天女の子 ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ

2010年12月13日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第62話。


天女(てんにょ)()



 むかし(むかし)の、喜界島(きかいじま)でのことです。
 (てん)から、天降子(アムリガー)()りて()て、チリという川で水浴(すいよく)していました。
 たまたまそこを(とお)()かった百姓は、天人(てんにん)飛羽(ひう)(※飛衣(とびんす)羽衣(はにんす)の事)見付(みつ)けてそれを(うば)()り、天女(てんにょ)無理矢理(むりやり)()(かえ)ると、自分の(つま)にしてしまったそうです。
 そして、やがて二人の(あいだ)には三人の子どもが出来ました。
 兄が七つ、姉が五つ、妹が三つになった、()()のことです。兄は、下の妹を()ぶりながら、こんな子守唄(こもりうた)を歌っていました。
    泣くなをらぶ(うらぶ)
    母の飛羽(ひう)
    六つ(また)御倉(みくら)(もみ)の下
    四つ(また)御倉(みくら)(もみ)の下
 それを聞いた天人(てんにん)の母は、かつて夫が(かく)した飛羽(ひう)のありかをその歌で知り、早速(さっそく)、それを()()して()()けたのでした。
 そして、兄を右脇(みぎわき)に、姉を左脇(ひだりわき)に、さらに妹を前に()くと、天に向かって飛んで行きました。
 さて久々(ひさびさ)に、天に()がってみたところが、(むかし)とすっかり様子(ようす)が変わっていました。また、天人(てんにん)がかつて住んでいた住居(じゅうきょ)は、(すで)になくなっていたのでした。
 その光景(こうけい)()()たりにして、もうここでは()らせないと考えた天女(てんにょ)は、仕方(しかた)なくそれぞれに(しょく)(あた)えてから、三人の子ども地上(ちじょう)()ろしたのでした。
 こうして、兄はトゥキ(占者)の初めに、姉はヌル(祝女)の初めに、そして妹はユタ(巫女)の初めになったそうな。


 
※この話の参考とした話
柳田~「羽衣松」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町浦原~『鹿児島県喜界島昔話集』
奄美・鹿児島県大島郡喜界町蒲生~『鹿児島県喜界島昔話集』
奄美・鹿児島県大島郡天城町兼久~南島昔話叢書3『徳之島の昔話』
奄美・鹿児島県大島郡伊仙町伊仙~『徳之島の昔話』
沖縄本島・沖縄県国頭郡国頭村浜~『中世語り物文芸』〈羽衣の系譜〉
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~『瀬名波の民話』読谷村民話資料4
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~『島尻郡誌』
沖縄本島・沖縄県那覇市安謝~(『琉球国由来記』巻十三)〔『琉球国旧記』第六、『遺老説伝』巻一などは省略〕


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●伝承地
柳田~「羽衣松」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町浦原~昔、あるところに、天からアムリガー(天降子)が降りて来て、チリといふ川で水を浴びていたところが、通り掛った百姓が天人の飛羽を見つけてそれを奪い取り、無理に連れて帰って己れの妻にした。二人の間に三人の子供が出来た。兄が七つ、姉が五つ、妹が三つになった時、或る日兄が末の妹を負ぶって、こんな子守歌を歌った。
    泣くなをらぶ(ウラブ)な
    母の飛羽は
    六つ股御倉の籾の下
    四つ股御倉の籾の下
 それを聞いて天人の母は、かねて夫が匿してあった飛羽のありかを知って、それを取出して身に着け、兄は右脇に姉は左脇に妹は前に抱いて天へ飛昇った。天へ上ってみると、昔とはすっかり様子が変って、天人の住居はなくなっていたので、仕方なく三人の子供は夫々職を与えて地上へ下した。それから兄はトゥキ(占者)、姉はヌル(祝女)、妹はユタ(巫女)の初めになったという事である。(『鹿児島県喜界島昔話集』)
奄美・鹿児島県大島郡喜界町蒲生~天道に二人の兄妹がいたが、兄はわがままで、地上へ追い落とされた。妹がそれに同情して兄といっしょに天降りして喜界島伊実久の三原へ着いた。兄妹は、三原の松山から志戸桶へ入ると、村人はこれを丁寧に迎えた。さらに早町から白水、嘉鈍を経て蒲生に着いて、長くここに留まった。その蒲生の屋樽瀬戸という百姓が、妹の天人を妻としたので、二人の間に三人の子どもが生まれた。兄の天人は、海を渡って大島の蒲生に行って、そのまま消息をたった。妹の天人は、三人の子どもを生んだが、毎年、ウリズンの麦の赤らむ頃になると天に昇り、夏の稲の取上げの終わった頃に降りてくるのが慣わしであったが、屋樽瀬戸はそれがわずらわしいので、天女の飛羽を高倉の稲束の下に隠してしまった。しかし、兄子が末の子を負んぶしながら歌う子守歌を聞いて、飛羽を見つけ、天女は天に昇って再び降りてくることはなかった。それでも天女は地上に残した子どもが気がかりで、ときどき団子を作り、白鳥の首にかけて降ろしてよこした。そのことが度重なったので、屋樽瀬戸は白鳥を射殺したところ.それきり天と地との交流は絶えた。蒲生聚落の大家(ウフヤー)一族は、その天人の子孫と称して天人を祀る天降神社を擁している。(『鹿児島県喜界島昔話集』)
奄美・鹿児島県大島郡天城町兼久~昔、兼久のアガリシン川で天女が水浴びをしていると、兼久の男が、これを見て飛び衣を隠し取ってしまった。天女は飛ぶことができなくなって、その男の妻となり三人の子どもをもうけた。ある日、上の二人の子が末の子の子守りをしながら歌う唄で、臼の下に隠された飛び衣を見つけ、天女は年上の子を右の腕、次の子を左の腕に抱き、末子を地上に残して天に昇った。しかし、地上に残した子どものため、時折、天から白米を落とすようになったが、ある人がそこに下着を干したので、不浄となって白米は落ちないようになった。残された男は、竹を植えそれをたよりとして、子どもを連れて天に昇り、天女と再会したが、冬瓜を縦に切ると大水が出て、その川に流されて地上に落ちてしまった。(南島昔話叢書3『徳之島の昔話』)
奄美・鹿児島県大島郡伊仙町伊仙~天女が天降りして東知念川で水浴びをしていると、銘苅子が飛び衣を隠してしまい、天女を妻とした。二人の間に三人の子どもをもうけたが、いちばん上の子が末子を子守りするとぎの歌で飛び衣を見つけ、天女は末子を落して二人の子だけを連れて天に昇った。銘苅子は、草鮭を作って天に昇り。天女と再会したが、冬瓜を縦に二つに切ると、大水が出て地上に流されてしまった。天女は、落した末子のために、正月元旦に、米をいっぱい落した。そこを「米おろしど」と今に伝えているが、あるとき、心の悪い人が褌を吊るしたので、それからは米が降ろされなくなった。(『徳之島の昔話』)
沖縄本島・沖縄県国頭郡国頭村浜~昔、ナーガ・シュットマ家の男が、川沿いに山を歩いていると、川上から髪の毛が流れてきた。川をさかのぼって行くと、天降りした娘が、飛び衣を脱いで髪の毛を洗っていた。男は飛び衣を盗み取って、天女を妻とした。二人の間に二人の男の子が生まれたが、天女は高倉の籾俵から飛び衣を見つけ、二人の子を残したまま、天に昇って行った。それ以来、ナーガ家は七月に神拝みすることになったが、そのときには不思議に雨が降った。それは、天女が地上に残した子どもを思っての悲しみの涙だという。(『中世語り物文芸』〈羽衣の系譜〉)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~銘苅川で天女が天降りして髪を洗っていた。銘苅子が、川に黒髪をみとめて、川上にさかのぼってくると、松の木にかかった羽衣を見つけて隠した。天女はやむなく銘苅子の妻となり、二男一女をもうけた。たまたま長男が弟妹をあやす子守唄で、倉の下に羽衣を見つけ、子どもを残して天に昇った。その長男は按司、次男は下級官吏、娘はノロとなった。これが按司とノロの始まりである。(『瀬名波の民話』読谷村民話資料4)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~銘苅子が、川に髪の流れて来るのを見て、川上にのぼって行き、水浴びをする天女の飛び衣を隠した。やむなく天女は銘苅子の妻となり、二男一女をもうける。七歳・五歳・三歳となったとき、七歳の子が三歳の子をあやす子守唄で、天女は飛び衣のありかを見つけ、子どもを残して昇天した。七歳の子は按司、五歳の子はノロ、三歳の子は百姓のそれぞれの始祖となった。(『渡慶次の民話』読谷村民話資料7)○沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町宮城~昔、大里間切の宮城村に、大工大主という百姓がいた。夕方、野良仕事の帰り、御宿井に天女をみとめて羽衣を盗み隠した。天女は困って大主に従い、夫婦の契りを込めて、一男一女をもうけた。しかし、天女は機会を得て、子を残したまま昇天した。大主は、天女を追って後姿が見えたので、クマドウクマドウと叫んだので、今にその所を久場塘ということになったという。(『島尻郡誌』)
沖縄本島・沖縄県那覇市安謝~安謝村ニ、銘苅云小邑ニ、銘苅翁子旧跡有。営家宅造、翁子画像有。向姓湧川親雲上朝略、外鼻祖為依、代々奠之祭也。天久権現、勧請之由来、于聖現寺縁記見。往昔、銘苅原ニ、井川有。銘苅子、田耕此井到、手足洗。長キ髪毛見、不審ニ思ヒ、心放不、此井辺ヲ在、或男ニ取合、男子一人、女子一人、産生シケルトナリ。然レバ、男子ハ宮城之地頭、女子ハ同巫ニ、成為由也。天女終死シケル時、此岳之内、一ツ瀬ト云、大石之上、葬也。彼天女骨、今于之有、村中ヨリ崇敬也。右三ヶ所、宮城巫崇所。(『琉球国由来記』巻十三)〔『琉球国旧記』第六、『遺老説伝』巻一などは省略〕

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