ファムィンカー ~琉球沖縄の伝説
みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第189話。
ファムィンカー
奄美の喜界島、小野津の口碑に伝わる、上納の大変さを伝える、お話の一つです。
むかし昔のことです。沖縄のある村に、五人の子ども、上から十一才、九つ、七つ、五つ、三つがいた、母親がおりました。この母親は、大変に器用な女性であったため、人々から選ばれて、琉球国の王に上納する絹布を織らされておりました。しかし、五人の幼い子ども達の相手をし、育てながらの仕事ゆえ、なかなか思うようには捗りませんでした。そうこうしているうちに、上納しなければならない日は、刻一刻と迫ってきます。そして遂にその日が、明日と迫りました。何としても明日中に織り上げなければなりません。絶えずまとわりつく幼子達の事さえなければ、何とかなりそうなものの、やはり子ある母親の身では、どうしようもありません。
母親が懸命に考えました。その時、突然、名案が浮かびました。それは、舟が大好きな子ども達を、舟に乗せ遊ばせることでした。また、玩具として子ども達に、甕壼をそれぞれ一壼ずつ与えて、遊ばせる事にしました。
さて、最後の日の朝を迎えました。海辺で母親は、舟に結んだ縄を引いたり緩めたりしながら子ども達の相手をしつつ、順調に機を織り続けたのでした。やがて舟の中で、それぞれ自分の甕壼で楽しく遊び始めた子ども達の様子を見て母は安心し、舟に繋がった縄を、近くの岩にしっかりと結び付けました。そして今のうちに、頑張れるだけ機織りを急ごうと、力の限り、仕事に精を出したのでした。熱心に機織り作業に取り組んだ甲斐あって、日が暮れる前には今までの遅れを取り返し、上納絹布を織り上げる事が出来たのでした。母親は、久しぶりに深い安堵の溜め息をついたのでした。
それから耳を澄ませたところ、波の音しか聞こえず、子ども達は舟に揺られながら、気分良くお昼寝しているようです。そこで母親は機織り道具を片付け、子ども達を迎えにいこうと浜の方向を向いた時です。その光景に、我が目を疑いました。驚いた事に、海岸線だけがどこまでも続き、そこのある筈の舟がないのです。慌てて近くの岩に駆け寄ると、縄はしっかりと結ばれたままでした。しかし、反対側の縄の先は、波の間に間に漂っていたのでした。
見える限りの海を、母は必死に目を凝らしましたが、舟は見当りません。それから母は、あちこちの海岸を探し廻り、また、山や岬の、見晴らしが良い高台に、次々と登っては、海の彼方まで、我が子達を乗せた舟影を探しましたが見つかりません。最後に母親は、海の彼方を見詰めながら、ただただ呆然と立ち尽くし、いつまでも涙を流したのでした。
やがて母は跪くと、海に向かって手を合わせ、祈たのでした。
「どうか神様。あの子達が、どこかの浜辺に無事流れ着いて、命がどうか助かりますように。そして子ども達はいつか、人々から崇められる神になりますように。」と。
さて、鉄をも溶かすといわれる、真の母の愛が通じてか、子ども達を乗せた小舟は、揺られ揺られて、奄美の喜界島、小野津の御神山海岸の、泊(※港のようになった潮溜まり)に漂着したのでした。五人の子ども達は、それぞれ自分の甕壼を抱えて、無事に陸に上がったのでした。そしてしばらくは、アダネの実を舐めたりしながら生活し始めました。やがて、大きなヤドカリ相手に、毎日楽しく遊んでいたところ、はさみで舌を切られてしまい、そのまま大量の血を流して藻搔き苦しみながら死んでしまいました。
後に、子ども達の亡骸は島の人達に発見されて、御神山の林の中に葬られたのでした。またその時に、子ども達の亡骸の上に甕壼が置かれたそうです。島の人々は、五つの甕壼ファムィンカーを訪れて供養しました。そして何時の時代からか、梅雨から夏にかけて甕壼の水が満々と充ちていればその年は豊作、逆に、水が涸れれば凶作というように、農作物の吉凶を、ファムィンカーで占うようになったそうな。
※この話の参考とした話
①奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~喜界島古今物語』
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●伝承地
①奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~口碑に、昔、琉球のある所に、十一才を頭に九つ、五つ、三つの五人の子供をもった一人の女性があった。
至って、手調法な女であった為に、撰ばれて、王様に上納する絹布を織らされたが、子供ある身ではどうしても思うようにはかどらなかった。其のうちに、上納の日は、一日々々と迫って来て、果ては明日となった。彼女は、気が気ではなく、何としても今日中には織上げなければならぬ立場におかれた。然し、子供ある身ではどうしようもなかった。思案にくれて、只、呆然としているより外に途はなかったのであった。と、その瞬間、頭にひらめいたものがあった。即ち、五人の子供を舟に乗せ、オモチャに、一壼ずつ与えて遊ばせることであった。彼女は、機を織りつつ、舟に結んだ縄を引いたり、ゆるめたりしては、子供たちと合図していたが、舟の中で無心に遊び戯れている様子に安心しきって、今のうちだと許(ばか)り、機織りに精出すのだった。夢中で機織りと取り組んだ甲斐あって、宵闇迫る頃には、やっとの事で上納絹布を織上げ、「やれ、やれ」と一安心することが出来た。刹那、わが子の事に気がついた。何の音もしないので、舟の中で寝ているのか、と浜に出て見たら、何と、舟はそこには見えず、遠くを眺めても姿さえ見当らなかった。母は、狂気して、髪は振り乱れ、着物の裾もあらわになるのを気にすることも出来ず、東に西に、四方八方探し廻ったが皆目わからない。山のハナバナにも登って海の彼方も眺めたが一片のカケラも見当らなかった。次第々々に夜の帳は辺りに下ろされ、今は、探す手段さえも望めず、引きあげるより外途はなかった。彼女は只、呆然として涙にくれ、立ちつくしていたが、やがて、決心したらしく、黙想すること久しうして祈念するには
「あの子供達がどこでもいい、無事着陸するように、……神となって拝まれるようにーー」と。鉄をも溶かす母性愛の一念は、神の御心に通じたものか、舟は、波の間に間に、ゆられ、ゆられて喜界島小野津の御神山海岸の泊に漂着した。五人の子供は、カメを一つずつ抱えて、無事に、上陸することが出来たのであった。そして、アダネ(アダン)の実などなめて露命をつないでいたが、つれづれなるままに、ヤドカリ(アマアー)をもてあそび、ヒョイヒョイと口笛して呼び出して遊んでいた。こうして遊んでいるうちに、舌をかみ切られて、血を滴らせ、苦しみ死んだと伝えられている。死後、御神山の林中に葬られ、オモチャの壼は、各々、その上に置かれたのだそうで、もと、其の場所には、トビラ木が生えていたらしいが今は(一九三三)ない。五ツのカメ(壺)は、斎部(いわいべ)のものらしいが、古人は、梅雨をとおして、夏中、水が満々とみちていれば、その年は豊年、水涸(か)るれば凶年であるとて、年の豊凶を占う資料にしていたというが、悪童どもや山羊などによって、五つのカメは傷つけられ、今は、毎年、満々とみちた水を見ることが出来なくなっている。(『喜界島古今物語』)
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