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~琉球沖縄に伝わる民話~
新訳『球陽外卷・遺老說傳』第14話
牛町
遠い昔の時代より、那覇の西村に、一塊の石があって、縦置きの状態をしていました。
田舎の人で、牛を売ろうとする者は、必ずこの地にやって来ると牛をこの石に繋いで、そして売買をしました。
こういうわけでこの地を名付けて牛町と言います。
牛を繋ぐ石は、今日に到ってもなお存在しています。
※注や解説
【往昔】~過ぎ去った昔。大昔。往古。昔々。遙か昔。古。
【竪置】~「じゅち」。「堅」は「たつ」。「堅置」は、たておくこと。
【山野の人】~山や野原。野山。また、田舎。
【牛町】~「うしまち」。地名。那覇西邑にある。この一帯を俗に「牛町下り」という。『遺老説伝』が書かれた一七四五年頃の話で、現在の那覇に牛町の痕跡はなく、牛を繋いでいた石も不明。詳細は不明であるものの、戦前の西町に、「うしまちざかい」という小路があった事などが確認されている。十七世紀に入ると、那覇は首里の玄関口の港としての地位が確立し、周辺が次々と発展して、西村、東村、若狭町村、泉崎村からなる「那覇四町」が市街地として成立していった。また近くには久米村があり、「閩人三十六姓」、通称、久米三十六姓が、中国の福建省などからやって来て定住したこともあって、那覇四町と久米村を中心として、那覇は発展し続けた。
【牛】~現在の沖縄は、牛より豚のイメージが強い。本土の豚は、野生の猪を捕まえて家畜化したものなのか、飼育されていた豚が伝わったのかは、よくわかってはいない。それでも弥生時代、既に豚の食用が始まったことを示す骨が出土しているという。琉球では、死んだ人を食べる習慣が他の地域より遅くまで残り、琉球国家として、それを改めさせるために豚が輸入され、それから飼育されて食用になったともいわれている。なお一三八五年に渡来したとされる黒豚のアーグ(※アグーとも。島豚、シマウヮー)が最近、流行しているものの、以前から沖縄料理には豚が欠かせないほど重要な食材だったは、疑う余地のないところである。しかしながら、十七世紀以前の琉球は、豚ではなく、牛がその座を占めていた。この民話もそのことを裏付けているといえる。羽地朝秀、唐名、向象賢の改革によって、牛の食用に関して、しばらく禁止された時期がある。その後、冊封使節団を接待するため、王府によって足りない豚の大量生産が奨励された事があって、それを機に、以来琉球沖縄では、豚肉が牛肉に代わる存在となった。
※本土と内地、やまとんちゅとないちゃー~話がそれて余談になるが、本州は、北海道や沖縄からは「内地」と呼ばれてきた。また、北海道、本州、四国、九州、沖縄本島の五つの大きな島は、それらを除いた島から「本土」とも呼ばれてきた。その一方で、琉球や沖縄の人は、本州、四国、九州の人を、「大和の人」=「やまとんちゅ」と呼んできた。他に、馬鹿にしたり見下す時の「内地の人」=「ないちゃー」という言い方がある。誤った使い方をしている人と、意図的に使っている人など色々だが、いずれにせよ、まずは世界的に高度で美しい言語である日本語を正しく使うべきでる。知らず知らずのうちに、変な言葉遣いが、特に子ども達に擦り込まれないように気を配りたいところである。
【原文】自往昔時那覇西邑有一塊石以爲竪置山野之人要賣牛者必來此地而繋牛此石以爲買賣故名此地曰牛町繋牛之石至今猶存
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