平家もり ~琉球沖縄の伝説
みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第162話。
平家もり
奄美の喜界島まで逃げ延のびて、ナナジョーに城を構えた平資盛とその家臣達でしたが、絶えず源氏の幻影に怯え、追撃してくるのを見張る何人かを此処に残し、部隊の大半は広い長嶺近くに移動させ、ここに居を定めたといわれていいます。平家もりの西に続く一体は、平家の将兵が朝夕、武技の鍛錬に暇無く、また馬術の修練に努めた場所と伝えられています。この辺りは島の人里にも近く、平家もりも、手に取る近さの所です。また、もしも海上からやって来る敵を防ぐ場合には、海からは険しい坂になっているので好都合でした。平家の落人達は、自ら食物を作り、武技や馬術の稽古も怠ることなく、更に平家もりの構築にも全力をあげました。平家もりは、早町港から源氏が来襲した場合に備えた展望台であり、防戦に有利な防壁でした。また背後の台地との間の土砂を掘って、その土で盛り上げた小さい山ながら、頂上は台地で、見張りが立つと周囲を見渡すのに便利なように築かれていました。その上、後ろの掘り割りは、将兵が身を隠したり、防戦に都合よく設計されていたようです。一般にここを平家森とか、平家丘と記されますが、ここに木が植えられたのは明治四十一年旧正月が初めてと言われ、大正の初め頃、松の植林に成功して森が出来たことから、平家森と森の字を当てるのは誤りかもしれません。
平家もりは、その由来を考えると、土を盛って築き上げたと見られ、地理的に照らして、もりは盛の字を当てるのが妥当ですが、ここでは平家もりと表記します。
なお平家は、ここまでしても、枕を高くして寝られなかったようで、更に、小野津のヰンクルムイの北の斜面にある岩に穴をあけ、その穴から外に向かって矢を射られるように整えました。
何れにせよ、北から敵の海上からの侵入を厳重に見張ると共に、敵である源氏の襲来に備えていたと伝えられてきたそうな。
※この話の参考とした話
①柳田~「平家谷」
②奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~『喜界島古今物語』
Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.
●伝承地
①柳田~「平家谷」
②奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~ナナジョーに砦を構えた資盛主従は、源氏の追跡を見張るいくらかの人数を此処に残して、その大部隊は、地域の広い、長嶺近くに移動して、ここに、居を定めたのであろう? 平家もりの西方につづく童ヶ岡は、平家の将兵が、朝夕武技を練り、馬術の修練につとめた趾だと伝えられている。人里にも近く、平家もりも手に取るような所だ。また、海上から来る敵を防ぐには、険しい坂になっているので好都合である。平家の落人だちは、自ら、食物を作り、武技や馬術の稽古もしながら、平家もりの構築に全力をあげた事であろう? 平家もりは、早町港から来襲する敵に備えた望楼台であり、防戦に有利な防壁でもある。背後の台地との間の土を切り取って、もりあげた小さい山であるとも言えなくはないが、頂上は台地をなして、見張が立つのに便利に築かれている上に、後ろの掘り割りは将兵が隠れたり、防戦に都合のよいように設計されたと思われるのである。世人は平家森と書き、平家丘(ムイ)と記しているが、ここに、木を植えたのは、明治四十一年(一九〇八)旧正月が初めてで、大正の初め頃、松の植林に成功して森が出来たのである。従って、平家森と森の字をあてるのはどんなものであろう? 今まで述べて来たように、平家もりは、其の由来する所に鑑み、土盛して築きあげたと見られる地理的実相に照して、もりは盛の字が最も符合すると解するものであるが、敢て、平家もりと書くことにした。平家方は、それでも枕を高くして安らかに寝れなかったのか、更に、小野津のヰンクルムイの北方斜面にある岩に穴を穿ち、その穴から矢を射る構えを整えている。即ち、北方海上の見張りをすると共に、敵の襲撃に備えていたと伝えられる。(『喜界島古今物語』)
関連記事