろしながら、この記事を書いております。

玉陵(たまうどぅん)」は琉球國の第二尚氏(しょうし)王統(おうとう)の王墓で、王や王妃・王子が祀られたの墓です。第一尚氏の王墓の天山陵は、クーデターにより王朝をのっとった第二尚氏により破壊されるのを恐れた人々によって守られながら遺骨は様々な所に祀られる事になりました。

首里城近くの玉陵(たまうどぅん)が、琉球國の第2尚氏王統の墓の中で(首里高校前/実際は第2尚氏王統すべての王が祀られている墓ではなく、また金丸とオギヤカの家族の墓にすぎないとも言われている)とても有名です。ただその玉陵以外に、宝口玉陵や山川玉陵という脇墓(わきばか)がありましたが、残念ながら宝口玉陵は戦争で消失してしまいました。伊是名の玉陵は、その性質から本質的に玉陵から除外します。理由は王が誰も祀られていないためで、本質的な意味において王墓である玉陵と呼ぶに相応しい役割りを担っていないからです(※一方で、第一尚氏王統の陵墓「天山陵(天山御墓)」は、唯一の正統な王墓であり玉陵と呼ぶに相応しかったわけですが、第二尚氏王統に破壊されるのを恐れた人々によって、遺骨は全てほかに移されましたので、やはり今ここでは扱いません。)

山川(やまがー/やまがわ)玉陵(たまうどぅん)は山川(りょう)とも呼ばれます(玉陵の東の王陵に対し、西の王陵とも。なお玉陵は他に玉御殿、霊御殿とも言います)。造営年は不明で、当初は、夫人(琉球王には、正妃以外に、妻、夫人を置くのが普通でした)の墓として使用されたという説があるほか、玉陵に入れてもらえなかった王や王族はじめ(まつ)られています。また、歴代の王たちといっしょに祀られるには申し訳ないと辞退した王なども祀られました。沖縄戦によって石垣の大部分が破壊されてしまいましたが、1781年に設置された石造りの門はじめとするかなりの部分が、現在も残っています(隣りの墓にも注目)。門をくぐると、琉球石灰岩の自然洞窟を利用した墓室があります。

「玉陵」の起源や歴史、そして内容に関しては、まだまだ謎が多く、今後ますますの研究が待たれるところですが、この数年、定例の祈年祭以外で、あまり観光客や研究者が訪れないままであり、山川陵はどんどんすたれ忘れられてしまうのが心配です。

ところで、実は大変に面白い歴史がここにはあります。

あまり知られていないことですが、実は戦争の時に、軍の陣地、および、防空壕としてここを使用するにあたって、山川の玉陵の中に葬られていた遺骨などはすべて近くの玉陵に移されたと言われています(それだけに余計に山川の玉陵の注目度が低いのかもしれませんが)

玉陵、ここには王と自分の子孫しか祀ってはならないと書かれた碑が立っています。歴史上(まれ)に見る、立場をわきまえず(おご)り高ぶった宇喜也嘉(おぎやか)の言葉が掘られているわけですが、戦時の都合で結局、彼女の思惑(おもわく)通りにはいかなかったわけで、そこがなんとも苦笑を誘うところです。

琉球國の時代、何らかの政治的な争いなどをはじめ、本来、玉陵に祀られるべき王の遺骨が山川陵に祀られたものの、戦時の都合で他の遺骨と共に玉陵に移されたということは、本来あるべきところに祀られることになったわけで、そこに何とも不思議な運命を感じます。

では。




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