てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球沖縄(初期長編) › 新・麗しき4つの城が、生き残りをかけて・・・・・・
 阿麻和利(あまわり)護佐丸(ごさまる)尚泰久(しょうたいきゅう)金丸(かなまる)鬼大城(うにうふぐすく)、そして琉球一(りゅうきゅういち)美女(びじょ)(うた)われる百度踏揚(ももとふみあがり)について(おも)いを()せ、(わたくし)なりに(すこ)真実(しんじつ)(せま)ってみたいと(おも)います。


 かつて沖縄本島(おきなわほんとう)(うつく)しい4つの(ぐすく/ぐしく/じょう)命運(めいうん)が、まさに()かれた時代(じだい)がありました。

 (しろ)()は、
座喜味城(ザキミじょう/ザキミぐすく/ザキミぐしく)
中城(ナカじょう/ナカぐすく/ナカぐしく)
勝連城(カツレンじょう/カッチンぐすく/カッチンぐしく)
首里城(シュリじょう/シュリぐしく/スイぐすく/スイぐしく)

 座喜味城(ザキミじょう)中城(ナカぐすく)護佐丸(ゴサマル)(しろ)
 勝連城(カツレンじょう)阿麻和利(アマワリ)(しろ)
 首里城(シュリじょう)首里王府(シュリおうふ)尚泰久(ショウ・タイキュウ)(しろ)

※参考①「首里王府(シュリおうふ)
~ここでいう首里王府(シュリおうふ)とは、琉球國(リュウキュウこく)の、第一尚氏(だいいちしょうし)第六代(だいろくだい)尚泰久(ショウ・タイキュウ)(おう)の時代の王府を指します。琉球(リュウキュウ)統一(とういつ)するという偉業(いぎょう)()()げた第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)にあって、尚巴志の五男でありながら王にまでなった人物が尚泰久(ショウ・タイキュウ)その人で、結果的(けっかてき)には金丸を王府内に入れ、第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)滅亡(めつぼう)()いやることになってしまった。

※参考②「(ぐすく/しろ)
琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)場合(ばあい)の「城」という()は、城郭(じょうかく)()の「(しろ)」をいう場合(ばあい)と、「聖域(せいいき)」をいう場合(ばあい)があります。なお、琉球(りゅうきゅう)沖縄(おきなわ)(ぐすく/しろ)(かなら)ずといっていいほどいくつかの聖域(せいいき)をもちます。

※参考③「中城(ナカぐすく)か、中城城(ナカグスクぐすく)か。」
~おもろに、(しろ)()として「中城」が()てきます。中城城という()(かた)には(むかし)から違和感(いわかん)(おぼ)えてきました。(おそ)らく中城(なかグスク)ができた(のち)、その地域(ちいき)()(かわ)ったか、(あら)たにその()になったのだろうと(かんが)えられます。地名(ちめい)(しろ)区別(くべつ)するため、(だれ)かが中城城という(へん)()(かた)をし(はじ)めたのかも()れませんが、(つく)られた時代(じだい)に、中城城と()ばれていない(うえ)(ほか)にこういう(れい)(あま)りないことからも、 「ナカグスクぐすく」や「ナカグスクじょう」といった、「城」を2つ(かさ)ねる()(かた)には違和感(いわかん)(おぼ)えざるをえません。勿論(もちろん)(たと)えば中城(ナカグスク)という人物(じんぶつ)(つく)った(しろ)のため、「人名(じんめい)+(しろ)」という可能性(かのうせい)否定(ひてい)できません。個人的(じこんてき)には、地名(ちめい)(しろ)()中城(ナカぐすく)()いと(おも)います。なお、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)地名(ちめい)末尾(まつび)(しろ)()くのは、そこにかつて(しろ)があった場合(ばあい)(すく)なくありません。発音(はつおん)(かん)しては、もう(すこ)(かんが)えていきたいと(いか)っていて、自分(じぶん)なりの結論(けつろん)完全(かんぜん)()ているわけでなく、あくまで現時点(げんじてん)での(かんが)えです。
なお想像(そうぞう)(いき)を出ませんが、ナカグスクはダイグスクの上に立てられたのではないかと(かんが)えています。
 以下(いか)()(やす)くするために、中城(ナカぐすく)座喜味城(ザキミじょう)勝連城(カツレンじょう)首里城(シュリじょう)表記(ひょうき)します。


 沖縄本島(おきなわほんとう)において、座喜味城(ザキミじょう)西(にし)の、中城(ナカぐすく)勝連城(カツレンじょう)(ひがし)の、(うつく)しい(うみ)(なが)めるには素晴(すば)らしい高台(たかだい)(いず)(おと)らぬ絶好(ぜっこう)場所(ばしょ)にあります。

 (はなし)(すこ)しそれますが、様々(さまざま)研究書(けんきゅうしょ)書物(しょもつ)()んで、実際(じっさい)(はなし)舞台(ぶたい)である土地(とち)(おとず)れ、自分(じぶん)()()(からだ)(かん)じる(こと)は、とても重要(じゅうよう)だと(かんが)えてきました。大好(だいす)きな奄美(あまみ)沖縄(おきなわ)を、(かぜ)()かれて(たび)してきましたが、その()()かなければやっぱりいけないと(もっと)(かん)じた一つが、中城(ナカぐすく)()った(とき)経験(けいけん)です。

 その()の、(しろ)から見下(みお)ろす中城湾(ナカぐすくわん)(うつく)しさは格別(かくべつ)でした。(しろ)のてっぺんで、心地(ここち)よい(かぜ)(はだ)(かん)じながら、ここで()こった(むかし)(おも)いを()せました。

 しかしその(とき)にふと、(ほか)(しろ)とは(ちが)(なに)かを、中城(ナカぐすく)(かん)じたのです。それは不思議(ふしぎ)感覚(かんかく)でした。(かんが)(はじ)めて(しばら)くして、その違和感(いわかん)正体(しょうたい)気付(きづ)きました。

 海岸沿(かいがんぞ)いの高台(たかだい)()琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)(しろ)(おお)くは、(はる)彼方(かなた)(うみ)まで見渡(みわた)せるように、普通(ふつう)(うみ)()かって(かま)えているものです。

 ところが、中城(ナカぐすく)は、(ちが)方向(ほうこう)(かま)えているではありませんか・・・・・・。

 (しろ)(かま)える方向(ほうこう)に、自然(しぜん)視線(しせん)(うつ)ります。するとそこには(なん)と、数ヶ月前(すうかげつまえ)(おとず)れたばかりの勝連城(カツレンじょう)があるではありませんか。その(こと)(おどろ)くと同時(どうじ)に、(こし)()かすほど(おどろ)いた(てん)は、中城(ナカぐすく)勝連城(カツレンじょう)が、想像以上(そうぞういじょう)近過(ちかす)ぎる(こと)なのでした。

 2つの(しろ)は、()()(はさ)んで、むこうとこちら。こんなにも(おお)きな(しろ)同士(どうし)が、同時代(どうじだい)に、(ちか)くにあるケースにお()()かることは滅多(めった)にありません。(たし)かに実際(じっさい)距離(きょり)はそれなりにありますが、(けっ)して(とお)くないのです。どちらも(うみ)見下(みお)ろすには最高(さいこう)場所(ばしょ)()っていますが、同時(どうじ)に、(しろ)頂上(ちょうじょう)から(たが)いの(しろ)が、(とお)いとはいえども、丸見(まるみ)えです。

 それでも勝連城(カツレンじょう/カッチングシク)は、(のぼ)ってみれば()かりますが、基本的(きほんてき)には(うみ)()かって(かま)えています。

 しかしながら、中城(ナカぐすく)は、勝連城(カツレンじょう)()かって(かま)えているだけでなく、()()けば、(とお)首里城(シュリじょう)()(かま)えている、なんともいえぬ違和感(いわかん)あります(※もっとも、(いま)中城(ナカぐすく)の、裏門(うらもん)当時(とうじ)正門(せいもん)であり、今のみなさんが(おとず)れる(ほう)(むかし)裏門(うらもん)()たります)

 (じつ)は、中城(ナカぐすく)(おとず)れる(まえ)に、護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)尚泰久(ショウ・タイキュウ)にまつわる(はなし)()っていたからこそ、そしてそれぞれの(はなし)から、勝連城(カツレンじょう)中城(ナカぐすく)の2つの(しろ)がかなり(はな)れているものだと勝手(かって)想像(そうぞう)していたからこそ、中城(ナカぐすく)に、実際(じっさい)()()()いた(とき)、ある直感(ちょっかん)違和感(いわかん)(おぼ)えたのであり、(つた)わる歴史(れきし)がどこかおかしいと(かん)じたのでした。

 そもそも護佐丸(ゴサマル)には、西海岸(にしかいがん)に、座喜味城(ザキミじょう)という立派(りっぱ)(しろ)がありました。護佐丸(ゴサマル)は、琉球(りゅうきゅう)統一後(とういつご)、たびたび城替(しろが)えをさせられていますが、座喜味城(ザキミじょう)元々(もともと)出生(しゅっせい)()にあります。ところが尚泰久王(ショウ・タイキュウ・おう)(めい)()け、座喜味城(ザキミじょう)一部(いちぶ)(こわ)してまで(はこ)んで、阿麻和利(アマワリ)がいる勝連城(カツレンじょう)の、()(はな)(さき)に、せっせと中城(ナカぐすく)(つく)った(こと)になります。元々(もともと)(ふる)台城(でぃグシク)城跡(しろあと)があった(ところ)増築(ぞうちく)したとはいえ、中城(ナカぐすく)(おお)きな(しろ)であり、当然(とうぜん)(しろ)出来(でき)るには、それなりに時間(じかん)(かか)かった(はず)です。

 (まった)()()ないとはいえませんが、(つた)えられてきた(はなし)のように、本当(ほんとう)にそんなに短期間(たんきかん)中城(ナカぐすく)建造(けんぞう)されたのでしょうか。

 さらに、それよりもっと不可思議(ふかしぎ)でならない(こと)があります。それは阿麻和利(アマワリ)が、自分(じぶん)(しろ)から()える場所(ばしょ)に、自分(じぶん)()める(しろ)(つく)られていくのに気付(きづ)かなかったというのでしょうか。それは、まずあり()ません。勝連城(カツレンじょう)は、中城(ナカぐすく)が出来ることによって、越来城(ごえくグスク)江洲城(えすグスク/いーしグスク)中城(ナカぐすく)の三つの城に(かこ)まれることになりますが、やはり中城(ナカぐすく)琉球(りゅうきゅう)トップクラスの規模(きぼ)(ほこ)(しろ)である事を忘れてはいけません。

 そう(かんが)えると、護佐丸(ゴサマル)(しろ)(つく)(こと)が、阿麻和利(アマワリ)にとっても()るところがあったからこそ、中城(ナカぐすく)築城(ちくじょう)まで(なに)もしなかったのには理由がある、そう(かんが)える(ほう)が、私個人(わたくしこじん)としてはどうしても自然(しぜん)()がします。

 (あん)(じょう)中城(ナカぐすく)完成(かんせい)して、(ちから)消耗(しょうもう)しきった護佐丸(ゴサマル)は、阿麻和利(アマワリ)(ぐん)と、首里軍(しゅりぐん)前後(ぜんご)から(しろ)(はさ)まれ、(ほろ)ぼされてしまいます。

 (つづ)いて、()もなく中城(ナカぐすく)(すす)んだ首里軍(しゅりぐん)によって、勝連城(カツレンじょう)阿麻和利(アマワリ)もまた、()(ほろ)ぼされてしまいます。

 (ただ)し、この筋書(すじが)きは、現代(げんだい)(つた)わる、琉球沖縄(りゅうきゅうおきなわ)歴史(れきし)名高(なだか)い、「護佐丸(ゴサマル)(へん)」と、「阿麻和利(アマワリ)(らん)」です。首里王府(しゅりおうふ)完全勝利(かんぜんしょうり)によって、(まく)()じる筋書(すじが)きです。

 しかしながらそれでは、そもそも(すじ)(とお)らないことばかりです。

 結局(けっきょく)結果的(けっかてき)には、首里王府(しゅりおうふ)が、次第(しだい)(ちから)()けてきた2つの大勢力(だいせいりょく)見事(みごと)(つぶ)したかのようで、それはその(とき)情勢(じょうせい)(かんが)えれば、首里王府(しゅりおうふ)がとってもおかしくない一つの選択(せんたく)として、当然(とうぜん)()()きと()えなくはありません。しかしながら、その選択(せんたく)は最初からあったにも関わらずその方法をとらず、尚泰久王(ショウタイキュウおう)は結局、娘を阿麻和利に嫁がせ、平和的解決(へいわてきかいけつ)(みち)(えら)んだ(はず)だったのでは、ありませんでしたか。それがなぜ、そんなことになってしまったのでしょうか。

 冷静に考えればわかる通り、尚泰久王(ショウタイキュウおう)冊封使(さくほうし/さっぽうし)(むか)えた(さい)、自分の前の左右には、()の父、つまり義理(ぎり)の父である護佐丸(ごさまる)と、娘婿(むすめむこ)阿麻和利(あまわり)(ひか)えていたはずです。冊封使側(さくほうしがわ)にそれは関係なくても、そこに集まった琉球側の当代きっての人々からすれば、2人がいることによって尚泰久(ショウタイキュウ)が王として燦然(さんぜん)と輝いて見えたのは間違いないところで、誰もこの王に逆らおうなどとは考えられなかったはずです。

 伝わる話の(なぞ)というかインチキですが、ここが(もっと)大切(たいせつ)(てん)で、この時の首里王府(しゅりおうふ)とは(なに)かという理解(りかい)が、きわめて重要(じゅうよう)になってくると考えます。というのは、(おう)(たし)かに尚泰久(ショウ・タイキュウ)ですが、配下(はいか)金丸かなまる)が、そう(とき)()ずして第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)(ほろ)ぼして、第二尚氏(だいにしょうし)王統(おうとう)(おう)になるのですから、「護佐丸(ゴサマル)(へん)」や「阿麻和利(アマワリ)(らん)」などすべては金丸(かなまる)が裏で糸を引いて仕組(しく)んだと(かんが)えるのが自然(しぜん)だと私には(おも)えてなりません。

 やがてクーデターにより第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)()ち、金丸(かなまる)尚圓王(しょうえんおう)となって、以後(いご)(あら)たな琉球時代(りゅうきゅうじだい)(なが)(つづ)いてゆくのであり、その首里王府(しゅりおうふ)による琉球國(りゅうきゅうこく)がずっと(くに)統治(とうち)してゆくことになります。

 その歴史(れきし)(なか)で、護佐丸(ゴサマル)(へん)と、阿麻和利(アマワリ)(らん)は、(たと)えば「二童敵討(ニドウテキウチ)」という組踊(くみおど)りの傑作(けっさく)題材(だいざい)になり、そしてまた、民話(みんわ)琉球国史(りゅうきゅうこくし)をはじめとする様々(さまざま)資料(しりょう)(つく)られていく(なか)で、歴史的(れきしてき)題材(だいざい)として()()げられ、(はなし)現在(げんざい)(つた)わってきました。

 金丸(かなまる)による第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)首里王府(しゅりおうふ)による琉球國(りゅうきゅうこく)天下(てんか)(つづ)いていく(なか)で、組踊(くみおど)りや民話(みんわ)琉球國史(りゅうきゅうこくし)(はじ)めとする王府(おうふ)資料(しりょうが)編纂(へんさんく)されていくのですから、その内容(ないよう)当時(とうじ)琉球國(りゅうきゅうこく)()きの内容(ないよう)であるのは、至極(しごく)当然(とうぜん)(こと)ではないでしょうか。そしてその(つく)られた歴史(れきし)をそのまま琉球(りゅうきゅう)人々(ひとびと)(しん)じていったのも、ごく自然(しぜん)(なが)れといえるでしょう。ただ、だからこそ、真実(しんじつ)(おお)きく(ゆが)められた(ぶん)だけ、辻褄(つじつま)()わない(こと)だらけになってしまったのだと(わたくし)(かんが)えます。

※「二童敵討(ニドウテキウチ)」の粗筋(あらすじ)
忠臣(ちゅうしん)として名高(なだか)護佐丸(ゴサマル)は、阿麻和利(アマワリ)()(ぐち)によって()めてきた首里軍(しゅりぐん)(まえ)自刃(じじん)します。(はは)()()(のこ)りますが、鶴松(ツルマツ/チルマチ)亀千代(カメチヨ/カメチユ)兄弟(きょうだい)が、(ちち)護佐丸(ゴサマル)無念(むねん)()たすべく、(かたき)阿麻和利(アマワリ)()つという(すじ)です。一方(いっぽう)阿麻和利(アマワリ)(ほう)は、護佐丸(ゴサマル)()(もの)にした(あと)は、やがて首里城(シュリじょう)()(おと)そうと野望(やぼう)(いだ)いています。なお仇討(あだう)ちの方法(ほうほう)ですが、(かたき)()つと決意(けつい)した兄弟(きょうだい)を、(はは)()(とど)めようとしますが、二人(ふたり)決心(けっしん)(かた)く、それを()てとった(はは)護佐丸(ゴサマル)(かたな)(わた)します。形見(かたみ)である(まも)(がたな)(さず)かった兄弟(きょうだい)は、野遊(のあそ)びの()出掛(でか)けていきます。阿麻和利(アマワリ)(たち)が、(おど)()()けた二人(ふたり)()()めて(おど)りを所望(しょもう)します。兄弟(きょうだい)(おど)りながら、一行(いっこう)(さけ)(すす)めて()わせ、(つい)仇討(あだう)ちを()たすという(すじ)です。

※『球陽(きゅうよう)』や民話(みんわ)での粗筋(あらすじ)
護佐丸(ゴサマル)謀反(むほん)()こそうとしていると、阿麻和利(アマワリ)は、(おう)()(ぐち)します。そして、阿麻和利(アマワリ)総大将(そうだいしょう)とする(おう)首里軍(しゅりぐん)が、謀叛(むほん)のかどで護佐丸(ゴサマル)()ちます。ところが()(ぐち)阿麻和利(アマワリ)(たくら)みだった(こと)発覚(はっかく)し、(おう)(ぐん)は、(つぎ)阿麻和利(アマワリ)逆賊(ぎゃくぞく)として()ち、忠臣(ちゅうしん)だった護佐丸(ゴサマル)名誉(めいよ)回復(かいふく)されるという(すじ)です。


 物語(ものがたり)物語(ものがたり)として伝統(でんとう)歴史(れきし)があり、なかなか素晴(すば)らしいものですから、それはそれでいいと(おも)います。それでも、尚泰久(ショウタイキュウ)首里王府(しゅりおうふ)が、(はなし)のように感情(かんじょう)(まか)せに低次元(ていじげん)数々(かずかず)行動(こうどう)実際(じっさい)(おこな)うとは(しん)(がた)いといえます。

 護佐丸(ゴサマル)(へん)も、阿麻和利(アマワリ)(らん)も、尚泰久(ショウ・タイキュウ)継嗣問題(けいしもんだい)も、何もかもが、(つた)わっている筋書(すじが)きでは(あま)りに矛盾(むじゅん)多過(おおす)ぎるどころか、すべてが金丸(かなまる)にとって都合(つごう)良過(よす)ぎる筋書(すじが)きではありませんか。(とく)にその()(あと)()こる琉球(りゅうきゅう)歴史(れきし)における最大(さいだい)のクーデター、つまり国を丸ごと一人の男が乗っ取ったことを考えて見てください。金丸(かなまる)悪智恵(わるぢえ)大嘘(おおうそ)(かく)目的(もくてき)のために、でっち()げられた筋書(すじが)きの(にお)いがプンプンします。

 本当(ほんとう)のところは金丸(かなまる)が、尚泰久王(ショウ・タイキュウ・おう)当時(とうじ)首里王府(しゅりおうふ)(あやつ)って、自分(じぶん)(おう)になるのに邪魔(じゃま)な二人を()めたのが、護佐丸(ゴサマル)(へん)阿麻和利(アマワリ)(らん)代表(だいひょう)とする一連(いちれん)事件(じけん)と個人的には(かんが)えています。あくまで個人的なものではありますが。

 護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)の2人が、実際(じっさい)に、天下(てんか)をとろうとしていたかは()かりませんが、勢力(せいりょく)(ほこ)っていたからこそ首里王府(しゅりおうふ)によって(ほろ)ぼされる運命(うんめい)だったとはいえます。特に二人が()()めばそれに(したが)按司(あじ)(おお)く、その結果、天下(てんか)二分(にぶん)する(あらそ)いに発展(はってん)する可能性(かのうせい)がありました。それどころか金丸(かなまる)にとっては、自分(じぶん)のあらゆる(はかりごと)(うそ)発覚(はっかく)するおそれがあり、(ころ)される危険(きけん)(たか)く、(なに)をおいても2人が()むのを(おそ)れていたに(ちが)いありません。(なに)しろ金丸(かなまる)は、王族(おうぞく)でないどころか、琉球(りゅうきゅう)統一(とういつ)建国(けんこく)に、何一(なにひと)貢献(こうけん)していない、しかも農民(のうみん)()です。さらに王の継子争(けいしあらそ)いを競う女たちの暗躍(あんやく)(から)んでいたのでしょう。

 なお真偽(しんぎ)はともかくとして、阿麻和利(アマワリ)護佐丸(ゴサマル)の子であったが、それを阿麻和利(アマワリ)は知らなかったという説も、あながち否定しきれないところがあります。また二人は共にそれを知っていた上で策略(さくりゃく)にはまって戦わされたとも考えられなくもありません。

 ちなみに阿麻和利(アマワリ)の母は、南山一の美人と(うた)われた兼城(カニグスク)若按司の娘で、武富(ダルキン)若按司と許嫁(いいなずけ)でした。一説では、南山の滅亡により読谷の渡具地港へ逃げてきて上陸し、古堅(フルギン/ふるげん)村に隠れ住んでいたところ、屋良大川按司の知るところとなって妾になったとされます。別の説では、屋良大川按司が南山攻めの際に捕虜として兼城若按司の娘を連れてきたとされます。個人的には後者か、あるいは別の事情だと考えます。というのは、父親の兼城(カニグスク)若按司と武富(ダルキン)若按司が、共に八重山諸島に逃げて竹富島に行った経緯を考えると(竹富島は武富(ダルキン)若按司の名から)、一緒に行ったり、呼び寄せられていないことから、兼城若按司の娘は何人もいて、阿麻和利の母は恐らく正妃(せいひ)以外の娘だったのだろうと予測するからです。血を引く者にしても兼城(カニグスク)若按司の娘ではない可能性も無くはありません。

 ところで、阿麻和利(アマワリ)護佐丸(ゴサマル)の子であったかも知れないという興味深い考え方があります。が、それは阿麻和利(アマワリ)の父が誰かがわかっていない点、阿麻和利(アマワリ)が幼い頃、貧乏だった生活に似合わぬ高価な服があった点、母親が阿麻和利(アマワリ)に、お前の父親は名のある人だと語った点などを元にした考えです。特に「名のある人」物が、護佐丸(ゴサマル)だとを考えられなくはありません。というのは諸説あるものの、阿麻和利(アマワリ)の母は屋良大川按司(ヤラウフカーあじ)(めかけ)となり(按司の本妻の嫉妬が強くて屋良城を追い出されたとも)護佐丸(ゴサマル)はその頃、屋良城をよく訪れていた形跡があります。すると高価な服は、護佐丸(ゴサマル)か、その家臣によって阿麻和利(アマワリ)の母の間にあったと想像するのは、あながち飛躍した考えではないと思います。それだけの関係が、護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)の母の、二人の間にあったと想像するのも、自然に思えなくもありません。

 あくまで私の想像の域をでないものですが、2人が失脚した政変そのものにばかり、歴史のスポットが当てられ過ぎてきた結果、大切な部分が忘れられている気がして仕方がないのです。護佐丸(ゴサマル)(へん)阿麻和利(アマワリ)(らん)が起こった経緯や目的、なによりその2つの寸前、どういう事が起こっていたのかという点です。尚泰久(ショウ・タイキュウ)王が冊封(さくほう)を受けた際の首里城を、みなさん、想像してみて下さい。王からすれば、目の前に、護佐丸と阿麻和利が控えていて、さぞ尚泰久(ショウ・タイキュウ)は自分の力を人々に見せつけ、鼻が高かったのではないでしょうか。一方、琉球の諸侯からしてみれば、最も強力とされる護佐丸と阿麻和利を御前に控えさせる尚泰久(ショウ・タイキュウ)王は、まさに琉球の國王たるべき姿だったのではないでしょうか。

 いずれにしても今後、根拠(こんきょ)とする資料などに基づいて、きちんと正しく論理が立てられ、琉球の歴史がより正確に学者や研究者によって整理されていく事になるでしょう。

 なお、組踊(くみおど)り「二童敵討(ニドウテキウチ)」や民話(みんわ)様々(さまざま)資料(しりょう)では、忠臣(ちゅうしん)として(とく)役回(やくまわ)りなのが護佐丸(ゴサマル)で、(ぎゃく)(ひど)可哀想(かわいそう)(そん)役回(やくまわ)りが阿麻和利(アマワリ)です。

 ただそれはあくまで組踊(くみおど)りの(すじ)であって、歴史的真実(しんじつ)とは異なるというのが私の立場です。

 組踊(くみおど)りの(すじ)は、尚泰久王(ショウ・タイキュウ・おう)視点(してん)で考えると、護佐丸(ゴサマル)は、(つま)(ちち)親族(しんぞく)なのに(たい)して、阿麻和利(アマワリ)には、(むすめ)(とつ)がせたものの、()(つな)がっていないのですから、悪役なのは当然(とうぜん)ともいえます。そしてまた護佐丸(ゴサマル)は、長年(ながねん)王府(おうふ)(とも)にあって(くに)(ささ)えてきた人物(じんぶつ)ですから自然(しぜん)なようにも(おも)えてしまいます。

 しかしながら、金丸(かなまる)視点(してん)ではどうでしょうか。護佐丸(ごさまる)阿麻和利(アマワリ)も、自分(じぶん)天下取(てんかと)りにおける最大(さいだい)邪魔者(じゃまもの)です。天下(てんか)()るなり、第一尚氏(だいいちしょうし)痕跡(こんせき)次々(つぎつぎ)秘密裏(ひみつり)のうちに()()っていった金丸(かなまる)行為(こうい)こそが、その真意(しんい)如実(にょじつ)物語(ものがた)っているのではないでしょうか。

 ところで、ここでひとまず、護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)尚泰久(ショウ・タイキュウ)の、三人の関係(かんけい)を、百度踏揚(モモトフミアガリ)(くわ)えて、簡単(かんたん)整理(せいり)しておく(こと)にしましょう。

 尚泰久(ショウ・タイキュウ)にとって、護佐丸(ゴサマル)は「岳父(がくふ)」=正妃(せいひ)である「(つま)(ちち)」です。

 そして、尚泰久(ショウ・タイキュウ)は、(むすめ)百度踏揚(モモトフミアガリ)を、阿麻和利(アマワリ)に「(つま)」としてさし()けます。

 百度踏揚(モモトフミアガリ)にとっては、阿麻和利(アマワリ)(おっと)護佐丸(ゴサマル)祖父(そふ)、そして尚泰久(ショウ・タイキュウ)正妃(せいひ)(はは)です。(※尚泰久(ショウ・タイキュウ)正妃(せいひ)は、この数々(かずかず)事件(じけん)のさ(なか)(やまい)突然(とつぜん)()くなり、側室(そくしつ)正妃(せいひ)となります。おそらく何者(なにもの)かによって(ころ)されたとも思われますが、ここがまた謎に包まれています。この側室と金丸との関係も疑われますが、少なくともやがてこの二人は仲違いします。)

 (したが)って、護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)両者(りょうしゃ)は、王家(おうけ)百度踏揚(モモトフミアガリ)(はさ)んで、親類(しんるい)関係(かんけい)にあり、それこそが平和(へいわ)のうちに天下(てんか)がおさまる最良(さいりょう)手段(しゅだん)でした。(げん)に、(おう)となる尚泰久(ショウ・タイキュウ)は、(みん)から冊封使(さっぽうし)(むか)え、護佐丸(ゴサマル)義理(ぎり)(ちち)として、阿麻和利(アマワリ)義理(ぎり)息子(むすこ)として(したが)えました。尚泰久(ショウ・タイキュウ)にとっても琉球國(りゅうきゅうこく)にとっても、これ以上(いじょう)(のぞ)めない、最高(さいこう)状態(じょうたい)です。そしてまさに百度踏揚(モモトフミアガリ)はまさに平和(へいわ)の象徴を具現化した存在でした。

 にも(かか)わらず、次々(つぎつぎ)事件(じけん)(いくさ)()(つづ)けに()こり、あっという()に、琉球(りゅうきゅう)統一(とういつ)した第一尚氏王統(だいいちしょうしおうとう)は、金丸(かなまる)によって(ほろ)ぼされてしまいます。この歴史的事実(れきしてきじじつ)(まった)くメスが()れられてこなかったことの(ほう)がむしろ不思議(ふしぎ)でなりません。

 伝承(でんしょう)によると阿麻和利(アマワリ)は、護佐丸(ゴサマル)()きあと、王府(おうふ)()めようと計画(けいかく)していた(こと)になっています。ところが祖父(おじ)(おっと)阿麻和利(アマワリ)(ころ)されて(うら)んでいた百度踏揚(モモトフミアガリ)首里(シュリ)()げたことで計画(けいかく)発覚(はっかく)し、阿麻和利(アマワリ)王軍(おうぐん)によって(ほろ)ぼされた(こと)になっています。これも辻褄(つじつま)()わないことばかりです。百度踏揚(モモトフミアガリ)自分(じぶん)()げたのではなく、大城(うふぐしく)(=大城賢雄)()がしたとされますが、大城(うふぐしく)勝連城(かつれんじょう)にいたのではなく、中城(なかグスク)()めの直後(ちょくご)首里城(しゅりじょう)にいたのであり、わざわざ勝連城(かつれんじょう)出掛(でか)けて百度踏揚(モモトフミアガリ)(とも)首里城(しゅりじょう)(もど)ったことになります。

 冷静(れいせい)(かんが)えてみればわかるように、これも金丸(かなまる)にとって都合(つごう)がいい、護佐丸(ゴサマル)(とき)(おな)じ、辻褄合(つじつまあ)わせの無理(むり)筋書(すじが)きです。阿麻和利(アマワリ)()口実(こうじつ)として都合(つごう)がいい(はなし)であり、(まった)合理性(ごうりせい)()けた(すじ)で、(かんが)えれば(かんが)える(ほど)辻褄(つじつま)()わない(こと)ばかりです。阿麻和利(アマワリ)勝連(かつれん)人々(ひとびと)(した)われていた(おう)であり、百度踏揚(モモトフミアガリ)王女(おうじょ)として人々(ひとびと)から(した)われていたのではないでしょうか。

 結果的(けっかてき)に、阿麻和利(アマワリ)(ころ)され、(おう)(むすめ)である百度踏揚(モモトフミアガリ)()きているという事実(じじつ)から推理(すいり)出来(でき)るのは、百度踏揚(モモトフミアガリ)首里(しゅり)()げたのではなく、(ちち)尚泰久王(ショウ・タイキュウ・おう)としては()める(まえ)(むすめ)()(もど)したかった(はず)で、百度踏揚(モモトフミアガリ)としては戦争(せんそう)()けようと(ちち)()って説得(せっとく)するために首里(しゅり)()ったと(かんが)えるのが、自然(しぜん)なのではないでしょうか。護佐丸(ゴサマル)()めも、阿麻和利(アマワリ)()めも、百度踏揚(モモトフミアガリ)勝連城(かっちんぐすく)脱出(だっしゅつ)も、大城(うふぐしく)実行犯(じっこうはん)として暗躍(あんやく)しますが、百度踏揚(モモトフミアガリ)()もなく妻子(さいし)がいた大城(うふぐしく)(はら)()げられる事実(じじつ)から推測(すいそく)できるのは、金丸(かなまる)が、琉球一(りゅうきゅういち)美女(びじょ)(えさ)にして大城(うふぐしく)(あやつ)ったのだろうということです。もっとも大城(うふぐしく)用無(ような)しになるなり(ころ)され、(はか)はあっても遺骨(いこつ)行方知(ゆくえし)れずという、自業自得(じごうじとく)末路(まつろ)辿(たど)ります。大城(うふぐしく)()()んだともされますが、(すく)なくとも百度踏揚(モモトフミアガリ)愛情(あいじょう)()せるに(あたい)する人物(じんぶつ)ではありませんでした。

 それにしても本当(ほんとう)のところ、歴史的事実(れきしてきじじつ)として護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)に、王府(おうふ)()める()があったのでしょうか。2人がその準備(じゅんび)をしていた形跡(けいせき)があったのでしょうか。2人は本当(ほんとう)(ころ)されなければならない運命(うんめい)だったのでしょうか。

 すべて金丸(かなまる)が、そう尚泰久王(ショウ・タイキュウ・おう)()()んだだけのことです。

 いずれにせよ、阿麻和利(アマワリ)が、()(まえ)(しろ)(つく)られるのを黙認(もくにん)する(はず)がないと、現地(げんち)(おとず)れた(とき)の、そんな直感(ちょっかん)から()まれた様々(さまざま)疑問(ぎもん)(わたくし)(あたま)一杯(いっぱい)になり、中城(ナカぐすく)で、以上(いじょう)のような、あれこれの夢想(むそう)に、すっかり(ふけ)ってしまいました。

 (たし)かに(わたくし)疑問(ぎもん)など、(いま)となっては、どうでもよい(ことなの)かも()れません。

 ただ護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)以上(いじょう)に、(つみ)がまったくないのに(もっと)(ひど)()にあったのは、琉球一(りゅうきゅういち)美女(びじょ)であり、平和(へいわ)使者(ししゃ)だった、歴史(れきし)名高(なだか)百度踏揚(モモトフミアガリ)ではないでしょうか。

 琉球一(りゅうきゅういち)美女(びじょ)であったという容姿容貌(ようしようぼう)は、ともかくとして、後世(こうせい)誰一人(だれひとり)として、百度踏揚(モモトフミアガリ)知性(ちせい)愛情(あいじょう)(ひと)となりに注目(ちゅうもく)してこなかったのが、不思議(ふしぎ)でなりません。歴史的(れきしてき)百度踏揚(モモトフミアガリ)は、護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)同様(どうよう)過小評価(かしょうひょうか)され()ぎなのではないでしょうか。護佐丸(ゴサマル)阿麻和利(アマワリ)配下(はいか)有能(ゆうのう)だった者達(ものたち)や、勝連兵(かつれんへい)もまた過小評価(かしょうひょうか)され()ぎです。(ぎゃく)に、金丸(かなまる)とその一族(いちぞく)による、尚泰久(ショウ・タイキュウ)大城(うふぐしく)(あま)りに過大評価(かだいひょうか)され()ぎです。それもすべて、金丸(かなまる)によるクーデターを隠蔽(いんぺい)するためだったにせよ、(いま)となっては実際(じっさい)がどうであったにしても今更(いまさら)()まる(ひと)などいないのですから、歴史(れきし)(つね)公平(こうへい)にあるべきです。

 琉球國の正史による()(つた)えでは、護佐丸(ゴサマル)(へん)や、阿麻和利(アマワリ)(らん)は、尚泰久(ショウ・タイキュウ)覇者(はしゃ)(ごと)無理(むり)演出(えんしゅつ)されている気がします。それはまた、金丸(かなまる)()()かないように脚色(きゃくしょく)されているように、私には思えてなりません。

 ところが覇者(はしゃ)であるはずの尚泰久(ショウ・タイキュウ)在位(ざいい)(みじ)かく、()である(つぎ)(おう)第一尚氏(だいいちしょうし)最後(さいご)(おう)となります。しかも、正妃(せいひ)第一王子(だいいちおうじ)世継(よつ)ぎにならず、第三王子(だいさんおうじ)尚徳王(ショウ・トクおう)が、第一王子(だいいちおうじ)第二王子(だいにおうじ)をさしおいて(おう)になります(※王位には順があり、いかに第三王子の母がいかに画策できたとしても、側室から継妃になっていたとしても、無理な話であり、やはり金丸が絡んでいた筈です。なお、この尚徳王(ショウ・トクおう)もそれまでの(おう)同様(どうよう)に、諸説(しょせつ)あるものの(なぞ)()()げるだけでなく、歴史上(れきしじょう)かつてない残虐(ざんぎゃく)事件(じけん)勃発(ぼっぱつ)王妃(おうひ)世子(せいし)王母(おうぼ)(宮里阿護母志良礼)、乳母(うば)第二夫人(だいにふじん)尚徳王(ショウ・トクおう)近臣(きんしん)たちが抹殺(まっさつ)されます。)金丸(かなまる)は、(おう)(ささ)える立場(たちば)にありながら、散々(さんざん)(あし)()っぱることばかりを画策(かくさく)していきます。この(てん)や、その()第一尚氏(だいいちしょうし)()()えに()れようとしてきた研究者(けんきゅうしゃ)は、(いま)まで皆無(かいむ)(ちか)()がして残念(ざんねん)でなりません。

 そしてなにより、第一尚氏(だいいちしょうし)ゆかりの者達(ものたち)第二尚氏(だいにしょうし)金丸(かなまる)によって、(ことごと)(ほろ)ぼされ、歴史(れきし)から()されてきた(てん)(ひかり)()てられてこなかった事が気にかかります。

 尚泰久(ショウ・タイキュウ)王子(おうじ)(とき)金丸(かなまる)(※(のち)尚圓王(しょうえんおう)見出(みいだ)し、(おう)になる可能性(かのうせい)がまずなかった尚泰久(ショウ・タイキュウ)(おう)になったのも、金丸(かなまる)あってのことなのではないでしょうか。王府(おうふ)金丸(かねまる)尚泰久(ショウ・タイキュウ)()れるなり次々(つぎつぎ)世継(よつ)ぎが()わって、尚泰久(ショウ・タイキュウ)、そして金丸(かなまる)(おう)になるのですから。

 いずれにせよ一族(いちぞく)を、金丸(かなまる)(ほろ)ぼされてしまったのですから、結局(けっきょく)のところは、尚泰久(ショウ・タイキュウ)(ひと)()()がなかったために、国を統一して琉球國を建てた尚巴志王統、つまり第一尚氏王統は滅んだと結論付(けつろんづ)けられると思います。また逆に、第二尚氏王統からすれば、金丸が王府に入って天下を取れたのは、なにをおいても尚泰久(ショウ・タイキュウ)のお陰ということになります。

 ()(かえ)しになりますが、今回(こんかい)()()げた事件(じけん)(つづ)いて、第一尚氏(だいいちしょうし)一族(いちぞく)は、第二尚氏(だいにしょうし)(ほろ)ぼされてしまうのですから、その事実(じじつ)から推測(すいそく)出来(でき)るのは、(おお)くが意図的(いとてき)金丸(かなまる)によってなされたに(ちが)いないというのが(わたくし)(かんが)えです。

 いうまでもなく現実(げんじつ)覇者(はしゃ)金丸(かなまる)でした。そして第二尚氏(だいにしょうし)によって、第一尚氏(だいいちしょうし)(はか)である天山陵(てんざんりょう)天齊山(てんせいざん))は()らされ、それを察知(さっち)した一族(いちぞく)により(ほか)(ひそ)かに(うつ)され、現在(げんざい)沖縄(おきなわ)人々(ひとびと)からでさえ(わす)()られた()にひっそりと(たたず)んでいたりします。しかしながら、第二尚氏(だいにしょうし)はクーデターにより第一尚氏(だいいちしょうし)をそのままそっくり()()ったのであり、金丸(かなまる)にいたっては次々(つぎつぎ)戦争(せんそう)()こしていながら(なん)武勲(ぶくん)()てていません。それでも第二尚氏(だいにしょうし)には、尚眞王(しょうしん・おう)のような優秀(ゆうしゅう)(おう)家臣(かしん)(あらわ)れます。しかしそれも(つづ)かず、いくらも()たないうちに、事実上(じじつじょう)島津(しまづ)支配(しはい)されます。それでもその1609年から1879年まで、第二尚氏(だいにしょうし)歴史(れきし)として(つづ)られてゆくことになります。一方、第一尚氏(だいいちしょうし)王統(おうとう)は、わずか七(だい)、六十四年間(ねんかん)にして(ほろ)()るものの、この王統(おうとう)こそが琉球本島(りゅうきゅうほんとう)統一(とういつ)して琉球國(りゅうきゅうこく)建国(けんこく)した(こと)を、ないがしろにしては絶対(ぜったい)にいけません。

 歴史(れきし)もまた、(さき)(おう)悪政(あくせい)によって金丸(かねまる)がみんなに()されてやむなく王座(おうざ)についた(こと)に、()()えられていきます。

 その()の、第一尚氏(だいいちしょうし)痕跡(こんせき)必死(ひっし)()そうとする一連(いちれん)(うご)きも、(わたくし)仮説(かせつ)なら説明(せつめい)できるのであり、辻褄(つじつま)()うと(おも)います。そして、もしもそうであったなら、阿麻和利(アマワリ)護佐丸(ゴサマル)尚泰久(ショウ・タイキュウ)尚徳王(しょうとくおう)、そして百度踏揚(モモトフミアガリ)はもっと(ちが)った様々(さまざま)角度(かくど)から歴史的(れきしてき)見直(みなお)されることによって、真実(しんじつ)探求(たんきゅう)されべきなのではないでしょうか。

 なお、前政権(ぜんせいけん)(たお)した金丸(かなまる)でさえ、(みん)(たい)しては、政権(せいけん)問題(もんだい)なく移譲(いじょう)したかの体裁(ていさい)をとらなければ(ちから)維持(いじ)することが出来(でき)ませんでした。けれども、農民(のうみん)から(おう)()(のぼ)り、見事(みごと)にすべてをやってのけた金丸(かなまる)が、大変(たいへん)人物(じんぶつ)であったことに、異論(いろん)(とな)える(ひと)は、まずいないと(おも)います。


さて、
 これから、
  あなたは旅先(たびさき)で、
   はたしてどんな(ゆめ)をみるのでしょうか・・・・・・

あるいはまた、
 どんな(ゆめ)をみるため、(たび)()るのでしょうか・・・・・・



※三山を統一した尚巴志は、勝連城対策として(※阿摩和利より前)、尚布里の江洲城、尚泰久の越来城によって勝連城を牽制(※後に、護佐丸の中城が加わることになる)。しかし後任の按司が置かれるにせよ尚布里、尚泰久は後に、首里に移ってゆく。中城が様々な点でより重要となる。阿摩和利の勝連城も連動して状況は常に変化。第二尚氏の尚眞王以降、護佐丸の子孫の毛氏(もうし)や、大城(鬼大城)の子孫の夏氏(かし)は、王府の中枢にまで出世する者が出る一方、阿摩和利には子孫が無いために、歴史的に一方的な悪者にされたと考えられる。
※阿摩和利は、勝連城の戦いで亡くなった説以外に、読谷山(ゆんたんざ)大木(おおき)俎畑(うえんみもー)まで逃げ延びたところで、首里軍に追い詰められて殺されたという説もあり、そのため読谷村大木に阿摩和利の墓がある。真偽はともかく、この墓を知らない人や、何故そこにあるのかも殆ど知られていない。(※この周辺は、歴史的に度々、区画が変更になってきた点に留意)。この場所に、なぜ阿摩和利が逃げてきたかは、想像しやすい。阿麻和利の母は、南山の兼城按司の娘とされ、たとえそうでなくともゆかりの者である可能性は高く、南山が滅んだ際に船で逃げ、渡具地港から上陸して、古堅村に住んだとされている。従って母子にとって読谷や嘉手納の屋良周辺は、馴染みの土地といえる。
※第一尚氏の尚泰久までは、首里の龍潭の北近くの「天山陵(天齊山とも)」という王陵(おうりょう)に葬られてきたものの、第二尚氏がクーデーターで政権を取った際に荒らされて焼かれたとされる。それを察知してその前に尚徳王の遺臣や第一尚氏にゆかりの者達により、先の王達の遺骨は持ち出されたと言われている。現在、尚巴志、尚忠王、尚思達王の墓は、読谷村の伊良皆に、尚金福の墓は浦添市城間(ぐうくま)にある(※浦添の同仁病院の裏に墓の遙拝所だけが残る。近くの、皇(コウ)グスクは現在ないものの、王の側女はここで王の子を産んだとされる)。尚徳の墓も今はなく、陵墓跡のみ(※識名公民館ホールの隣りの、大きなマンションの前に陵墓跡の碑がある)。尚徳王の死には、様々な説があり、その一つがこの場所。尚徳王の大守役(うふやかー)(※子守役)が、上間の安謝名(あじゃな)であり、金丸のクーデター後、尚徳王は安謝名に身を隠していたところ、三か月後に、風邪をこじらせて死亡したという話(『上間誌』)。遺体は、カネマン御墓(安謝名家の御墓、今の尚徳王御陵蹟碑)に葬られたとのこと。尚巴志の父、尚思紹王の墓は「佐敷ようどれ」。(※以前あった場所からここに移されたとされる。自衛隊基地の中だが、入り口で申し出れば案内して頂ける)
※百度踏揚と弟の多武喜(たむき)の墓は、現在、玉城(たまぐすく)冨里(ふさと)当山(とうやま)にある。元々、百度踏揚の墓は、近くのイリーシチ原にあったのを、玉城中学の建設のために移された。また多武喜の墓は、元々、当山大川城の近くにあったのを、百度踏揚と一緒の墓に合祀。長男の金橋(かなはし)は父の尚泰久と共に、尚泰久の兄の布里の墓を挟んで、現在、玉城(たまぐすく)冨里・当山にすべてがある。なお尚泰久の遺骨は、最初、尚泰久の乳母の出身地、石川の伊波(いは)に葬られた後、今の玉城に移されたと言われている。
大城(うふぐしく)は、俗称を鬼大城(うにうふぐすく/おにうふぐすく)とも。ただあくまでそれは、通り名。唐名(とうめい/とうみょう/からな)夏居数(かきょすう)、名のりが賢雄(けんゆう)であり、後世に子孫が追称したもので、それらは当時はなく、正しくは大城(うふぐしく)。護佐丸と大城は遠縁ながら、縁続き。(※大城~なぜ大城なのかというと、父の栄野比大屋子が亡くなり、母は幼い長男の鬼大城と弟二人を連れて、実家である美里(みさと)間切(まぎり)知花(ちばな)大城(うふぐしく)家を頼ったために、大城(うふぐしく)という。鬼大城は後に、首里に登って尚泰久に仕えるという表記があったりするが、知花は越来(ごえく)領であり、尚泰久は王になる前は越来王子として越来城(ごえく・グスク)の主のため、その時代から仕えていた尚泰久の家臣といえる)。百度踏揚が阿摩和利の妃として降嫁される際、恐らく護衛の長だったと思われるものの、首里王府にとって重要な人物であり、行き来はあっても、そのままずっと勝連城にいたとは考え難い。阿摩和利の首里攻撃の話を聞いて、大城が百度踏揚に告げ、一緒に首里に逃げる話はきわめて怪しく、後代に創作された作り話だと考えられる。というのは、尚泰久は王であり、娘の百度踏揚を首里城に引き戻すには、何か理由を見つけて、娘の百度踏揚を首里城に呼び出せば、事は足りた筈。あのような脱出劇はまったく不要。なお、百度踏揚が大城に降嫁されたという伝承、再婚した百度踏揚が再び越来城で過ごしたとする伝承は、オモロのある解釈からきているだけであり、首里にあって、後に兄弟同様、玉城に移ったと見る方が自然と考える。
※金丸(尚圓王)は、伊平屋間切伊是名村の出身とされるが、島から追い出されるだけでなく、次々と行き先のシマを追われる。その点は広く伝承として伝わってきたが、その理由についてあまり注目されてこなかった事が、不思議でならない。言い伝えでは、墾田の才能があったために嫉妬されたとか、女に目がなかったためとか等とされてきたが、冷静に考えればおかしい。比較的温厚な、島やシマの村人たちを本当に怒らせ、そこにいられなくなるほどの度を過ぎた事件を、行く先々で起こし続けたからこそ、行く先々で、部落を追い出されたのであり、今後、もう少し掘り下げて研究されるべきだと考える。伊是名島の諸見(しょみ)(国頭)宜名真(ぎなま)奥間(おくま)久志(くし)・・・・・・と、次々に移動する(※奥間では奥間大主の娘に手を出したから、久志では大浦大主の娘に手を出したからという伝説がある)。一方で、金丸(尚圓王)からすると、伊是名から追い出されたのであり、よく思っていなかったようで、それは当然といえるだろう。それでも、第二尚氏王統の始祖である金丸(尚圓王)の出身が伊是名島ということで、尚眞王の時代に、首里の玉陵造営後に伊是名玉陵も造営されたと伝わるが、一説には、尚圓王の側室から王妃となった宇喜也嘉(オギヤカ)(尚眞王の母)が尚眞王に造らせたともいわれている。伊是名の言い伝えでは、伊是名玉御殿は、最初、勢理客の東村の外れの、ウツタグチテランソウに造られ、後に、仲田の東佐久原に移し換えられて、更にその仲田から現在地に移し換えられて祀られたとのこと。現在の伊是名玉陵の墓石は二つあり、左の墓室には尚圓の両親、つまり、父尚稷王(※追尊で王位には就いてない)とその夫人、及び祖宗の遺骨が納められているという。右の墓室には伊平屋列島の初代あんがなしに任命された尚圓の姉真世仁金(ませにがに)をはじめとする代々の遺骨が葬られているといわれる。
※史書の記録では、首里城は数度にわたって焼失。一度目の焼失は、1453(享徳2)年の、志魯・布里の乱で、城内は完全に消失。尚泰久は、冊封に向けて再建する。二度目の焼失については、多くの解説資料から抜け落ちている。尚泰久王の在位中の、護佐丸の変・阿麻和利の乱の頃の、火災。(※『明史』によると、二度目の火災の翌年(天順3年/1459年)、尚泰久王は明国に使者をおくり、首里城の火災により王庫が消失し、銅銭や明国からの品々が焼けてしまった事を報告。明国はそれを受け、銅銭、荢糸、沙羅、絹布などを尚泰久におくったとある)。個人的には、首里城が攻撃されたと考えている。最も可能性が高いのは、首里王府に裏切られた阿麻和利ではないだろうか。
※尚巴志以降から尚泰久まで、短期間に王が次々と代わった。普通ではありえないこのあたりの事情について、もっと様々な研究がされるべきだと考える。尚泰久の推薦により金丸が王府に入り、そして王が次々と亡くなる。もちろん、金丸が最初から全てに手を回したと考えるのは無理があり、もう少し慎重に考えた方が良いだろう。何か他の、王府の中の様々な事情も考えるべきだろう。それでも多くの事に対する金丸の関与は疑いきれない。そして尚泰久亡き後、金丸によるクーデターの末、第一尚氏は、第二尚氏によって次々と抹殺されてゆく。第一王子、第二王子、百度踏揚は、布里を頼って玉城へ行く事となったのではないか。
※「志魯・布里の乱」について、双方が傷つきたおれたとか、相打ちになったとの表記が多い。ところが、死んだ布里はなぜか生きていて、転々とした挙げ句に玉城へ行き、そこには今も墓がある。布里は勝利したにも関わらず、王位につかなかった。王位の正式な世継ぎは、先王の子、志魯である。乱によって首里城を焼いてしまった責任が問われ、布里は王位につかなかったと考えられる。責任を布里に問いつめた人物は、金丸ではなかろうか。
※金丸がクーデターにより尚圓王となるものの、それまで年に1度(実質は数回)だった明への進貢が、2年1貢制と制限され、乗員や私的な貿易品も厳しく制限され、これは琉球國にとって大変な痛手となる。つまり尚圓王は、明国と琉球國との関係を、極端に悪化させてしまった。理由は簡単で、問題を起こしてきた無能な人材を尚圓王はそのままつかったためといえる。そこから尚圓王の人柄、金丸時代に何をしてきたのかが垣間見られる。南海貿易も悉く失敗。歴史書にある、平和と平穏な治世が始まったどころではなく、在位七年にして、失意のうちに尚圓王は死去したと思われる。そして弟の尚宣威が王となるが、尚圓王の王妃宇喜也嘉(うきやか/おぎやか)の策略により王を退位させられ、尚圓王の宇喜也嘉の子、尚眞王が次の王となったことになっている。しかしながら尚圓王が亡くなったのは1476(成化12)年7月28日であり、尚宣威はその年のうちに王となり、翌年の1477(成化13)年2月に、宇喜也嘉の策略で退位したとされる。しかしながら、わずか半年で冊封が行われる筈もなく、従って明国から認められた王になっていないのは確かであると考える。王になろうとして失敗した事件が、伝えられてきた作り話にすり替えられたのではなかろうか。冊封がない以上、「尚宣威王」は存在せず、『中山世譜』の記述をそのまま鵜呑みし、今まで尚宣威が王についていない点を追求した者がいないのが不思議でならない。一方で、尚圓王の死去や尚眞王の即位の年の記述に異同があれば、尚宣威王は考えられる。
※第一尚氏王統の滅亡から200年余り経った近世に、琉球國に関する史記や家譜が編纂されてゆく。この頃には、護佐丸の子孫の毛氏(もうし)の中には三司官まで出た。大城の子孫の夏氏(かし)もまた繁栄し、代々、王府の要職に就き、史記の編纂に従事する者もいた。その者達が、王府や先祖を悪く書くことなどできるわけが無く、むしろ先祖の行いを不名誉と考え、すべてを阿麻和利のせいにしたと考えられる。いずれにせよ、阿麻和利が極端に悪人扱いされ、不名誉きわまりない。
※一説に、金丸が尚圓王になった際、伊是名から逃げた際の苦楽を共にした妻が宜名座にいて、首里から迎えをさし向けたものの妻は断ったとも伝わっている。
※護佐丸と阿摩和利が親子であるという仮説を与並岳生氏が立てている。
※「首里城(スイグスク・シュリグスク・シュイグスク)」には様々な呼び名が存在してきた。「御城(ウグシク・オグスク)」、美称としての「真玉城」、同義語的対句の「首里森城」と「真玉森城」も首里城をいう。


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※感謝とお詫び
 鈴木様より、組踊りの、二童敵討の粗筋が、後半『球陽』の粗筋になっているとのご指摘を受けました。まったくもってその通りでした。今回は、以前に書いたブログに、振り仮名を付け直したものですが、最初に書こうとした時、組踊りと、続けて民話の筋を並べるつもりでしたが、いつしかブログアップした時には、ご指摘のように内容が混ざってしまいました。
 元々の原稿を書く際の、メモ書きが残っていたので、改めて修正し、アップしてみました。またその際に、鈴木様のアドバイスを反映させて頂きました。
 ありがとうございました。感謝。いっぺー、にふぇーでーびる。


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久志様
たくさんのコメント、並びに情報、ありがとうございました。

このところすっかりブログ、サボりがちで、お返事が遅れたこと、お詫びいたします。

頂いた情報、調べてみたいと思います。
感謝! m(_ _)m
Posted by 横浜のトシ(toshi)横浜のトシ(toshi) at 2018年02月11日 06:14


中城城と中城御殿とは別物、中(久志)御殿とも言うらしい。
Posted by 中(久志) at 2018年01月19日 08:58


久志と言う名前は、その時に恩を受けた方の名前だそうです。だから、尚、しょうはひさしとも呼び、きゅうとも呼んで、久は、ひさしとも呼び、
子孫にも分かる様にしたそうです。元を辿れば、北部の久志も、中城の間切りを管轄した時には、そちらも、久志ではなく、久志の地頭と言う事で久志を名乗ったとか、元は尚家の分家で、中とは、切っても切っても、切れない縁だったのかもしれません。
Posted by 久志 at 2018年01月19日 08:54


尚家に伝わる宝刀が何故、津堅島の久志の家に祀られていたのか、それは、紛れもなく、久高島島で、命を落としたとされる方の忘れ形見がいたからでは、久志の屋号は、中だよ。この家からは神人の出る家系としても有名で、中山世鑑を見て下さい。アマミキヨの下りで、王も神人も同じ家から出て兄弟や姉妹だって事を、この家の方は、今でこそ、久志を名乗ってはいるが、元々、久志ではないよ。よほどの事があって、本当の名前を名乗れなかったのです。
Posted by 久志 at 2018年01月19日 08:41


中と言う字は、当時の沖縄では禁字とされ使う事は許されませんでした。まして、本家で、ありながら小(ぐわ)を屋号の後に付けるなどありえません。なので中ぐわは、蔑んで自らを呼ぶ時の呼び名で、周りが中ぐわと呼んではなりません。
中ぐわ、ぐわ、と余計に呼ぶ事になるからです。
それに、ぐわは、何よりも、分家を指す言葉でもあるからです。中と言う字は、尊いのです。
Posted by 久志 at 2018年01月19日 08:24


す~み~2号から、す~み~1号へ。

まったく、その通り。
特に、第二尚氏による、第一尚氏の歴史は正しく疑った方がいいです。
そもそも、つじつまが合わないことが多いのだから。
というより、すべて第二尚氏向きに、書かれていて当たり前なので、
やはり、全てを公平に、歴史がかたり継がれなくて、いけません。

第二尚氏は、第一尚氏を隠滅しようとした形跡が強い。
その理由は、対明対策から簡単に想像できる。
それにしても、墓は特に差が大きい。

逆につきつめてみると、
やはり金丸という人物の器の大きさは、いうまでもなく凄いといえる。

それにしても、
古代のグスクなども、もっときちんと保存すべきだと思う。

まあ、僕たちのようなヤマトンチュウが頑張っても、
先祖崇拝にはならないと思いますが、
それでも、沖縄の神様は、きっと喜んで下さるに違いないから、
す~み~1号とす~み~2号は、沖縄の歴史に感謝しながら、
マニアックな徘徊を、これからも続けていこう。(笑)。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2013年02月04日 04:50


ルミさん、はいさい、今日、拝なびら。

護佐丸は、昨年、さんざん探し回って見つけられず、
やっと見つけました。
今は、ずいぶん、綺麗になっています。

それでもって、仲本さんが連れて行って欲しいというので、
また直ぐに、行きました。

実は、今回、アップした所で、簡単に見つけられた所はなくて、
どこも苦労しました。

どうも、教科書には書かれている歴史に、少し疑問をもっているからです。
特に、第一尚氏に関する歴史は、かなりアヤシイ~&おかしい~。

もちろん、今回、アップした以外にも、色々と回って、探し回りました。

普通なら、青い海や女の子でも探し回っているのが普通なのに、
ますます僕は、変人になっていきますぅ~。

飛行機のって、遙々、出掛けていって、僕は何してんだろう?(笑)
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2013年02月03日 23:27


あ~、だよだよ、わかるなぁ。
第一尚氏のこと、たしかに、
あんまり、詳しく触れてないって感じだよね。

歴史書は、その時代の権力者など、
影響力がある人らに、
都合よく書かれてるからさ、
それを、元に、作られてる歴史書が多いだろうし。

ほんとの史実って、別にあると思う。

でね、王様の墓もだけど、
王妃様の墓も、見ごたえあるってよ。

でね、歴史的価値がある、すばらしい作りの
王妃様の墓が、いまにも崩れそうになっていたり。
それが、第一なのか、第二にあたるのか、
ちょっと、うちは、よう把握してない。
でも、王妃様のお墓を調べるのも、

何かしら、
第一尚氏につながる部分があるかもしれんよ~~~!
Posted by す~み~ at 2013年02月02日 19:00


横浜のtoshiさん
こんにちは

toshiさんは、こんなにたくさんのお墓参りをしたのですか

探すだけでも大変だった事でしょう。
頭が下がります。

ところで、私は 護佐丸のお墓参りを

ずーっと前(25年前位?)にしました。

護佐丸の子孫の
方が我が家にいらっしゃって

我が家もその子孫にあたる事を教えてくださいました。

(沖縄の方は、調べていけば、
護佐丸、阿麻和利の子孫になる方が多いと聞いた事があります)

その方の案内で
義父母、主人、私で 護佐丸のお墓参りをしました。

木々が生い茂って、
足元も気をつけながら お墓参りをした思い出があります。

今は、お参りしやすく、きれいになっているかも知れませんね。 
Posted by ルミ at 2013年02月02日 16:25


す~み~2号から、す~み~☆さんへ。

他にも、いくつか回ったんだけれども、伊波城跡は行ってないです。

第一尚氏滅亡の謎が、このところの自分のコンセプトなんです。
沖縄の人なら誰でも知っている、歴史に名を残した人達なのに、
第二尚氏王統によって、徹底的に滅ぼされて痕跡まで根絶やしなので。
この当たりについて、教科書などに書いてある事、多分、違っていると思う。
そもそも第二尚氏によって歴史書とかが編纂されてきたんだから、
この辺りの事が、正しく伝わっている筈が無いが。

それでも上は、国や県の指定にすら入っていなくて、
地域の人で、存在を聞いて知っていてさえ、実際は行ったことがない人が多い。

伊波城跡って、石川の、住宅地の入り込んだ所にあって、
見つけるのが大変だったっていう記事、誰かのブログにあった気がします。
今帰仁系統の末裔

あと、海中道路を渡った島々のグスクは、行く機会は二度もあったのに、
調べきれんかった~。
これはまた、ゆっくりと。あるいは行くなら、史料、あげるよ~。

これ以上、グスク巡りしてると、本筋の民話から、ますます逸脱しそうなので(笑)
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2013年02月02日 00:15


おもいっきり墓巡りしてきたね~~~!

うちは、まだ、このどれも、
墓は行ったことないけど、
阿麻和利など、
沖縄の歴史に名を残した人らの、
大元になるご先祖の墓なら、
偶然に行ったことあるさ。
と~し~さんも、いったことあるかもしれんけど。
伊波按司の墓。

伊波城跡も、なかなか、いい感じの場所だし、
もし、行ったことがなければ、
ぷら~~っと!
Posted by す~み~☆ at 2013年02月01日 15:33


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