尚円王と伊是名島

2016年08月19日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 21:09│Comments(0)伝説・歴史・雑学・言い伝え等
尚円王と伊是名島


 まず最初に断っておきたいのですが、伊是名島は好きですし、そもそも伊平屋間切(まぎり)の中に伊平屋島と伊是名島があり、琉球の歴史的においてどちらも重要な島であることに間違いなく、どちらの島も大好きなので、そこをお間違えのないように。

 ただ、伊是名も伊平屋も、琉球を初めて統一国家にした尚巴志(しょうはし)の父、尚思紹(しょうししょう)ゆかりの地である点が、一番の価値であることに間違いありません。

 確かに伊是名島は、(だい)人物であった尚円王(しょうえんおう)(※尚圓王が正しい表記)ゆかりの地でもあります。琉球を統一した尚巴志の第1尚氏(しょうし)王統(おうとう)を、王になるべき功績(こうせき)も上げずに策略(さくりゃく)と口先だけで滅ぼして国を乗っ取ってしまったのですから、とんでもなく頭が切れる人物だったことに間違いありません。

 伊是名島の人々にとって、琉球國時代の長い後半の第2王統の祖、尚円王を、島の出身と誇りに思いたい気持ちもわからなくはありませんが、あまり声を大きくできない理由が尚円王と伊是名島の間にはあり、しかもその事を沖縄の人なら誰でも知っています。

 尚円王は、伊是名島時代の若い頃から、逆田(サータ)逸話(いつわ)からもわかる通り、頭が切れる人物でした。ただ大きな問題を持った人物で、それはたいへんな女好きいずれにせよ、平気で人妻だろうが、女を見れば手を出す大変な女好だったのです。

 その結果、当然ながら、島の人々の反感を買って、ついに島にいられなくなりました。追い出されたのは本人だけで無く、母や弟も一緒でした。つまり、怒った伊是名島の人々によって、島から追放されたのです。そのいきさつは有名なので、沖縄の多くの人ならみんな知っています。

 島から追い出された経験から、伊是名島は尚円王にとってみれば大嫌いな島であり、追い出されてから伊是名島に足を向ける事は一度としてありませんでした。

 もちろん悪いのは尚円王で、伊是名の人々の行動は正しかったのであり、島を追い出されたのは当然の事です。尚円王(みずか)らの悪い行いのためですから自業自得(じごうじとく)です。ちなみに、伊是名を追われた先でも()りずに同じ過ちを(おか)しますから、かなりの女好きだったと想像できます。

 ()り返しますが、人の女に平気で手を出す若き尚円王を許さなかった伊是名の人々が、あくまでも正しく正常なのです。

 さて、個人的に違和感を感じてしまったのが、旅していて、偶然、見つけた島の尚円王の立派な銅像です。まるで尚巴志が琉球を統一しようと壮大な野望と夢に燃えているかのような素晴らしい姿だからです。きっと尚円王はあの銅像を、墓の下で苦笑いしていることでしょう。勝手ながら個人的には、もしも尚円王ではなく、(尚巴志や)尚思紹王ならよかったのにと思うにつけ残念でなりません。あまりに銅像が素晴らしく立派なため、若い頃の女ったらしの尚円王だった時代背景にどうしても合わない気がしてなりませんでした(※ちなみに、尚円王が伊是名島をを追い出されたいきさつですが、尚巴志の祖父である佐銘川(鮫川)大主の話に似た話があることから、佐銘川大主の話を尚円王用に作った話と言われています)。

 歴史を振り返ってみると、こういう記事が目立ちます。

 第1王統の最後の王、尚徳王は、無能な上に戦争好きであり、国王自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征したため、その国費の無駄遣(むだづか)いにより家臣たちの信頼を失い、その結果、クーデターが起きて失脚(しっきゃく)したと。

 本当でしょうか。

 そもそも、それは、尚円王の王統が、歴史書に書き記した内容です。その筋書きを鵜呑(うの)みにしてよいのでしょうか。

 もちろん、真っ赤な(うそ)っぱちです。尚円王がどれだけずる賢い人物であったか、そして王府の多くを自分の嘘で洗脳できる頭脳を持っていたかが、よくわかります。そもそも非論理的な話なので、嘘もほどほどにしなさいと言いたいところですが、まあ当然といえば当然とも言えます。なにしろ、第1王統を滅ぼして国を乗っ取ったと本当のことは書けません。嘘を正当化するために、でっち上げた話だからこそ、説得力に欠けるこんな非論理的な説明になってしまったというわけです。

 そもそも忘れてならないのは、国に反乱が起こった際、国王(みずか)ら軍を率いて討伐(とうばつ)に向かう、それは当たり前の事であり、しなければならない事です(もちろん王みずから行かなくても構いません)。しかも、祖父の尚巴志王以来の慣例であった事は、まぎれもない事実です。

 国内で起こった反乱に対する討伐は、なにもこの時代に限ったことではなく国の運営上、必然不可欠のことです。見逃せば、ほかも真似しますから。

 ですから尚徳王の行いは正しく、王ならばしなければならない行動です。まして王の座を追われる理由にはなりません。むしろ、言い掛かりもいいところです。

 すると、なぜ王座を追われる結果になってしまったのでしょうか。

 すべての犯人は、本人が口にせずとも事実や行動から明らかです。結果だけで、誰が暗躍したのかは、火を見るよりも明らかです。

 なお尚円王は、第2王統を立ち上げるなり、第1王統ゆかりの者達を次々と失脚させ、あるいは、秘密裏(ひみつり)に抹殺していきます。もちろん、政権奪回(せいけんだっかい)派の口封(くちふう)じのためです。それを察した者たちは、当時、王の陵墓(りょうぼ)だった「天山陵」の歴代王の遺骨と共に、都落ちして、あちこちで隠れ住むことになります。

 なにより尚円王が姑息(こそく)(きたな)いのが、建国の王統が腐敗したのでクーデターによって倒したという定番のセオリーでない点です。氾濫というより乗っ取りです。その結果、王族とまったく血のつながりのない自分が王になってしまうのです(だからこそ琉球国を語る場合、第1王統と第2王統に、明確に分けられてきました)。真実は、血のつながりが無い尚徳王を失脚させ、尚円王は自分が王に成り代わってしまったのです。

 しかしよく考えてみさえすればわかる通り、琉球國を建国したのも、首里城の基本をつくり上げたのも、すべては尚巴志という大人物です。琉球國誕生という、統一国家を打ち立てたということほど、琉球の歴史の上で重要なことはありません。三国時代という沖縄の戦国時代に、一応の終止符が打たれました。

 琉球を統一して琉球國を建国したのが、まさに尚思紹・尚巴志親子であり偉業です。

 その、尚思紹ゆかりの地こそ伊是名島であり、さらにその父ゆかりの地が、伊平屋島と伊是名島なのです。

 伊是名島が讃えるべきは尚円王以上に、そもそも尚思紹ではないでしょう。あるいは、尚思紹と尚円王という、第1王統と第2王統の始祖ゆかりの地とすべきなのが普通です。

 ただそんなことよりも、尚思紹・尚巴志親子という、琉球國を建国した親子2人を讃えることこそ伊是名島の使命だと心から願ってやみません。あるいがそれが叶わぬなら、佐敷グスクか、島添大里城が、琉球統一の出発の地として尚思紹や親子の銅像を建てるに相応しい地となるはずです。




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