ピンギヤマ ~琉球沖縄の伝説
みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第171話。
ピンギヤマ
古く琉球では、決まった洞窟や山林の後生と呼ばれる聖域に遺体を安置し、そこを共同の墓所にする風葬が広まっていきました。そしてやがて、亀甲墓や破風墓で遺体を安置し、風化した骨を後に親族が洗骨して骨壺に納める風葬が生まれ、更に地域によって独特な風習に変化を遂げていきました。
風葬時代に造られた墓、与論島のスーマ納骨洞は、死の庭という意の風葬墓です。この墓の上は、切り立った断崖絶壁で、その中腹に洞穴があり、そこへの上り下りは大変に困難を極めます。むかし昔のこと、この穴を、ピンギヤマが住み処としていたという話が、今に伝わっています。何故そこにピンギヤマが独り住みついたのかは、今となっては知るよしもありません。
ピンギヤマは、日が暮れて夜になると、近くの集落で盗みを働らいていました。そのため島の人々は、とても困っていたそうです。しかしながら、ピンギヤマが住む場所を誰ひとり知らなかったので、どうする事も出来ずにいました。
或る日のこと、ある漁夫が、ハミゴーの岸近くを舟で航行していた時、断崖の中腹にある洞穴と、そこから綱が吊り下がっているのを見付けました。洞穴には、きっとピンギヤマが住んでいるに違いないと思い、漁師は舟から降りて上陸し、何とかその綱を断ち切る事に成功したのでした。ピンギヤマは、為す術もなく、住み処である洞穴が墓になって、そこで最期を遂げたのでした。それは風葬時代以前の事のようです。
後に、島の或る者が洞穴に入ってみると、言い伝の通り穴の中には、ピンギヤマのものらしき骨の残骸がありました。そしてその時にこの洞穴が、風葬には最適である事に気付いたのでした。
こうして、ピンギヤマが居たこの洞穴は、人々の共同墓として使われるようになったものの、断崖は依然として険しく、また洞穴の中の通路が狭く、遺骸を運ぶには常に危険が伴いました。そのため、誤って下にあったシミー墓に、棺もろとも人が落ちる事も度々でした。そのためいつしか千人洞穴と呼ばれるようになったそうな。
※この話の参考とした話
①奄美・鹿児島県大島郡与論町~『与論島民話集』
Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.
●伝承地
①奄美・鹿児島県大島郡与論町~昔、風葬時代造られた墓、スーマ納骨洞(ジシ)が死庭と言う風葬墓である。墓の上は断崖絶壁で、其の中腹に洞穴があり、乗降難なところで、昔、ピンギヤマが住居としたと伝わっている。ピンギヤマは、その洞穴を根拠として夜になると、集落に窃盗(ヌスミ)を働らき島民は至極悩まされていました。けれど、誰独りとして、ピンギヤマの住居を知る者はいなかったので、どうする事も出来なく集落民は苦しんでいました。或日、漁夫がハミゴーの岸近くを航行中断崖につり下っている、ロープを見て泥棒のピンギヤマの住居に間違いないと、舟から降りてその命綱を断ち切りました。泥棒のピンギヤマは、どうすることもでぎなく、自分の住居である洞穴を後生(グショウ)の墓として人生の最期を遂げたと伝わっている。風葬時代のことで、或人が洞穴を発見して、洞穴にある人骨は、伝説にある如くピンギヤマの残骸であるとみなされ、この洞穴は、風葬墓として最適であるとして初められたという。ピンギヤマの居た洞穴の墓は、死体の棺を運ぶ時通路が狭い上、危険も甚だしいため間違って下のシミー墓に、棺と共に人が落ちる事が度々あった事から、千人洞穴(イヨー)と呼ばれている。(『与論島民話集』)
関連記事