世の主がなし ~琉球沖縄の伝説
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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第71話。
世の主がなし
世の主がなしは、昔の沖永良部島の王です。
その城跡も墓も、今は内城にあります。
一三八〇年頃のお話です。
当時の島には、各村に、ヌルという役職の者がおりました。
ヌルは、女性神官の神人として様々な祭事を行う役目を果たすと同時に、沖永良部島からの貢物である税金を、北山王の元に届ける役目をもっていました。
ヌルは、未婚の美しい乙女がいつも選ばれました。当時、ヌルになる女子は、斉戒という身を清める儀式を受ける事になっておりました。
また、ヌルの役職の者がやめて、次の新しいヌルと交代する時には、北山王の所へ行って、新たな辞令書を貰う事になっていました。
その頃、上城のヌルは、貢物を持って、北山王の元に行きました。その際、ヌルを交代させたいと思って自分の姪に当たる十四、五歳の美しい娘を連れて行ったのでした。
北山王は、この美しい娘に、沖ヌルとしての辞令書を渡しましたが、余りの美貌と可愛らしさにすっかり惚れ込んでしまい、そのままとうとう、嫁にしてしまったのでした。
それからというもの、その美人の沖ヌルは、王の許で不自由なく楽しく暮すうちに懐妊し、やがて出産が近づきました。
沖ヌルはそこで、故郷のエラブ島に帰って、両親の元でお産しようと船に乗って向かったのでした。
まず初めは、屋子母港で上陸したいと思い、船をその港に入れました。ところが土地の人々から、今年はシニグイ祭りの年のため、妊娠している穢れた女の上陸は許可出来ないと断られてしまいました。
そこで次に、船を住吉港に回しましたが、此処こでも同じくシニグイ祭りの年なので、妊娠した穢れた女の上陸は許可出来ないとのことで、断られてしまいました。
段々と、日が暮れて夜になり、沖ヌルは産気づきました。
そこで今度は、故郷の、沖ドマリ港に上陸しようと思い、船を港に向かわせたのでした。そして、沖ドマリ港では、上陸したいと尋ねずに密かに上陸したため、我が家にも行くことが出来ないままでいると、いよいよ産気づいて、付近の畠の隅で、とうとう出産する事になったのでした。
無事に生まれた赤児は、玉のような男の子でした。
生まれた夜は、生憎、小雨が降る夜で、蓑を傘代わりにしての、お産でした。
生まれると、早速その場で、俄作りのカマド石を並べて産湯を沸かしたり、お粥を炊いたりしての出産でしたが、無事に安産で子どもは生まれ真松千代と名付けられました。
この生まれた赤ん坊こそ、後の世の主がなしなのでした。
なお、その畠は現在、下城村内にありますが、そこには当時のカマド石が今も大事に保存されています。
近世になって、村の人々は畏れ多い尊い場所ということで神社を建てました。この神社が、世の主神社で、カマド石がご神体として祀られています。
さて、すくすくと大きく成長していった世の主がなしですが、北山王の二男であり、やがて中山王の姫を嫁としてお迎えになりました。
そしてお二人は、父君の北山王の命により、沖永良部島を治めることになりました。
二人は最初に、玉城村の、ふばどうに家を建てました。
その頃、世の主がなしは、大城の、川内の百という者と一緒に、与和の海に魚釣りによく出掛けていました。
ある日のことです。
この与和の海から、越山の方向を指差して、あそこは大城村が所有する土地で、王の居城を造る場所に最適であると、川内の百が言いました。
世の主がなしも、この場所が気に入って、早速、築城を後蘭孫八に命令し、三年かけて城を完成しました。
世の主がなしが、この城に住み始めたある夜のことです。
城から、遠く離れた東方の、喜美留海岸の方を見ると、何かが光っています。次の夜も、また次の夜も、同じ場所が光っています。
それは何かと不思議に思い、世の主がなしは、使者を喜美留の村に送ったのでした。そして、そこの様子を聞いて来させました。
そして伝えられた内容は、このようでした。
喜美留の村に、扇丈という漁師がいて、この人が、海で魚を釣っていた時のこと、魚の代わりに一本の日本刀が上がりました。珍しい事があるものだと、漁師は家にそれを持ち帰ったそうです。
この刀には不思議な力が宿り、俎板の上にのった魚を刀で切ると、殆ど力を入れていないのに、俎板まで切れてしまいます。
またある時には、餌欲しさに鶏が寄って来て、余りに五月蠅いので、刀を持った手で追い払う仕草をしたところ、触れてもいないのに鶏の首が飛んでしまいました。
また、古場野原で、大きな石に切りつけてみたところ、石はものの見事に真っ二つに割れたのでした。
ところがやがて、自分の子が、その刀に触ってもいないのに大怪我をしてしまいました。
そのため漁夫の扇丈は立腹し、また、こんなに危険な物はないと考えて、元の海に捨てたのでした。
それからというもの、刀は毎晩、海の中で光りを放つようになったという話でした。
そして、遠く離れた内城の、世の主がなしの城からも見えたのでした。
その話を聞くと、世の主がなしは、再び使者を喜美留の村に送り、扇丈に日本刀を釣り上げて貰う事にしました。
こうして、その日本刀は、世の主がなしに送り届けられました。そして大事な秘蔵の品となって世の主がなしは、非常にお喜びになり、この刀に「喜美留なつくみ」と名付けました。
さて、丁度その頃、世の主がなしの家来に、住吉村に住む、国吉里主という男がおりました。
この国吉里主は、競走馬を二頭、所有していました。世の主がなしは、逞しい馬を見て欲しくなり、国吉里主に言いました。
国吉里主は、それでは一頭差し上げますと言ったにも関わらず、世の主は二頭とも必要だと言って、とうとう二頭の馬を取り上げてしまいました。
怒った国吉里主は、中山王の所に行き、エラブの世の主がなしの事を、色々と告げ口しました。またその時、名刀喜美留なつくみについても、詳しく話したのでした。
この話を聞いた中山王は、喜美留なつくみが、どうしても欲しくなり、早速、使者をエラブ島の世の主に送って、是非とも名刀を譲ってくれるようにと頼みました。
しかし、世の主がなしは、王として島を治めることが出来るのは、名刀のお陰なので、譲ることが出来ないと断ってきました。
諦めきれない中山王は、家臣達と色々知恵を絞って盗み取る計画を立てたのでした。
そこで、若くて賢い女を密かにエラブ島へ送り込みました。
この女は、世の主がなしの奥方に仕えることに成功しました。女は、住み込んで手伝いながら、美留なつくみの隠し場所を知り、まんまと盗み出して中山王の所へ運んで、渡しました。
なお、その頃、中山王、南山王、北山王による、三つの国の王が勢力を競ていました。その中から、勢力が非常に強かった中山王に、北山王は遂に滅ぼされてしまいました。
世の主がなしは、自分は北山王の二男であり、また妻は滅ぼされた先の中山王の娘であるため、中山の軍勢が、いつ攻めて込んでくるのかと、毎日心配していました。
そのため、正名村の上の高台に、見張りのための番所を置きました。そのため、現在でもその付近を番堂原と呼びます。
やがて、中山王の元から数艘の船が、沖永良部島にやって来ました。
世の主がなしは、家臣の屋者真三郎と西見国内兵衛佐の二人を急行させ、戦さのための軍船か、和睦のための使節船かを調べてくるようにと命じました。
また、和睦の船ならその旨を合図し、戦うための軍船の場合は、大至急帰って来るように命じました。
二人は、船に乗り込み、世の主がなしの使者であることを告げました。
船は軍船ではなく、使節船でした。
二人は、大変な、もてなしを受けたために、つい合図の事をすっかり忘れてしまったのでした。
一方、城では、合図があるのを、今か今かと待ち侘びたものの、一向にそれがありません。それはきっと敵の軍船に間違いなく、二人は既に殺されてしまったのだと思いました。
世の主がなしは、この小さな島をあげて大国を敵に回して戦うなど、とても無理である事を知っていました。
また、頼みの綱としていた宝刀の美留なつくみも、今や行方知れずです。
世の主がなしと奥方はじめ、城中の者達は、互いに差し違えて、自らの命を絶ってしまいました。
それは、一四一六年のことでした。
一方で、五歳の長女と、三歳の長男の乳母であったマスガネは、二人を連れて、城から外に脱出していました。
西原村の、アガレ百の家まで逃げたところ、丁度その時に、村の港に徳之島の船が来ており、その船で徳之島に避難したのでした。
世の主がなし亡き後、エラブ島を治める者がいなくなり、それから後は中山王の領地になりました。
中山王は、エラブ島に大屋役を置いてエラブ島を治めさせたため、エラブ島は直ぐに落ちつきを取り戻して平和になりました。
島の役人達は、徳之島にいる世の主がなしの二人の子をエラブ島にお迎えし、城の北の小高い所に家を建てて住まわせました。またその後、中山王の取り計らいによって、子孫は代々、大屋役を務めることになりました。
なお、姉は王の姫だったために、嫁に貰う相手がなく、一生独身だったということです。
世の主がなしの城跡は、現在は、世の主神社になっています。
その庭の高台に立つと、与和の海から、遙か東の喜美留海岸までが見渡せます。
また、城の周辺の谷間まで眺めていると、当時の様子が思い浮かべる者も少なくないそうです。
そしてまた、後蘭孫八の築城技術の素晴らしさは、今もって目を引きます。
世の主がなしの墓は、神社から南西方向にあり、大層立派であり、如何にも王のものに相応しいものです。また、このお墓はまさに、この話そのものである歴史を象徴する存在であるそうな。
※注~「シニグイ祭り」とは「城籠祭」か。
※この話の参考とした話
①奄美・鹿児島県大島郡知名町瀬里覚~『知名町瀬利覚に伝わる昔ばなし』
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●伝承地
①奄美・鹿児島県大島郡知名町瀬里覚~世の主がなしは沖永良部島の王さまです。その城跡も墓も現在内城にあります。昔(一三八○年頃)六百年程以前の琉球時代の頃の話です。当時は各部落にぬる(ノロ)という役職がありました。ぬるは女神官でありますがエラブ島からの貢物(みつぎもの/税金)を北山王の許まで届ける仕事でもあります。ぬるは、未婚の美しい少女を選定します。当時は結婚する女子は斉戒という身を清める儀式を受けることになっておりました。また、ぬるの役職を止めて、次の新しいぬると交代をする時には北山王の許まで行って新しい辞令書をもらうことになっております。その頃、上城のぬるは、貢物を持って北山王の所に行きました。その時にぬるの交代もしたいと思い、自分の姪に当たる十四、五歳の美しい娘も連れていきました。北山王はこの美しい娘に沖ぬるとして辞令書を渡しましたが、この娘のあまりの美しさと可愛さにすっかりほれ、とうとうお嫁にしました。それからその美人の沖ぬるは王さまの許でたのしく暮しておられましたが、そのうち妊娠され、やがて出産も近づきました。それで故郷のエラブ島に帰り、両親の許でお産をしようと思い船に乗りエラブ島に向ってきました。まず最初は屋子母港で上陸したいと思い船を屋子母港に入れました。ところが土地の人々が今年はシニグイ祭りの年だから妊娠しているけがれ女の上陸はお断わりするとのことで、上陸できませんでした。今度は住吉港に入れました。ところがここでも屋子母港と同じくシニグイ祭りの年だから、妊娠したけがれ女の上陸は出来ないとのことで断わられました。だんだんと日は暮れて夜となり女は産気づいてきました。それで今度は故郷の沖ドマリ港で上陸しようと思い船を沖ドマリ港に向かわせました。そして沖ドマリ港ではひそかに上陸しましたが我が家にも行くこともできずそのうちに、いよいよ産気づいてきましたので付近の畠のすみでとうとう出産しました。めでたく生まれた赤ちゃんは、玉のような男の子でした。当夜はあいにく小雨の降る夜でしたので、ミノを傘にしてのお産でした。早速、その場でにわか作りのカマド石をならべて産湯をわかしたり、また、おか湯を炊いたりして無事安産されました。このお生まれになられました赤ちゃんこそ、世の主がなしで御座います。この畠は現在、下城部落内にありますが、当時のカマド石が大事に保存されてあります。近世になり、部落民の人々がここは恐れ多い尊い遺跡だよと神社を建てられました。この神社の御石は世の主神社と言い、このカマド石を神体として大事に祭っておられます。すくすく大きくなられました世の主がなしは、北山王の二男でありますのでお嫁さんは中山王の姫をお迎えになりました。そして、お二人は、父君の北山王の命により沖永良部島を治めることになりました。まず最初は玉城部落のふばどう(金の塔)に家を建てられました。その頃大城部落の川内の百(ひやー)といっしょに、与和の海に魚つりによく出かけておられました。ある日のことです。この与和の海から、越山の方向を指差してあそこは大城部落の所有地です。王さまの居城地としては、もってこいの所ですよと川内の百は申しました。ところが世の主がなしもこれは良いと気に入りまして早速築城工事を後蘭孫八に仰せ付けになり、三か年もかかって完成し世の主がなしはここにお住まいになりました。ある夜のことですが城の方から遠く離れた東方の喜美留海岸の方を見ますとピカピヵ光るものを見ました。あけの夜も、また、次の日も毎夜同じ場所でピカピカ光りますのでこれは何ものだろうかと不思議に思い、使者を喜美留部落にやりその様子をよく聞きますと次のような話でした。喜美留部落に扇丈と言う漁夫がおり、この人が海で魚を釣っておりますと、魚は釣れずに魚の代わりに一本の日本刀がつり上げられました。これは珍しいものだと家に持ち帰りました。この刀は不思議な刀でまな板の上で魚を切ると余り力をいれないのにまな板までも、ずきんずきんと切りとられてしまい、また、その周辺のエサほしさに寄ってきた鶏がうるさいのでシッシッと刀を持った手で追い散らすと、鶏の身体に触れもしないのに鶏の首が飛んでしまった。また、自分の子供がその刀にさわったかさわらないかのちょっとしたことでも大怪我をする始末です。そこでこの漁夫の扇丈さんはこんなに危険なものなら又元の海に捨ててしまえと立腹のあまり、古場野原(コバノバル)で真石に切りつけると真石は真二ツに切り割られてしまいました。それから元の海に投げ捨てたそうです。ところがこの刀は毎晩、海の中でピカピヵと光り遠く離れた内城の世の主がなしの城でも見えたのです。そこで世の主がなしは使者をもう一度喜美留部落の扇丈漁夫の所にやり、この不思議な日本刀を釣り上げてもらい今度は世の主がなしが大事に秘蔵することになりました。世の主がなしは非常にお喜びになり、この刀を喜美留なつくみと申すようになりました。ちょうど、その頃世の主がなしの家来に住吉部落に住んでいる国吉里主と言う男がおりました。この国吉里主は勝負用の馬を二頭所有しておりました。世の主がなしはこのたくましい馬を見ると非常にほしくなり国吉里主にこの二頭の馬を私に下さいと言いました。ところが国吉里主はそれでは一頭は差し上げましょう。後の一頭は、自分も遠い住吉部落からこのお城までこの馬の助けを借りて往復しておりますのでどうぞ勘弁して下さいとお願いしましたが、世の主がなしはぜひ二頭とも必要だからと申されとうとう二頭の馬を取り上げてしまいました。二頭の馬を取り上げられた国吉里主は立腹し沖縄の中山王の所に行き、エラブの世の主がなしの事をいろいろと告げました。その時に喜美留なつくみの名刀のこともくわしく告げました。この話を聞いた中山王は、この喜美留なつくみがほしくなり早速使者をエラブ島の世の主がなしのところにやって、その名刀をゆずってくれないかとの交渉をしました。ところが世の主がなしは私はこのような小さな島で王さまとして島中を治めて行けるのはこの名刀があるおかげです。それでこの名刀はゆずることはできません、と断わりました。それで中山王の使者は仕方なく沖縄の方に帰りました。中山王の方ではなかなかあきらめ切れず、家臣どもがいろいろと知恵をしぼり今度は何らかの方法で盗み取ろうではないかと計画を立てました。
それで今度は、若い知恵のある女をエラブ島にひそかに渡らせ、世の主がなしの奥方のお手伝(女中さん)さんとして住み込んで働いてもらうようにしました。女は住み込んでいるうちに名刀、喜美留なつくみの秘蔵場所を知ることができました。(床柱の裏側を掘り抜いて納めてあったとの説もある。)女中さんはこれをひそかに盗みとって沖縄の中山王の許に運んで渡しました。その頃沖縄では中山王、南山王、北山王と三つの国となり各王様は勢力争いをしており、中でも中山王の勢力が非常に強く、北山王もとうとうほろぼされてしまいました。(ここで不思議に思いますことは、エラブ世の主がなしの奥方は中山王の姫であるのにどうしてだろうかと、沖縄の歴史をよく調べて見ましたら奥方の産みの親は十年以前にほろぼされてしまい、別の中山王となっていたのです。)この事情をよく知っておられる世の主がなしは、自分は北山王の二男であるために中山王がいつこちらに攻めてくることかと毎日心配をされておりました。(正名部落の上の方の高台に、沖縄方面からくる軍船を見張りする番所があったそうです。現在でもその付近の土地名を番堂原と呼んでおります。)ちょうどその頃、沖縄の中山王から数艘の船が当地沖永良部島にやってきました。世の主がなしは、非常に心配されて早速家臣の屋者真三郎と、西見国内兵衛佐の二人を港へ急行させ、何の目的できたのか戦うための軍船か、敵か味方かを見てくるようにと命じました。そしてもし軍船ではなく仲直りの船であったら旗を高く揚げよ、もし戦う敵の軍船であったら旗を揚げずに大至急帰ってくるようにとの約束でした。(またある説では敵か味方かを、赤、白の旗で合図するようにとも言われています。)港へ急行した屋者真三郎と西見国内兵衛左は早速船の様子を見ながら船に乗り込み、二人はエラブ島の王さま、世の主がなしの使者であることを告げました。そうして要件を聞きますと、軍船ではなく仲直りのための使節船でしたので船の人々はこの二人を盛んにもてなしてくれました。二人は安心して飲み食いしましたのでとうとう酔っぱらってしまい約束の旗を揚げることをすっかりわすれてしまいました。一方、こちら城の方の世の主がなしは、港の方を見つめて旗の揚がるのを今か今かと待ちわびておりましたが一向に旗は揚がりません。これはてっきり敵の軍船に間違いない。二人ともすでに殺されたのだろう。小島を以って大国を敵にすることはとても無理だ。たのみとしていた宝刀の喜美留なつくみもすでに無く、これが最後だと直ちに奥方を始め城中の皆の者互いに差し違えて、無念の自殺を遂げられました(一四一六年)。この大騒動の中で長女五歳、長男三歳の乳母(子守)のマスガネはこの二人の王子を連れていそいで城から外に逃げられました。そして、西原部落のアガレ百の家に飛んでいき、しばしの難をのがれましたがちょうどその時西原部落下の海岸(港)には徳之島船が来ており早速、その船に乗り徳之島の方に避難なされました。(西原部落のアガレ百の家は現在もあります。)この事件でエラブ島を治める者が無くなりましたのでこれから後は中山王の領地となり、大屋役を置いてエラブ島を治めさせました。これでようやくエラブ島も落ちつきを取り戻して平和になりました。島の役人たちも徳之島にいらっしゃる二人の王子さまをエラブ島にお迎えしました。城の北方の小高い所に家を建てられ、その後中山王のお取立てによりその子孫も代々大屋役を勤められました。また、姉さんの方は王様の姫ですので嫁にもらう相手がなく一生独身でお過しになられましたそうです。世の主がなしの城跡は現在世の主神社となっております。その庭の高台に立って与和の海や、はるか東方の喜美留海岸を見渡したり、また城の周辺の谷間を眺めますと当時の様子がしみじみと思い浮びます。後蘭孫八の築城技術の偉大さも深く感じられます。世の主がなしの墓は神社から南西方向にありますがとてもりっぱなもので、如何にも王様のお墓であることが、また歴史の深さが身にしみて読みとれるような感じがします。
(『知名町瀬利覚に伝わる昔ばなし』)
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