阿麻和利、護佐丸、尚泰久、金丸、鬼大城、そして琉球一の美女と謳われる百度踏揚について想いを馳せ、私なりに少し真実に迫ってみたいと思います。
かつて沖縄本島で美しい4つの城の命運が、まさに分かれた時代がありました。
城の名は、
座喜味城(ザキミじょう/ザキミぐすく/ザキミぐしく)、
中城(ナカじょう/ナカぐすく/ナカぐしく)、
勝連城(カツレンじょう/カッチンぐすく/カッチンぐしく)、
首里城(シュリじょう/シュリぐしく/スイぐすく/スイぐしく)。
座喜味城と中城~護佐丸の城
勝連城~阿麻和利の城
首里城~首里王府・尚泰久の城
※参考①「首里王府」
~ここでいう首里王府とは、琉球國の、第一尚氏・第六代・尚泰久が王の時代の王府を指します。琉球を統一するという偉業を成し遂げた第一尚氏王統にあって、尚巴志の五男でありながら王にまでなった人物が尚泰久その人で、結果的には金丸を王府内に入れ、第一尚氏王統滅亡に追いやることになってしまった。
※参考②「城」
~琉球沖縄の場合の「城」という字は、城郭の意の「城」をいう場合と、「聖域」をいう場合があります。なお、琉球沖縄の城は必ずといっていいほどいくつかの聖域をもちます。
※参考③「中城か、中城城か。」
~おもろに、城の名として「中城」が出てきます。中城城という呼び方には昔から違和感を覚えてきました。恐らく中城ができた後、その地域の名が変ったか、新たにその名になったのだろうと考えられます。地名と城を区別するため、誰かが中城城という変な呼び方をし始めたのかも知れませんが、造られた時代に、中城城と呼ばれていない上、他にこういう例が余りないことからも、 「ナカグスクぐすく」や「ナカグスクじょう」といった、「城」を2つ重ねる呼び方には違和感を覚えざるをえません。勿論、例えば中城という人物が造った城のため、「人名+城」という可能性も否定できません。個人的には、地名も城の名も中城が善いと思います。なお、琉球沖縄の地名の末尾に城が付くのは、そこにかつて城があった場合が少なくありません。発音に関しては、もう少し考えていきたいと思っていて、自分なりの結論が完全に出ているわけでなく、あくまで現時点での考えです。
なお想像の域を出ませんが、ナカグスクはダイグスクの上に立てられたのではないかと考えています。
以下は読み易くするために、中城、座喜味城、勝連城、首里城と表記します。
沖縄本島において、座喜味城は西の、中城と勝連城は東の、美しい海を眺めるには素晴らしい高台、何れ劣らぬ絶好の場所にあります。
話が少しそれますが、様々な研究書や書物を読んで、実際に話の舞台である土地を訪れ、自分の目で見て体で感じる事は、とても重要だと考えてきました。大好きな奄美や沖縄を、風に吹かれて旅してきましたが、その地に行かなければやっぱりいけないと最も感じた一つが、中城に行った時の経験です。
その日の、城から見下ろす中城湾の美しさは格別でした。城のてっぺんで、心地よい風を肌で感じながら、ここで起こった昔に思いを馳せました。
しかしその時にふと、他の城とは違う何かを、中城に感じたのです。それは不思議な感覚でした。考え始めて暫くして、その違和感の正体に気付きました。
海岸沿いの高台に建つ琉球沖縄の城の多くは、遙か彼方の海まで見渡せるように、普通は海に向かって構えているものです。
ところが、中城は、違う方向に構えているではありませんか・・・・・・。
城が構える方向に、自然と視線が移ります。するとそこには何と、数ヶ月前に訪れたばかりの勝連城があるではありませんか。その事に驚くと同時に、腰を抜かすほど驚いた点は、中城と勝連城が、想像以上に近過ぎる事なのでした。
2つの城は、入り江を挟んで、むこうとこちら。こんなにも大きな城同士が、同時代に、近くにあるケースにお目に掛かることは滅多にありません。確かに実際の距離はそれなりにありますが、決して遠くないのです。どちらも海を見下ろすには最高の場所に建っていますが、同時に、城の頂上から互いの城が、遠いとはいえども、丸見えです。
それでも勝連城は、登ってみれば分かりますが、基本的には海に向かって構えています。
しかしながら、中城は、勝連城に向かって構えているだけでなく、振り向けば、遠く首里城を背に構えている、なんともいえぬ違和感があります(※もっとも、今の中城の、裏門が当時の正門であり、今のみなさんが訪れる方が昔の裏門に当たります)。
実は、中城を訪れる前に、護佐丸と阿麻和利と尚泰久にまつわる話を知っていたからこそ、そしてそれぞれの話から、勝連城と中城の2つの城がかなり離れているものだと勝手に想像していたからこそ、中城に、実際、我が身を置いた時、ある直感と違和感を覚えたのであり、伝わる歴史がどこかおかしいと感じたのでした。
そもそも護佐丸には、西海岸に、座喜味城という立派な城がありました。護佐丸は、琉球統一後、たびたび城替えをさせられていますが、座喜味城は元々の出生の地にあります。ところが尚泰久王の命を受け、座喜味城の一部を壊してまで運んで、阿麻和利がいる勝連城の、目と鼻の先に、せっせと中城を造った事になります。元々、古い台城の城跡があった所に増築したとはいえ、中城は大きな城であり、当然、城が出来るには、それなりに時間が掛かった筈です。
全く有り得ないとはいえませんが、伝えられてきた話のように、本当にそんなに短期間で中城が建造されたのでしょうか。
さらに、それよりもっと不可思議でならない事があります。それは阿麻和利が、自分の城から見える場所に、自分を攻める城が造られていくのに気付かなかったというのでしょうか。それは、まずあり得ません。勝連城は、中城が出来ることによって、越来城と江洲城と中城の三つの城に囲まれることになりますが、やはり中城は琉球トップクラスの規模を誇る城である事を忘れてはいけません。
そう考えると、護佐丸が城を造る事が、阿麻和利にとっても得るところがあったからこそ、中城の築城まで何もしなかったのには理由がある、そう考える方が、私個人としてはどうしても自然な気がします。
案の定、中城が完成して、力を消耗しきった護佐丸は、阿麻和利の軍と、首里軍に前後から城を挟まれ、滅ぼされてしまいます。
続いて、間もなく中城に進んだ首里軍によって、勝連城の阿麻和利もまた、攻め滅ぼされてしまいます。
但し、この筋書きは、現代に伝わる、琉球沖縄の歴史に名高い、「護佐丸の変」と、「阿麻和利の乱」です。首里王府の完全勝利によって、幕を閉じる筋書きです。
しかしながらそれでは、そもそも筋が通らないことばかりです。
結局、結果的には、首里王府が、次第に力を付けてきた2つの大勢力を見事に潰したかのようで、それはその時の情勢を考えれば、首里王府がとってもおかしくない一つの選択として、当然の成り行きと言えなくはありません。しかしながら、その選択は最初からあったにも関わらずその方法をとらず、尚泰久王は結局、娘を阿麻和利に嫁がせ、平和的解決の道を選んだ筈だったのでは、ありませんでしたか。それがなぜ、そんなことになってしまったのでしょうか。
冷静に考えればわかる通り、尚泰久王が冊封使を迎えた際、自分の前の左右には、妃の父、つまり義理の父である護佐丸と、娘婿の阿麻和利が控えていたはずです。冊封使側にそれは関係なくても、そこに集まった琉球側の当代きっての人々からすれば、2人がいることによって尚泰久が王として燦然と輝いて見えたのは間違いないところで、誰もこの王に逆らおうなどとは考えられなかったはずです。
伝わる話の謎というかインチキですが、ここが最も大切な点で、この時の首里王府とは何かという理解が、きわめて重要になってくると考えます。というのは、王は確かに尚泰久ですが、配下の金丸が、そう時を経ずして第一尚氏王統を滅ぼして、第二尚氏王統の王になるのですから、「護佐丸の変」や「阿麻和利の乱」などすべては金丸が裏で糸を引いて仕組んだと考えるのが自然だと私には思えてなりません。
やがてクーデターにより第二尚氏王統が建ち、金丸が尚圓王となって、以後の新たな琉球時代が長く続いてゆくのであり、その首里王府による琉球國がずっと国を統治してゆくことになります。
その歴史の中で、護佐丸の変と、阿麻和利の乱は、例えば「二童敵討」という組踊りの傑作の題材になり、そしてまた、民話や琉球国史をはじめとする様々な資料が作られていく中で、歴史的題材として取り上げられ、話が現在に伝わってきました。
金丸による第二尚氏王統の首里王府による琉球國の天下が続いていく中で、組踊りや民話や琉球國史を初めとする王府の資料が編纂されていくのですから、その内容が当時の琉球國向きの内容であるのは、至極、当然な事ではないでしょうか。そしてその作られた歴史をそのまま琉球の人々が信じていったのも、ごく自然な流れといえるでしょう。ただ、だからこそ、真実が大きく歪められた分だけ、辻褄が合わない事だらけになってしまったのだと私は考えます。
※「二童敵討」の粗筋
~忠臣として名高い護佐丸は、阿麻和利の告げ口によって攻めてきた首里軍を前に自刃します。母と子が生き残りますが、鶴松と亀千代兄弟が、父の護佐丸の無念を果たすべく、仇の阿麻和利を討つという筋です。一方で阿麻和利の方は、護佐丸を亡き者にした後は、やがて首里城を攻め落そうと野望を抱いています。なお仇討ちの方法ですが、仇を討つと決意した兄弟を、母が引き留めようとしますが、二人の決心は固く、それを見てとった母は護佐丸の刀を渡します。形見である守り刀を授かった兄弟は、野遊びの場に出掛けていきます。阿麻和利達が、踊り子に化けた二人を呼び止めて踊りを所望します。兄弟は踊りながら、一行に酒を勧めて酔わせ、遂に仇討ちを果たすという筋です。
※『球陽』や民話での粗筋
~護佐丸が謀反を起こそうとしていると、阿麻和利は、王に告げ口します。そして、阿麻和利を総大将とする王の首里軍が、謀叛のかどで護佐丸を討ちます。ところが告げ口が阿麻和利の企みだった事が発覚し、王の軍は、次に阿麻和利を逆賊として討ち、忠臣だった護佐丸の名誉が回復されるという筋です。
物語は物語として伝統と歴史があり、なかなか素晴らしいものですから、それはそれでいいと思います。それでも、尚泰久や首里王府が、話のように感情任せに低次元な数々の行動を実際に行うとは信じ難いといえます。
護佐丸の変も、阿麻和利の乱も、尚泰久の継嗣問題も、何もかもが、伝わっている筋書きでは余りに矛盾が多過ぎるどころか、すべてが金丸にとって都合が良過ぎる筋書きではありませんか。特にその直ぐ後に起こる琉球の歴史における最大のクーデター、つまり国を丸ごと一人の男が乗っ取ったことを考えて見てください。金丸の悪智恵と大嘘を隠す目的のために、でっち上げられた筋書きの匂いがプンプンします。
本当のところは金丸が、尚泰久王と当時の首里王府を操って、自分が王になるのに邪魔な二人を嵌めたのが、護佐丸の変と阿麻和利の乱を代表とする一連の事件と個人的には考えています。あくまで個人的なものではありますが。
護佐丸と阿麻和利の2人が、実際に、天下をとろうとしていたかは分かりませんが、勢力を誇っていたからこそ首里王府によって滅ぼされる運命だったとはいえます。特に二人が手を組めばそれに従う按司が多く、その結果、天下を二分する争いに発展する可能性がありました。それどころか金丸にとっては、自分のあらゆる謀や嘘が発覚するおそれがあり、殺される危険も高く、何をおいても2人が組むのを恐れていたに違いありません。何しろ金丸は、王族でないどころか、琉球の統一や建国に、何一つ貢献していない、しかも農民の出です。さらに王の継子争いを競う女たちの暗躍が絡んでいたのでしょう。
なお真偽はともかくとして、阿麻和利は護佐丸の子であったが、それを阿麻和利は知らなかったという説も、あながち否定しきれないところがあります。また二人は共にそれを知っていた上で策略にはまって戦わされたとも考えられなくもありません。
ちなみに阿麻和利の母は、南山一の美人と謳われた兼城若按司の娘で、武富若按司と許嫁でした。一説では、南山の滅亡により読谷の渡具地港へ逃げてきて上陸し、古堅村に隠れ住んでいたところ、屋良大川按司の知るところとなって妾になったとされます。別の説では、屋良大川按司が南山攻めの際に捕虜として兼城若按司の娘を連れてきたとされます。個人的には後者か、あるいは別の事情だと考えます。というのは、父親の兼城若按司と武富若按司が、共に八重山諸島に逃げて竹富島に行った経緯を考えると(竹富島は武富若按司の名から)、一緒に行ったり、呼び寄せられていないことから、兼城若按司の娘は何人もいて、阿麻和利の母は恐らく正妃以外の娘だったのだろうと予測するからです。血を引く者にしても兼城若按司の娘ではない可能性も無くはありません。
ところで、阿麻和利が護佐丸の子であったかも知れないという興味深い考え方があります。が、それは阿麻和利の父が誰かがわかっていない点、阿麻和利が幼い頃、貧乏だった生活に似合わぬ高価な服があった点、母親が阿麻和利に、お前の父親は名のある人だと語った点などを元にした考えです。特に「名のある人」物が、護佐丸だとを考えられなくはありません。というのは諸説あるものの、阿麻和利の母は屋良大川按司の妾となり(按司の本妻の嫉妬が強くて屋良城を追い出されたとも)、護佐丸はその頃、屋良城をよく訪れていた形跡があります。すると高価な服は、護佐丸か、その家臣によって阿麻和利の母の間にあったと想像するのは、あながち飛躍した考えではないと思います。それだけの関係が、護佐丸と阿麻和利の母の、二人の間にあったと想像するのも、自然に思えなくもありません。
あくまで私の想像の域をでないものですが、2人が失脚した政変そのものにばかり、歴史のスポットが当てられ過ぎてきた結果、大切な部分が忘れられている気がして仕方がないのです。護佐丸の変や阿麻和利の乱が起こった経緯や目的、なによりその2つの寸前、どういう事が起こっていたのかという点です。尚泰久王が冊封を受けた際の首里城を、みなさん、想像してみて下さい。王からすれば、目の前に、護佐丸と阿麻和利が控えていて、さぞ尚泰久は自分の力を人々に見せつけ、鼻が高かったのではないでしょうか。一方、琉球の諸侯からしてみれば、最も強力とされる護佐丸と阿麻和利を御前に控えさせる尚泰久王は、まさに琉球の國王たるべき姿だったのではないでしょうか。
いずれにしても今後、根拠とする資料などに基づいて、きちんと正しく論理が立てられ、琉球の歴史がより正確に学者や研究者によって整理されていく事になるでしょう。
なお、組踊り「二童敵討」や民話や様々な資料では、忠臣として得な役回りなのが護佐丸で、逆に酷く可哀想で損な役回りが阿麻和利です。
ただそれはあくまで組踊りの筋であって、歴史的真実とは異なるというのが私の立場です。
組踊りの筋は、尚泰久王の視点で考えると、護佐丸は、妻の父で親族なのに対して、阿麻和利には、娘を嫁がせたものの、血が繋がっていないのですから、悪役なのは当然ともいえます。そしてまた護佐丸は、長年、王府と共にあって国を支えてきた人物ですから自然なようにも思えてしまいます。
しかしながら、金丸の視点ではどうでしょうか。護佐丸も阿麻和利も、自分の天下取りにおける最大の邪魔者です。天下を取るなり、第一尚氏の痕跡を次々と秘密裏のうちに消し去っていった金丸の行為こそが、その真意を如実に物語っているのではないでしょうか。
ところで、ここでひとまず、護佐丸と阿麻和利と尚泰久の、三人の関係を、百度踏揚を加えて、簡単に整理しておく事にしましょう。
尚泰久にとって、護佐丸は「岳父」=正妃である「妻の父」です。
そして、尚泰久は、娘の百度踏揚を、阿麻和利に「妻」としてさし向けます。
百度踏揚にとっては、阿麻和利は夫、護佐丸は祖父、そして尚泰久の正妃が母です。(※尚泰久の正妃は、この数々の事件のさ中、病で突然亡くなり、側室が正妃となります。おそらく何者かによって殺されたとも思われますが、ここがまた謎に包まれています。この側室と金丸との関係も疑われますが、少なくともやがてこの二人は仲違いします。)。
従って、護佐丸と阿麻和利の両者は、王家の百度踏揚を挟んで、親類関係にあり、それこそが平和のうちに天下がおさまる最良の手段でした。現に、王となる尚泰久は、明から冊封使を迎え、護佐丸を義理の父として、阿麻和利を義理の息子として随えました。尚泰久にとっても琉球國にとっても、これ以上は望めない、最高の状態です。そしてまさに百度踏揚はまさに平和の象徴を具現化した存在でした。
にも関わらず、次々と事件や戦が立て続けに起こり、あっという間に、琉球を統一した第一尚氏王統は、金丸によって滅ぼされてしまいます。この歴史的事実に全くメスが入れられてこなかったことの方がむしろ不思議でなりません。
伝承によると阿麻和利は、護佐丸亡きあと、王府を攻めようと計画していた事になっています。ところが祖父を夫の阿麻和利に殺されて恨んでいた百度踏揚が首里に逃げたことで計画が発覚し、阿麻和利は王軍によって滅ぼされた事になっています。これも辻褄が合わないことばかりです。百度踏揚は自分で逃げたのではなく、大城が(=大城賢雄)逃がしたとされますが、大城は勝連城にいたのではなく、中城攻めの直後で首里城にいたのであり、わざわざ勝連城に出掛けて百度踏揚と共に首里城に戻ったことになります。
冷静に考えてみればわかるように、これも金丸にとって都合がいい、護佐丸の時と同じ、辻褄合わせの無理な筋書きです。阿麻和利を討つ口実として都合がいい話であり、全く合理性に欠けた筋で、考えれば考える程、辻褄が合わない事ばかりです。阿麻和利は勝連の人々に慕われていた王であり、百度踏揚も王女として人々から慕われていたのではないでしょうか。
結果的に、阿麻和利は殺され、王の娘である百度踏揚は生きているという事実から推理出来るのは、百度踏揚が首里に逃げたのではなく、父の尚泰久王としては攻める前に娘を連れ戻したかった筈で、百度踏揚としては戦争を避けようと父に会って説得するために首里に行ったと考えるのが、自然なのではないでしょうか。護佐丸攻めも、阿麻和利攻めも、百度踏揚の勝連城の脱出も、大城が実行犯として暗躍しますが、百度踏揚は間もなく妻子がいた大城に払い下げられる事実から推測できるのは、金丸が、琉球一の美女を餌にして大城を操ったのだろうということです。もっとも大城も用無しになるなり殺され、墓はあっても遺骨は行方知れずという、自業自得の末路を辿ります。大城の子を生んだともされますが、少なくとも百度踏揚が愛情を寄せるに値する人物ではありませんでした。
それにしても本当のところ、歴史的事実として護佐丸や阿麻和利に、王府を攻める気があったのでしょうか。2人がその準備をしていた形跡があったのでしょうか。2人は本当に殺されなければならない運命だったのでしょうか。
すべて金丸が、そう尚泰久王に吹き込んだだけのことです。
いずれにせよ、阿麻和利が、目の前に城が造られるのを黙認する筈がないと、現地を訪れた時の、そんな直感から生まれた様々な疑問で私の頭は一杯になり、中城で、以上のような、あれこれの夢想に、すっかり耽ってしまいました。
確かに私の疑問など、今となっては、どうでもよい事かも知れません。
ただ護佐丸や阿麻和利以上に、罪がまったくないのに最も酷い目にあったのは、琉球一の美女であり、平和の使者だった、歴史に名高い百度踏揚ではないでしょうか。
琉球一の美女であったという容姿容貌は、ともかくとして、後世の誰一人として、百度踏揚の知性や愛情や人となりに注目してこなかったのが、不思議でなりません。歴史的に百度踏揚は、護佐丸や阿麻和利同様に過小評価され過ぎなのではないでしょうか。護佐丸や阿麻和利の配下の有能だった者達や、勝連兵もまた過小評価され過ぎです。逆に、金丸とその一族による、尚泰久や大城は余りに過大評価され過ぎです。それもすべて、金丸によるクーデターを隠蔽するためだったにせよ、今となっては実際がどうであったにしても今更困まる人などいないのですから、歴史は常に公平にあるべきです。
琉球國の正史による言い伝えでは、護佐丸の変や、阿麻和利の乱は、尚泰久が覇者の如く無理に演出されている気がします。それはまた、金丸に目が向かないように脚色されているように、私には思えてなりません。
ところが覇者であるはずの尚泰久の在位は短かく、子である次の王が第一尚氏の最後の王となります。しかも、正妃の第一王子が世継ぎにならず、第三王子の尚徳王が、第一王子や第二王子をさしおいて王になります(※王位には順があり、いかに第三王子の母がいかに画策できたとしても、側室から継妃になっていたとしても、無理な話であり、やはり金丸が絡んでいた筈です。なお、この尚徳王もそれまでの王、同様に、諸説あるものの謎の死を遂げるだけでなく、歴史上かつてない残虐な事件が勃発。王妃、世子、王母(宮里阿護母志良礼)、乳母、第二夫人、尚徳王の近臣たちが抹殺されます。)。金丸は、王を支える立場にありながら、散々足を引っぱることばかりを画策していきます。この点や、その後の第一尚氏の行く末えに触れようとしてきた研究者は、今まで皆無に近い気がして残念でなりません。
そしてなにより、第一尚氏ゆかりの者達が第二尚氏の金丸によって、悉く滅ぼされ、歴史から消されてきた点に光を当てられてこなかった事が気にかかります。
尚泰久が王子の時に金丸(※後の尚圓王)を見出し、王になる可能性がまずなかった尚泰久が王になったのも、金丸あってのことなのではないでしょうか。王府に金丸を尚泰久が入れるなり次々と世継ぎが代わって、尚泰久、そして金丸が王になるのですから。
いずれにせよ一族を、金丸に滅ぼされてしまったのですから、結局のところは、尚泰久に人を見る目がなかったために、国を統一して琉球國を建てた尚巴志王統、つまり第一尚氏王統は滅んだと結論付けられると思います。また逆に、第二尚氏王統からすれば、金丸が王府に入って天下を取れたのは、なにをおいても尚泰久のお陰ということになります。
繰り返しになりますが、今回取り上げた事件に続いて、第一尚氏の一族は、第二尚氏に滅ぼされてしまうのですから、その事実から推測出来るのは、多くが意図的に金丸によってなされたに違いないというのが私の考えです。
いうまでもなく現実の覇者は金丸でした。そして第二尚氏によって、第一尚氏の墓である天山陵(天齊山)は荒らされ、それを察知した一族により他へ密かに移され、現在、沖縄の人々からでさえ忘れ去られた地にひっそりと佇んでいたりします。しかしながら、第二尚氏はクーデターにより第一尚氏をそのままそっくり乗っ取ったのであり、金丸にいたっては次々と戦争を起こしていながら何の武勲も立てていません。それでも第二尚氏には、尚眞王のような優秀な王や家臣が現れます。しかしそれも続かず、いくらも経たないうちに、事実上は島津に支配されます。それでもその1609年から1879年まで、第二尚氏の歴史として綴られてゆくことになります。一方、第一尚氏王統は、わずか七代、六十四年間にして滅び去るものの、この王統こそが琉球本島を統一して琉球國を建国した事を、ないがしろにしては絶対にいけません。
歴史もまた、先の王の悪政によって金丸がみんなに押されてやむなく王座についた事に、書き換えられていきます。
その後の、第一尚氏の痕跡を必死に消そうとする一連の動きも、私の仮説なら説明できるのであり、辻褄も合うと思います。そして、もしもそうであったなら、阿麻和利、護佐丸、尚泰久、尚徳王、そして百度踏揚はもっと違った様々な角度から歴史的に見直されることによって、真実が探求されべきなのではないでしょうか。
なお、前政権を倒した金丸でさえ、明に対しては、政権が問題なく移譲したかの体裁をとらなければ力を維持することが出来ませんでした。けれども、農民から王に駆け登り、見事にすべてをやってのけた金丸が、大変な人物であったことに、異論を唱える人は、まずいないと思います。
※三山を統一した尚巴志は、勝連城対策として(※阿摩和利より前)、尚布里の江洲城、尚泰久の越来城によって勝連城を牽制(※後に、護佐丸の中城が加わることになる)。しかし後任の按司が置かれるにせよ尚布里、尚泰久は後に、首里に移ってゆく。中城が様々な点でより重要となる。阿摩和利の勝連城も連動して状況は常に変化。第二尚氏の尚眞王以降、護佐丸の子孫の毛氏や、大城(鬼大城)の子孫の夏氏は、王府の中枢にまで出世する者が出る一方、阿摩和利には子孫が無いために、歴史的に一方的な悪者にされたと考えられる。
※阿摩和利は、勝連城の戦いで亡くなった説以外に、読谷山の大木の俎畑まで逃げ延びたところで、首里軍に追い詰められて殺されたという説もあり、そのため読谷村大木に阿摩和利の墓がある。真偽はともかく、この墓を知らない人や、何故そこにあるのかも殆ど知られていない。(※この周辺は、歴史的に度々、区画が変更になってきた点に留意)。この場所に、なぜ阿摩和利が逃げてきたかは、想像しやすい。阿麻和利の母は、南山の兼城按司の娘とされ、たとえそうでなくともゆかりの者である可能性は高く、南山が滅んだ際に船で逃げ、渡具地港から上陸して、古堅村に住んだとされている。従って母子にとって読谷や嘉手納の屋良周辺は、馴染みの土地といえる。
※第一尚氏の尚泰久までは、首里の龍潭の北近くの「天山陵(天齊山とも)」という王陵に葬られてきたものの、第二尚氏がクーデーターで政権を取った際に荒らされて焼かれたとされる。それを察知してその前に尚徳王の遺臣や第一尚氏にゆかりの者達により、先の王達の遺骨は持ち出されたと言われている。現在、尚巴志、尚忠王、尚思達王の墓は、読谷村の伊良皆に、尚金福の墓は浦添市城間にある(※浦添の同仁病院の裏に墓の遙拝所だけが残る。近くの、皇(コウ)グスクは現在ないものの、王の側女はここで王の子を産んだとされる)。尚徳の墓も今はなく、陵墓跡のみ(※識名公民館ホールの隣りの、大きなマンションの前に陵墓跡の碑がある)。尚徳王の死には、様々な説があり、その一つがこの場所。尚徳王の大守役(※子守役)が、上間の安謝名であり、金丸のクーデター後、尚徳王は安謝名に身を隠していたところ、三か月後に、風邪をこじらせて死亡したという話(『上間誌』)。遺体は、カネマン御墓(安謝名家の御墓、今の尚徳王御陵蹟碑)に葬られたとのこと。尚巴志の父、尚思紹王の墓は「佐敷ようどれ」。(※以前あった場所からここに移されたとされる。自衛隊基地の中だが、入り口で申し出れば案内して頂ける)
※百度踏揚と弟の多武喜の墓は、現在、玉城冨里・当山にある。元々、百度踏揚の墓は、近くのイリーシチ原にあったのを、玉城中学の建設のために移された。また多武喜の墓は、元々、当山大川城の近くにあったのを、百度踏揚と一緒の墓に合祀。長男の金橋は父の尚泰久と共に、尚泰久の兄の布里の墓を挟んで、現在、玉城冨里・当山にすべてがある。なお尚泰久の遺骨は、最初、尚泰久の乳母の出身地、石川の伊波に葬られた後、今の玉城に移されたと言われている。
※大城は、俗称を鬼大城とも。ただあくまでそれは、通り名。唐名(とうめい/とうみょう/からな)は夏居数、名のりが賢雄であり、後世に子孫が追称したもので、それらは当時はなく、正しくは大城。護佐丸と大城は遠縁ながら、縁続き。(※大城~なぜ大城なのかというと、父の栄野比大屋子が亡くなり、母は幼い長男の鬼大城と弟二人を連れて、実家である美里間切知花の大城家を頼ったために、大城という。鬼大城は後に、首里に登って尚泰久に仕えるという表記があったりするが、知花は越来領であり、尚泰久は王になる前は越来王子として越来城の主のため、その時代から仕えていた尚泰久の家臣といえる)。百度踏揚が阿摩和利の妃として降嫁される際、恐らく護衛の長だったと思われるものの、首里王府にとって重要な人物であり、行き来はあっても、そのままずっと勝連城にいたとは考え難い。阿摩和利の首里攻撃の話を聞いて、大城が百度踏揚に告げ、一緒に首里に逃げる話はきわめて怪しく、後代に創作された作り話だと考えられる。というのは、尚泰久は王であり、娘の百度踏揚を首里城に引き戻すには、何か理由を見つけて、娘の百度踏揚を首里城に呼び出せば、事は足りた筈。あのような脱出劇はまったく不要。なお、百度踏揚が大城に降嫁されたという伝承、再婚した百度踏揚が再び越来城で過ごしたとする伝承は、オモロのある解釈からきているだけであり、首里にあって、後に兄弟同様、玉城に移ったと見る方が自然と考える。
※金丸(尚圓王)は、伊平屋間切伊是名村の出身とされるが、島から追い出されるだけでなく、次々と行き先のシマを追われる。その点は広く伝承として伝わってきたが、その理由についてあまり注目されてこなかった事が、不思議でならない。言い伝えでは、墾田の才能があったために嫉妬されたとか、女に目がなかったためとか等とされてきたが、冷静に考えればおかしい。比較的温厚な、島やシマの村人たちを本当に怒らせ、そこにいられなくなるほどの度を過ぎた事件を、行く先々で起こし続けたからこそ、行く先々で、部落を追い出されたのであり、今後、もう少し掘り下げて研究されるべきだと考える。伊是名島の諸見→(国頭)宜名真→奥間→久志・・・・・・と、次々に移動する(※奥間では奥間大主の娘に手を出したから、久志では大浦大主の娘に手を出したからという伝説がある)。一方で、金丸(尚圓王)からすると、伊是名から追い出されたのであり、よく思っていなかったようで、それは当然といえるだろう。それでも、第二尚氏王統の始祖である金丸(尚圓王)の出身が伊是名島ということで、尚眞王の時代に、首里の玉陵造営後に伊是名玉陵も造営されたと伝わるが、一説には、尚圓王の側室から王妃となった宇喜也嘉(尚眞王の母)が尚眞王に造らせたともいわれている。伊是名の言い伝えでは、伊是名玉御殿は、最初、勢理客の東村の外れの、ウツタグチテランソウに造られ、後に、仲田の東佐久原に移し換えられて、更にその仲田から現在地に移し換えられて祀られたとのこと。現在の伊是名玉陵の墓石は二つあり、左の墓室には尚圓の両親、つまり、父尚稷王(※追尊で王位には就いてない)とその夫人、及び祖宗の遺骨が納められているという。右の墓室には伊平屋列島の初代あんがなしに任命された尚圓の姉真世仁金をはじめとする代々の遺骨が葬られているといわれる。
※史書の記録では、首里城は数度にわたって焼失。一度目の焼失は、1453(享徳2)年の、志魯・布里の乱で、城内は完全に消失。尚泰久は、冊封に向けて再建する。二度目の焼失については、多くの解説資料から抜け落ちている。尚泰久王の在位中の、護佐丸の変・阿麻和利の乱の頃の、火災。(※『明史』によると、二度目の火災の翌年(天順3年/1459年)、尚泰久王は明国に使者をおくり、首里城の火災により王庫が消失し、銅銭や明国からの品々が焼けてしまった事を報告。明国はそれを受け、銅銭、荢糸、沙羅、絹布などを尚泰久におくったとある)。個人的には、首里城が攻撃されたと考えている。最も可能性が高いのは、首里王府に裏切られた阿麻和利ではないだろうか。
※尚巴志以降から尚泰久まで、短期間に王が次々と代わった。普通ではありえないこのあたりの事情について、もっと様々な研究がされるべきだと考える。尚泰久の推薦により金丸が王府に入り、そして王が次々と亡くなる。もちろん、金丸が最初から全てに手を回したと考えるのは無理があり、もう少し慎重に考えた方が良いだろう。何か他の、王府の中の様々な事情も考えるべきだろう。それでも多くの事に対する金丸の関与は疑いきれない。そして尚泰久亡き後、金丸によるクーデターの末、第一尚氏は、第二尚氏によって次々と抹殺されてゆく。第一王子、第二王子、百度踏揚は、布里を頼って玉城へ行く事となったのではないか。
※「志魯・布里の乱」について、双方が傷つきたおれたとか、相打ちになったとの表記が多い。ところが、死んだ布里はなぜか生きていて、転々とした挙げ句に玉城へ行き、そこには今も墓がある。布里は勝利したにも関わらず、王位につかなかった。王位の正式な世継ぎは、先王の子、志魯である。乱によって首里城を焼いてしまった責任が問われ、布里は王位につかなかったと考えられる。責任を布里に問いつめた人物は、金丸ではなかろうか。
※金丸がクーデターにより尚圓王となるものの、それまで年に1度(実質は数回)だった明への進貢が、2年1貢制と制限され、乗員や私的な貿易品も厳しく制限され、これは琉球國にとって大変な痛手となる。つまり尚圓王は、明国と琉球國との関係を、極端に悪化させてしまった。理由は簡単で、問題を起こしてきた無能な人材を尚圓王はそのままつかったためといえる。そこから尚圓王の人柄、金丸時代に何をしてきたのかが垣間見られる。南海貿易も悉く失敗。歴史書にある、平和と平穏な治世が始まったどころではなく、在位七年にして、失意のうちに尚圓王は死去したと思われる。そして弟の尚宣威が王となるが、尚圓王の王妃宇喜也嘉の策略により王を退位させられ、尚圓王の宇喜也嘉の子、尚眞王が次の王となったことになっている。しかしながら尚圓王が亡くなったのは1476(成化12)年7月28日であり、尚宣威はその年のうちに王となり、翌年の1477(成化13)年2月に、宇喜也嘉の策略で退位したとされる。しかしながら、わずか半年で冊封が行われる筈もなく、従って明国から認められた王になっていないのは確かであると考える。王になろうとして失敗した事件が、伝えられてきた作り話にすり替えられたのではなかろうか。冊封がない以上、「尚宣威王」は存在せず、『中山世譜』の記述をそのまま鵜呑みし、今まで尚宣威が王についていない点を追求した者がいないのが不思議でならない。一方で、尚圓王の死去や尚眞王の即位の年の記述に異同があれば、尚宣威王は考えられる。
※第一尚氏王統の滅亡から200年余り経った近世に、琉球國に関する史記や家譜が編纂されてゆく。この頃には、護佐丸の子孫の毛氏の中には三司官まで出た。大城の子孫の夏氏もまた繁栄し、代々、王府の要職に就き、史記の編纂に従事する者もいた。その者達が、王府や先祖を悪く書くことなどできるわけが無く、むしろ先祖の行いを不名誉と考え、すべてを阿麻和利のせいにしたと考えられる。いずれにせよ、阿麻和利が極端に悪人扱いされ、不名誉きわまりない。
※一説に、金丸が尚圓王になった際、伊是名から逃げた際の苦楽を共にした妻が宜名座にいて、首里から迎えをさし向けたものの妻は断ったとも伝わっている。
※護佐丸と阿摩和利が親子であるという仮説を与並岳生氏が立てている。
※「首里城(スイグスク・シュリグスク・シュイグスク)」には様々な呼び名が存在してきた。「御城」、美称としての「真玉城」、同義語的対句の「首里森城」と「真玉森城」も首里城をいう。
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※感謝とお詫び
鈴木様より、組踊りの、二童敵討の粗筋が、後半『球陽』の粗筋になっているとのご指摘を受けました。まったくもってその通りでした。今回は、以前に書いたブログに、振り仮名を付け直したものですが、最初に書こうとした時、組踊りと、続けて民話の筋を並べるつもりでしたが、いつしかブログアップした時には、ご指摘のように内容が混ざってしまいました。
元々の原稿を書く際の、メモ書きが残っていたので、改めて修正し、アップしてみました。またその際に、鈴木様のアドバイスを反映させて頂きました。
ありがとうございました。感謝。いっぺー、にふぇーでーびる。
久志様
たくさんのコメント、並びに情報、ありがとうございました。
このところすっかりブログ、サボりがちで、お返事が遅れたこと、お詫びいたします。
頂いた情報、調べてみたいと思います。
感謝! m(_ _)m
中城城と中城御殿とは別物、中(久志)御殿とも言うらしい。
久志と言う名前は、その時に恩を受けた方の名前だそうです。だから、尚、しょうはひさしとも呼び、きゅうとも呼んで、久は、ひさしとも呼び、
子孫にも分かる様にしたそうです。元を辿れば、北部の久志も、中城の間切りを管轄した時には、そちらも、久志ではなく、久志の地頭と言う事で久志を名乗ったとか、元は尚家の分家で、中とは、切っても切っても、切れない縁だったのかもしれません。
尚家に伝わる宝刀が何故、津堅島の久志の家に祀られていたのか、それは、紛れもなく、久高島島で、命を落としたとされる方の忘れ形見がいたからでは、久志の屋号は、中だよ。この家からは神人の出る家系としても有名で、中山世鑑を見て下さい。アマミキヨの下りで、王も神人も同じ家から出て兄弟や姉妹だって事を、この家の方は、今でこそ、久志を名乗ってはいるが、元々、久志ではないよ。よほどの事があって、本当の名前を名乗れなかったのです。
中と言う字は、当時の沖縄では禁字とされ使う事は許されませんでした。まして、本家で、ありながら小(ぐわ)を屋号の後に付けるなどありえません。なので中ぐわは、蔑んで自らを呼ぶ時の呼び名で、周りが中ぐわと呼んではなりません。
中ぐわ、ぐわ、と余計に呼ぶ事になるからです。
それに、ぐわは、何よりも、分家を指す言葉でもあるからです。中と言う字は、尊いのです。
す~み~2号から、す~み~1号へ。
まったく、その通り。
特に、第二尚氏による、第一尚氏の歴史は正しく疑った方がいいです。
そもそも、つじつまが合わないことが多いのだから。
というより、すべて第二尚氏向きに、書かれていて当たり前なので、
やはり、全てを公平に、歴史がかたり継がれなくて、いけません。
第二尚氏は、第一尚氏を隠滅しようとした形跡が強い。
その理由は、対明対策から簡単に想像できる。
それにしても、墓は特に差が大きい。
逆につきつめてみると、
やはり金丸という人物の器の大きさは、いうまでもなく凄いといえる。
それにしても、
古代のグスクなども、もっときちんと保存すべきだと思う。
まあ、僕たちのようなヤマトンチュウが頑張っても、
先祖崇拝にはならないと思いますが、
それでも、沖縄の神様は、きっと喜んで下さるに違いないから、
す~み~1号とす~み~2号は、沖縄の歴史に感謝しながら、
マニアックな徘徊を、これからも続けていこう。(笑)。
ルミさん、はいさい、今日、拝なびら。
護佐丸は、昨年、さんざん探し回って見つけられず、
やっと見つけました。
今は、ずいぶん、綺麗になっています。
それでもって、仲本さんが連れて行って欲しいというので、
また直ぐに、行きました。
実は、今回、アップした所で、簡単に見つけられた所はなくて、
どこも苦労しました。
どうも、教科書には書かれている歴史に、少し疑問をもっているからです。
特に、第一尚氏に関する歴史は、かなりアヤシイ~&おかしい~。
もちろん、今回、アップした以外にも、色々と回って、探し回りました。
普通なら、青い海や女の子でも探し回っているのが普通なのに、
ますます僕は、変人になっていきますぅ~。
飛行機のって、遙々、出掛けていって、僕は何してんだろう?(笑)
あ~、だよだよ、わかるなぁ。
第一尚氏のこと、たしかに、
あんまり、詳しく触れてないって感じだよね。
歴史書は、その時代の権力者など、
影響力がある人らに、
都合よく書かれてるからさ、
それを、元に、作られてる歴史書が多いだろうし。
ほんとの史実って、別にあると思う。
でね、王様の墓もだけど、
王妃様の墓も、見ごたえあるってよ。
でね、歴史的価値がある、すばらしい作りの
王妃様の墓が、いまにも崩れそうになっていたり。
それが、第一なのか、第二にあたるのか、
ちょっと、うちは、よう把握してない。
でも、王妃様のお墓を調べるのも、
何かしら、
第一尚氏につながる部分があるかもしれんよ~~~!
横浜のtoshiさん
こんにちは
toshiさんは、こんなにたくさんのお墓参りをしたのですか
探すだけでも大変だった事でしょう。
頭が下がります。
ところで、私は 護佐丸のお墓参りを
ずーっと前(25年前位?)にしました。
護佐丸の子孫の
方が我が家にいらっしゃって
我が家もその子孫にあたる事を教えてくださいました。
(沖縄の方は、調べていけば、
護佐丸、阿麻和利の子孫になる方が多いと聞いた事があります)
その方の案内で
義父母、主人、私で 護佐丸のお墓参りをしました。
木々が生い茂って、
足元も気をつけながら お墓参りをした思い出があります。
今は、お参りしやすく、きれいになっているかも知れませんね。
す~み~2号から、す~み~☆さんへ。
他にも、いくつか回ったんだけれども、伊波城跡は行ってないです。
第一尚氏滅亡の謎が、このところの自分のコンセプトなんです。
沖縄の人なら誰でも知っている、歴史に名を残した人達なのに、
第二尚氏王統によって、徹底的に滅ぼされて痕跡まで根絶やしなので。
この当たりについて、教科書などに書いてある事、多分、違っていると思う。
そもそも第二尚氏によって歴史書とかが編纂されてきたんだから、
この辺りの事が、正しく伝わっている筈が無いが。
それでも上は、国や県の指定にすら入っていなくて、
地域の人で、存在を聞いて知っていてさえ、実際は行ったことがない人が多い。
伊波城跡って、石川の、住宅地の入り込んだ所にあって、
見つけるのが大変だったっていう記事、誰かのブログにあった気がします。
今帰仁系統の末裔
あと、海中道路を渡った島々のグスクは、行く機会は二度もあったのに、
調べきれんかった~。
これはまた、ゆっくりと。あるいは行くなら、史料、あげるよ~。
これ以上、グスク巡りしてると、本筋の民話から、ますます逸脱しそうなので(笑)
おもいっきり墓巡りしてきたね~~~!
うちは、まだ、このどれも、
墓は行ったことないけど、
阿麻和利など、
沖縄の歴史に名を残した人らの、
大元になるご先祖の墓なら、
偶然に行ったことあるさ。
と~し~さんも、いったことあるかもしれんけど。
伊波按司の墓。
伊波城跡も、なかなか、いい感じの場所だし、
もし、行ったことがなければ、
ぷら~~っと!
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