検福穴八幡 ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ(爲井)

2011年08月28日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第182話。


検福穴八幡(けんぷくあなはちまん)



 むかし(むかし)琉球国(りゅうきゅうこく)時代(じだい)薩摩国(さつまのくに)島津藩(しまづはん)支配下(しはいか)にあった時代(じだい)の、徳之島(とくのしま)のお(はなし)です。
 検福(けんぶく)(むら)から一キロ(あま)(きた)()ったところに洞穴(どうけつ)があります。入口(いりぐち)(たか)さは(やく)(さん)メートル、(はば)()メートル、(なが)さがほぼ二百(にひゃく)メートルある鍾乳洞(しょうにゅうどう)で、(なつ)でも(すず)しく、洞窟(どうくつ)(なか)には地下水(ちかすい)(かわ)(なが)れています。
 (ひゃく)メートルばかり(はい)って()くと、左側(ひだりがわ)石段(いしだん)があり、そこに鍾乳石(しょうにゅうせき)自然(しぜん)出来(でき)()()っています。ここは検福穴八幡様(けんぷくあなはちまんさま)()ばれ、検福(けんぶく)周辺(しゅうへん)人々(ひとびと)から氏神(うじがみ)として(まつ)られて()ました。
 ある(とき)島津(しまづ)代官所(だいかんしょ)役人(やくにん)が、女神(じょしん)である穴八幡(あなはちまん)石碑(せきひ)(まえ)に、(たわむ)れに 男根(だんこん)(かた)どった花瓶(かびん)狂歌(きょうか)()(しま)(もの)命令(めいれい)して奉納(ほうのう)しました。
 その(うた)には、こう()かれていたそうです。
 ()(なか)はよきことのみと(かみ)かけて
 松茸(まつたけ)どののなりのおかしさ
 (おんな)(かみ)さまはそれを(ひど)(おこ)り、帰国(きこく)(さい)(むかし)から難所(なんしょ)でよく()られる七島灘(しちとうなだ)(ふね)をひっくり(かえ)したため、(かみ)(いか)りに()れた島津(しまづ)役人(やくにん)(いのち)()てたと(つた)えられています。また(かみ)は、役人(やくにん)(めい)で、直接(ちょくせつ)奉納(ほうのう)した人物(じんぶつ)子孫(しそん)にも神罰(しんばつ)(くだ)して検福穴八幡(けんぷくあなはちまん)二度(にど)参拝(さんぱい)出来(でき)ないようにしたそうな。



 
※この話の参考とした話
奄美・鹿児島県大島郡伊仙町検福~『伊仙町誌』
奄美・鹿児島県大島郡伊仙町検福~『史談徳之島の伝説』


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●伝承地
奄美・鹿児島県大島郡伊仙町検福~検福の部落から一キロメートル余り北の方に行ったところに洞穴がある。入口の高さは約三メ~トル幅五メートルばかり、穴の深さはほぼ二〇〇メートルの鍾乳洞で、洞内は地下水が流れ、夏でもひんやりする暗河である。一〇〇メートルばかり行くと左側に石段があって、そこに鍾乳石の碑が立っている。ここが検福穴八幡様といわれるところで、検福およびその周辺の人々の氏神となっている。以前は石碑の前に男根を型どった花瓶があって、
 世の中はよきことのみと神かけて
 松茸とののなりのおかしさ
と、狂歌が記されていた。昔の島詰めの役人がたわむれに奉納したものという。この神は女神なので、その役人は神の怒りにふれ、帰国の際遭難して命はてたと伝えられている。これを奉納するようにことづかった人の子孫も神罰をうけて、二度と参詣できなくなったという。(『伊仙町誌』)
奄美・鹿児島県大島郡伊仙町検福~昔、徳之島代官所の役人が穴八幡のある石碑の前に男性陰部を型どった花びんに狂歌を書いてあるのを供えた。穴八幡の神は女神でこの献納物を怒り、その役人が鹿児島に帰る時、七島灘で船をひっくり返した。また、直接花びんを献納したものの子孫はここに参拝することができないようにしたという。(『史談徳之島の伝説』)

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