平家もり ~琉球沖縄の伝説

横浜のトシ

2011年06月20日 20:20


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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第162話。


平家(へいけ)もり



 奄美(あまみ)喜界島(きかいじま)まで()()のびて、ナナジョー(七城)(しろ)(かま)えた平資盛(たいらのすけもり)とその家臣達(かしんたち)でしたが、()えず源氏(げんじ)幻影(げんえい)(おび)え、追撃(ついげき)してくるのを見張(みは)何人(なんにん)かを此処(ここ)(のこ)し、部隊(ぶたい)大半(たいはん)(ひろ)長嶺(ながみね)(ちか)くに移動(いどう)させ、ここに(きょ)(さだ)めたといわれていいます。平家(へいけ)もりの西(にし)(つづ)一体(いったい)は、平家(へいけ)将兵(しょうへい)朝夕(あさゆう)武技(ぶぎ)鍛錬(たんれん)暇無(いとまな)く、また馬術(ばじゅつ)修練(しゅうれん)(つと)めた場所(ばしょ)(つた)えられています。この(あた)りは(しま)人里(ひとざと)にも(ちか)く、平家(へいけ)もりも、()()(ちか)さの(ところ)です。また、もしも海上(かいじょう)からやって()(てき)(ふせ)場合(ばあい)には、(うみ)からは(けわ)しい(さか)になっているので好都合(こうつごう)でした。平家(へいけ)落人(おちうど)(たち)は、(みずか)食物(しょくもつ)(つく)り、武技(ぶぎ)馬術(ばじゅつ)稽古(けいこ)(おこた)ることなく、(さら)平家(へいけ)もりの構築(こうちく)にも全力(ぜんりょく)をあげました。平家(へいけ)もりは、早町(そうまち)(みなと)から源氏(げんじ)来襲(らいしゅう)した場合(ばあい)(そな)えた展望台(てんぼうだい)であり、防戦(ぼうせん)有利(ゆうり)防壁(ぼうへき)でした。また背後(はいご)台地(だいち)との(あいだ)土砂(どしゃ)()って、その(つち)()()げた(ちい)さい(やま)ながら、頂上(ちょうじょう)台地(だいち)で、見張(みは)りが()つと周囲(しゅうい)見渡(みわた)すのに便利(べんり)なように(きづ)かれていました。その(うえ)(うし)ろの()()りは、将兵(しょうへい)()(かく)したり、防戦(ぼうせん)都合(つごう)よく設計(せっけい)されていたようです。一般(いっぱん)にここを平家森(へいけもり)とか、平家(へいけ)(ムイ)(しる)されますが、ここに()()えられたのは明治四十一年(一九〇八)旧正月(きゅうしょうがつ)(はじ)めてと()われ、大正(たいしょう)(はじ)(ごろ)(まつ)植林(しょくりん)成功(せいこう)して(もり)出来(でき)たことから、平家森(へいけもり)(もり)()()てるのは(あやま)りかもしれません。
 平家(へいけ)もりは、その由来(ゆらい)(かんが)えると、(つち)()って(きづ)()げたと()られ、地理的(ちりてき)()らして、もりは(もり)()()てるのが妥当(だとう)ですが、ここでは平家(へいけ)もりと表記(ひょうき)します。
 なお平家(へいけ)は、ここまでしても、(まくら)(たか)くして()られなかったようで、(さら)に、小野津(おのづ)のヰンクルムイの(きた)斜面(しゃめん)にある(いわ)(あな)をあけ、その(あな)から(そと)()かって()()られるように(ととの)えました。
 (いづ)れにせよ、(きた)から(てき)海上(かいじょう)からの侵入(しんにゅう)厳重(げんじゅう)見張(みは)ると(とも)に、(てき)である源氏(げんじ)襲来(しゅうらい)(そな)えていたと(つた)えられてきたそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「平家谷」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~『喜界島古今物語』


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●伝承地
柳田~「平家谷」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~ナナジョーに砦を構えた資盛主従は、源氏の追跡を見張るいくらかの人数を此処に残して、その大部隊は、地域の広い、長嶺近くに移動して、ここに、居を定めたのであろう? 平家もりの西方につづく童ヶ岡は、平家の将兵が、朝夕武技を練り、馬術の修練につとめた趾だと伝えられている。人里にも近く、平家もりも手に取るような所だ。また、海上から来る敵を防ぐには、険しい坂になっているので好都合である。平家の落人だちは、自ら、食物を作り、武技や馬術の稽古もしながら、平家もりの構築に全力をあげた事であろう? 平家もりは、早町港から来襲する敵に備えた望楼台であり、防戦に有利な防壁でもある。背後の台地との間の土を切り取って、もりあげた小さい山であるとも言えなくはないが、頂上は台地をなして、見張が立つのに便利に築かれている上に、後ろの掘り割りは将兵が隠れたり、防戦に都合のよいように設計されたと思われるのである。世人は平家森と書き、平家丘(ムイ)と記しているが、ここに、木を植えたのは、明治四十一年(一九〇八)旧正月が初めてで、大正の初め頃、松の植林に成功して森が出来たのである。従って、平家森と森の字をあてるのはどんなものであろう? 今まで述べて来たように、平家もりは、其の由来する所に鑑み、土盛して築きあげたと見られる地理的実相に照して、もりは盛の字が最も符合すると解するものであるが、敢て、平家もりと書くことにした。平家方は、それでも枕を高くして安らかに寝れなかったのか、更に、小野津のヰンクルムイの北方斜面にある岩に穴を穿ち、その穴から矢を射る構えを整えている。即ち、北方海上の見張りをすると共に、敵の襲撃に備えていたと伝えられる。(『喜界島古今物語』)

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