シンコーボーの墓 ~琉球沖縄の伝説

横浜のtoshi

2011年09月03日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第186話。


シンコーボーの(はか)



 むかし(むかし)平安時代(へいあんじだい)のこと、後白河法皇(ごしらかわほうおう)側近(そっきん)であった僧都(そうず)俊寛(しゅんかん)という(ひと)は、陰謀(いんぼう)露見(ろけん)して、藤原成経(ふじわらなりつね)平康頼(たいらのやすより)(とも)に、鬼界ヶ島(きかいがしま)(なが)されたのでした。これが()()われるところの、鹿ケ谷(ししがたに)陰謀(いんぼう)です。
 喜界島(きかいじま)での俊寛(しゅんかん)、つまりシンコーアジーは、最初(さいしょ)、ワリディーの(した)()んでいましたが、(しま)習慣(しゅうかん)であった(さかな)()べる人々(ひとびと)周囲(しゅうい)(おお)くなった(こと)(きら)って、中西(なかにし)(ひがし)方向(ほうこう)にあった斜面(しゃめん)岩屋(いわや)に、(うつ)()んだそうです。その場所(ばしょ)は、シンコーボーと()われています。
 シンコーボーの語源(ごげん)は、俊寛(しゅんかん)坊主(ぼうず)で、シュンカンがシンコーと(なま)ったのだろうとも()われます。(なお)ボーズンメー(坊主前)にある(はか)も、荒木(なかざと)にある(くだ)けた(はか)も、俊寛僧都(しゅんかんそうず)(はか)と、(つた)えられています。
 俊寛(しゅんかん)(とも)(なが)された二人(ふたり)は、(のち)(ゆる)されたものの、俊寛(しゅんかん)(くわだ)ての首謀者(しゅぼうしゃ)という(こと)(ゆる)されずに、(しま)(のこ)されました。
 かつて自分(じぶん)侍童(さぶらいわらわ)として可愛(かわい)がって(つか)えさせていた有王(ありおう)という(もの)が、(しま)(おとず)れました。その(とき)には、(すで)俊寛(しゅんかん)は、()わり()てた姿(すがた)になっていたそうです。有王(ありおう)から(むすめ)(ふみ)()()った俊寛(しゅんかん)は、()(すえ)絶望(ぜつぼう)し、(しょく)()ち、自害(じがい)してしまいました。そこで有王(ありおう)は、(しま)から(はい)になった(ほね)(みやこ)()(かえ)って、丁重(ていちょう)(とむら)ったのでした。
 その()喜界島(きかいじま)では、白馬(はくば)()った俊寛(しゅんかん)坊主(ぼうず)幽霊(ゆうれい)が、()()(すず)()らしながらボーズンメーを(ある)(まわ)ったため、あるお(ぼう)さんが鎮魂(ちんこん)して丁寧(ていねい)(とむら)ったところ、二度(にど)(ふたた)(あらわ)れなくなったそうな。



 
※この話の参考とした話
奄美・鹿児島県大島郡喜界町花良治~『喜界島古今物語』
奄美・鹿児島県大島郡喜界町城久~『喜界島の民俗』
同上~『喜界島の史跡と伝説』
奄美・沖縄県大島郡喜界町中里~同上
同上~『喜界島古今物語』


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●伝承地
奄美・鹿児島県大島郡喜界町花良治~シンコーアジーは、始め、ワリディーの下に棲んで居たが、世俗の習い、魚肉を食う人々が周囲に多くなったのを嫌って、中西の東方斜面の岩屋に移り住んだのだと。そこが、世人の知っているシンコーボーである。シンコーボーと言う語原は、シュンカン坊で、シュンカンがシンコーと訛ったのだろうとは、恒良徳、田畑善積二翁の直話である。尚ほ、両氏は、志戸桶と山田の古老は、はっきり、シュンカンボーと呼んでいたとも話された。ボーズンメー(坊主前)にある墓も、荒木にある砕けた墓も、俊寛僧都の墓だ、と伝えられている。(『喜界島古今物語』)
奄美・鹿児島県大島郡喜界町城久~城久から百之台に登る道の片側にある洞穴墓がシンコウボウという。(『喜界島の民俗』)
同上~城久から百之台に向って行き、城久の水源地の右の方に俊寛が住んでいたと伝えられる岩穴がある。(『喜界島の史跡と伝説』)
奄美・沖縄県大島郡喜界町中里~中里のボーズンメーに僧俊寛の墓というのがある。俊寛は島に流された後、海辺で魚、貝などをとって暮らしていたが、迎えの船がきた時には大へんやせていたので連れていけず、この地に葬ったという。昔から人々の恐れる場所で、白馬にのった坊主が夜々鈴を鳴らしながらボーズンメーを歩き廻ったという。(同上)
同上~夜な夜な白馬にのった坊主が鈴を鳴らしながらボーズンメーを歩き廻ったので、一人のお坊さんが埋蔵経の一石一字を墓石のほとりに埋蔵し鎮魂したという。(『喜界島古今物語』)

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