シンコーボーの墓 ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第186話。
シンコーボーの墓
むかし昔の平安時代のこと、後白河法皇の側近であった僧都の俊寛という人は、陰謀が露見して、藤原成経や平康頼と共に、鬼界ヶ島に流されたのでした。これが世に言われるところの、鹿ケ谷の陰謀です。
喜界島での俊寛、つまりシンコーアジーは、最初、ワリディーの下に住んでいましたが、島の習慣であった魚を食べる人々が周囲に多くなった事を嫌って、中西の東の方向にあった斜面の岩屋に、移り住んだそうです。その場所は、シンコーボーと言われています。
シンコーボーの語源は、俊寛坊主で、シュンカンがシンコーと訛ったのだろうとも言われます。尚、ボーズンメーにある墓も、荒木にある砕けた墓も、俊寛僧都の墓と、伝えられています。
俊寛と共に流された二人は、後に許されたものの、俊寛は企ての首謀者という事で許されずに、島に残されました。
かつて自分の侍童として可愛がって仕えさせていた有王という者が、島を訪れました。その時には、既に俊寛は、変わり果てた姿になっていたそうです。有王から娘の文を受け取った俊寛は、行く末に絶望し、食を断ち、自害してしまいました。そこで有王は、島から灰になった骨を京に持ち帰って、丁重に弔ったのでした。
その後、喜界島では、白馬に乗った俊寛坊主の幽霊が、夜な夜な鈴を鳴らしながらボーズンメーを歩き廻ったため、あるお坊さんが鎮魂して丁寧に弔ったところ、二度と再び現れなくなったそうな。
※この話の参考とした話
①奄美・鹿児島県大島郡喜界町花良治~『喜界島古今物語』
②奄美・鹿児島県大島郡喜界町城久~『喜界島の民俗』
③同上~『喜界島の史跡と伝説』
④奄美・沖縄県大島郡喜界町中里~同上
⑤同上~『喜界島古今物語』
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●伝承地
①奄美・鹿児島県大島郡喜界町花良治~シンコーアジーは、始め、ワリディーの下に棲んで居たが、世俗の習い、魚肉を食う人々が周囲に多くなったのを嫌って、中西の東方斜面の岩屋に移り住んだのだと。そこが、世人の知っているシンコーボーである。シンコーボーと言う語原は、シュンカン坊で、シュンカンがシンコーと訛ったのだろうとは、恒良徳、田畑善積二翁の直話である。尚ほ、両氏は、志戸桶と山田の古老は、はっきり、シュンカンボーと呼んでいたとも話された。ボーズンメー(坊主前)にある墓も、荒木にある砕けた墓も、俊寛僧都の墓だ、と伝えられている。(『喜界島古今物語』)
②奄美・鹿児島県大島郡喜界町城久~城久から百之台に登る道の片側にある洞穴墓がシンコウボウという。(『喜界島の民俗』)
③同上~城久から百之台に向って行き、城久の水源地の右の方に俊寛が住んでいたと伝えられる岩穴がある。(『喜界島の史跡と伝説』)
④奄美・沖縄県大島郡喜界町中里~中里のボーズンメーに僧俊寛の墓というのがある。俊寛は島に流された後、海辺で魚、貝などをとって暮らしていたが、迎えの船がきた時には大へんやせていたので連れていけず、この地に葬ったという。昔から人々の恐れる場所で、白馬にのった坊主が夜々鈴を鳴らしながらボーズンメーを歩き廻ったという。(同上)
⑤同上~夜な夜な白馬にのった坊主が鈴を鳴らしながらボーズンメーを歩き廻ったので、一人のお坊さんが埋蔵経の一石一字を墓石のほとりに埋蔵し鎮魂したという。(『喜界島古今物語』)
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