茶上兼の最期 ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第72話。
茶上兼の最期
かつて沖永良部島を治めていた世の主の子に、茶上兼という名の王子がいらっしゃいました。
漆の様に艶やかで太々とした御髪を豊かにたくわえて、花のように美しい顔、月のような眉は、なかなかのもので、とても上品なお育ちでした。
また、兄弟の中の誰よりも気品があり、容姿が極めて優れていらっしゃいました。
ある時、大和の王が、大親役という役職を任命するため、茶上兼を鹿児島にお呼びになりました。
茶上兼は、荒里金鋭と久志険友二地という名の二人を従え、大和に向かいました。
また、途中の奄美大島で、潮の流れがよくなるのを待ってから出帆しました。
それから何日目かに、七島灘という所に差し掛かりました。
海はまるで盥の中の水のように静まり返って、難所とされる七島灘の面影すらないのは幸いでしたが、困った事に、風が凪いで全く吹かないため、船が少しも進みません。
此の時、金鋭主と友二地は二人で茶上兼を殺し、自分たちが茶上兼の役職を奪おうと、たくらみました。
二人の画策により、風待ち願いの宴が催され、船員には酒が沢山振る舞われました。
茶上兼は、前後不覚になるまで、酒を飲まされました。それから、船の甲板に連れ出され、背後から海に突き落とされたのでした。
その時になって、茶上兼は初めて彼等の隠謀を悟り、力の限り、船によじ上ろうとしましたが、それを友二地と金鋭は、水竿で滅多打ちにしたのでした。
打たれながら、茶上兼は、
「水飲だんて 死にゅんにゃ
汐飲だんて 死にゅんにゃ」
と言いながら、船に攀じ上ろうとしましたが、不運なことに髪の結びが解けて足手まといになり、誇っていた黒髪は、むしろ禍いの種でした。
そしてとうとう力尽き、海の藻屑となり果てて死んでしまいました。
それから金鋭主と友二地は相談し、今後のことを示し合わせました。
友二地の考えで、金鋭主が茶上兼を名乗り、友二地が金鋭と名乗ることに決め、準備を整えました。
やがて、順風の風が吹き、船は鹿児島に到着しました。
すると驚いたことに、船より先に、茶上兼の死体が、前ノ浜に打ち上がっていたのでした。
役人の調べで、身なりや容姿からそれが高貴な人であるとわかったため、大騒ぎになっていたのでした。
港に着いた金鋭と友二地は、早速、呼ばれて取り調べを受けました。言い逃れをしようとした二人でしたが、嘘を突き通すことは出来ず、遂に悪事が発覚したのでした。
罪が重いとされた友二地は打ち首となり、軽いとされた金鋭は、やがて罰を受けたのちに放免となりました。友二地の子孫は、このために大和への旅が禁止されたばかりか、やがて茶上兼の祟りのため、子孫は断絶してしまったそうな。
※注~氏名の読みの調べがつかず、荒里金鋭(あらさときんえい)、久志険友二地(くしけんゆうじち)としました。
※この話の参考とした話
①奄美・鹿児島県大島郡沖永良部島~『沖永良部島郷土史資料』
②奄美・鹿児島県大島郡知名町~『ふるさと知名町』
③奄美・鹿児島県大島郡和泊町国頭~「鹿児島民俗」第六八号
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●伝承地
①奄美・鹿児島県大島郡沖永良部島~世の主の御子に茶上兼という若様が御出でゞありました。漆の様な御髪を太々と豊かに御貯はへさせられ花の顔、月のまゆみ中々上品な御育ちで御兄弟の何の方々よりも気品が優れて御出でゞしました。大和の王様が大親役言付けのために茶上兼をお召しになりました。茶上兼は荒里金鋭主並に久志険友二地を従へて上国の途中大島に汐掛りをなし、出帆して幾日目かに七島灘に差しかゝりました。水は盥の様に七島灘の面かげもなく静まって中々無難でしたが困った事には風が凪いで一歩も進んで呉れない。此の時金鋭主と友二地の二人は茶上兼を殺して自分たちが茶上兼の役位を授かろうと謀んだ。そして二人の謀で風待願の宴会を催うして船人にも大いに酒を供し茶上兼を全く酔はせて前後不覚になし置き甲板に連れて海に押し落して了った。茶上兼始めて彼等の隠謀をさとり全力を挙げて舷に挙ぢ上らんとするのを友二地等が水竿(ミゾ)を以て滅多打ちに打ちかゝる茶上兼は、
「水飲だんて死にゆんにや汐飲だんて死にゆんにや」
と攀じ上らんとするのをあわれ髪の結び解けて手足をまとい、誇りの黒髪も今は却って禍の種とうとう海の藻屑と成り果てました。二人の者ども漸くの事にて心落ちつき、
「あなたは茶上兼と名乗れ、私は金鋭と名乗ろう」と友二地の意見に従って着鹿後の準備が調ひました。風も順を追ひ鹿児島に着いて見ると驚いた。船より先に茶上兼の死骸は前ノ浜に打ち上げられて前から諸役達はその死骸の高貴な人である事を察して騒動中であった。金鋭並に友二地暫しが程は我意を張って居たが悪謀遂に包み切れず。罪の軽重を問ひ友二地は、ハダ門に挙げられ金鋭は放免といふ事になりました。友二地の子孫は其のために大和旅が出来ぬ事になり遂にそのたたりで子孫絶滅といふ事になった。(『沖永良部島郷土史資料』)
②奄美・鹿児島県大島郡知名町~世の主は古里のヒンダマチガマの娘ウチミルとの間にイチジョガニという男の子があった。世の主自刃の時にウチミルと乳母のマスカニは難をさけて岩窟に隠れていた。薩摩の国守に助けを求めて、イチジョガニは船出したが、七島灘で家来に海に落され、三尋の頭髪を波にさらしながら三回浮き上ってきたのを海に押しこめられて死んだ。死体は薩摩の浜辺に漂着し、悪人どもは首をはねられた。(『ふるさと知名町』)
③奄美・鹿児島県大島郡和泊町国頭~昔、世の主が琉球王に謁見のため琉球へ数名の下女をつれていった。その一人の下女が琉球王に気に入られ子どもを身ごもり帰島した。王は男の子が誕生した時は七歳になったら、この刀を持たせて渡琉させるようにといった。男の子が生まれ、七歳になった時、母に自分の父親をたずねた。子どもは刀を持って父である琉球王に面会し、王子の待遇と沖永良部島の支配者の位をもらって帰島することになった。この時、王の家来三人がお供してきたが、アンザの海の沖で王子を殺すことを相談して、九年母の木でつくったかいで打ち殺し、海に投げ捨てた。しかし、王子は死ななかったので徳之島の沖でまた打ち殺した。ところがアンザの沖まで引き返して振り返ってみると、まだ王子が船についていたので、また、かいがへし折れるまで打ち殺した。三人の家来は、無事に送りとどけたと報告した。しかし、アンザの浜辺にかいが流れつき、三人の悪事がばれて、処罰された。王子の霊は、アンザのショージゴーに祀られるようになったという。(「鹿児島民俗」第六八号)
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