伊敷索嶽の由来~新『球陽外卷・遺老說傳』第47話

横浜のトシ

2014年03月31日 11:40


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~琉球沖縄に伝わる民話~

新訳球陽外卷(きゅうようがいかん)遺老(いろうせつでん)』第47話

伊敷索(いしきなわ/いしきなは)(たき)由来(ゆらい)




 (とお)(むかし)時代(じだい)伊敷索(いしきなわ/いしきなは・)按司(あじ/あんじ/あず)という()(もの)がおりました。
 どういった(ひと)子孫(しそん)であるかは、よくわかっておりません。
 以前(いぜん)は、久米島(くめじま)(おさ)でした。
 そして按司(あじ/あんじ/あず)には、四(にん)()()まれ(そだ)ったと言われております。
 長男(ちょうなん)は、()兼城(かねぐすく/かにぐすぃく/かにぐすく・)大屋子(おおやこ/うふやこ/うふやくう/うふやくぅ/うぷやぐ)()い、以前(いぜん)から()兼城(かねぐすく/かにぐすぃく/かにぐす・く)(そん)(うらな)(さだ)めて()んでいました。(いま)久米島(くめじま・)御蔵(みくら)()です。
 次男(じなん)は、()仲城(なかぐす・く)按司(あじ/あんじ/あず)()い、以前(いぜん)から仲里(なかざと/なかざとぅ/なかじゃとぅ)(ぐすく)住居(じゅうきょ)としていました。
 三男(さんなん)は、()具志川(ぐしかわ/ぐしちゃー・)按司(あじ/あんじ/あず)()い、具志川(ぐしかわ/ぐしちゃー・)城主(じょうしゅ)でした。
 四男(よんなん)は、()笠末若茶良(がさすわかちゃら/がさしわかちゃら)()い、そして登武那覇(とんなは/とぅんなは)()()んでいました。
 その()ども(たち)(ちち)伊敷索(いしきなわ/いしきなは・)按司(あじ/あんじ/あず)は、中山國(ちゅうざんこく)久米島(くめじま)征伐(せいばつ)した(とき)結局(けっきょく・)官軍(かんぐん)によって(ほろぼ)されてしまいました。そして按司(あじ/あんじ/あず)は、伊敷索(いしきなわ/いしきなは・)(やま)(ほうむ)られました。
 後世(こうせい)(ひと)は、この(やま)(とうと/たっと)んで信仰(しんこう)し、神嶽(かみだけ/かみたけ/しんごく)としました。
 なお、この御嶽(うたき)には、三柱(みはしら)(かみ)がおいでになります。
 一柱(ひとはしら)は、久米島世主伊部(くめのよのぬしいべ)と、一柱(ひとはしら)は、阿武来指笠伊部(あふらいさすかさいべ/あぶきさしかさいべ)と、一柱(ひとはしら)は、豊添之君伊部(とよむすのきみいべ/とよそえのきみいべ)(もう)します。



 
※注や解説

往昔(おうせき)】~()()った(むかし)大昔(おおむかし)往古(おうこ)昔々(むかしむかし)(はる)(むかし)(いにしえ)
伊敷索(いしきなは/ちはな/いしきなわ)按司(あじ)】~伝承(でんしょう)では、英祖(えいそ)王統(おうとう)代目(だいめ)玉城(たまぐすく)按司(あじ)(めかけ)()とされ、久米島(くめじま)()(あた)えられてこのグスクを(きづ)いたとされる。仲城(なかぐすく・)按司(あじ)長男(ちょうなん)(つた)わるがここでは第二子(だいにし)とあり、明国(みんこく)留学(りゅうがく)した兼城(かねぐすく)大屋子(おおやこ)第一子(だいいっし)か。なお、()(かん)しては資料(しりょう)により(おお)きく二つに()かれ不明(ふめい)(てん)(おお)い。『具志川間切旧記』(一七〇三年)によると、長男(ちょうなん)は仲城(仲里城)按司、次男(じなん)は具志川按司、長女(ちょうじょ)は兼城大屋子の(つま)次女(じじょ)は照真の(つま)腹違(はらちが)いの三男(さんなん)は笠末若茶良で、(はは)は粟国島出身(しゅっしん)とある。また『琉球国由来記』(一七一三年)では、伊敷索按司には四子があり、それぞれが兼城村の屋敷、宇江城、具志川城・登武那覇城を拠点(きょてん)として各地(かくち)統治(とうち)していたが、尚眞王(しょうしんのう)による久米島征伐(くめじませいばつ)(ほろ)ぼされたとある。
伊敷索(いしきなは/いしきなわ)】~「イシキナヮ」。いちちなは、いしちなは、(など)とも。
按司(あじ/あんじ/あず)】~琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)における称号(しょうごう)位階(いかい)の一つ。王族(おうぞく)にあっては、第二尚氏(だいに・しょうし)時代(じだい)には、王族(おうぞく)のうち、王子(おうじ)(つぎ)(くらい)となり、実際(じっさい)のところ、王子(おうじ)や、按司(あじ/あんじ/あず)(いえ)()長男(ちょうなん)嗣子(しし)がなり、(したが)って按司(あじ/あんじ/あず)()国王家(こくおうけ)分家(ぶんけ)相当(そうとう)した。その(ほか)に「按司(あじ/あんじ/あず)」は、王妃(おうひ)未婚(みこん)王女(おうじょ)王子妃(おうじひ)などに「加那志(がなし)」という敬称(けいしょう)一緒(いっしょ)について「按司加那志(あじ・がなし)(など)とも()ばれた。またそれ以前(いぜん)時代(じだい)は、(おう)称号(しょうごう)として(もち)いられたり、また(ふる)くからの王家(おうけ)重臣(じゅうしん)にも按司(あじ)がよく(もち)いられた。琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)成立(せいりつ)するより(まえ)では、地方(ちほう)(おさ)める(おう)や、その王族(おうぞく)男子(だんし)、また重臣(じゅうしん)称号(しょうごう)として按司(あじ)(もち)いられ、また(おう)(たい)する諸侯(しょこう)()としても(もち)いられた。「按司」は、「アジ、アンジ、アズ」(など)発音(はつおん)され、琉球(りゅうきゅう)諸島(しょとう)各地(かくち)方言(ほうげん)(したが)って変化(へんか)した。(たと)えば、沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)南部(なんぶ)発音(はつおん)は「アジ」で、先島(さきしま)地方(ちほう)では「アズ」。なお、「アジ」は「(あるじ)」からの転訛(てんか)であるとされ伊波普猷(いはふゆう)(せつ)、よって漢字(かんじ)「按司」は()()とされる。
何人(なんびと/なんぴと)】~「なにびと」が音変化(おんへんか)したもの。いかなる(ひと)、どういう(ひと)何者(なにもの)、の()
後裔(こうえい)】~子孫(しそん)後胤(こういん)
(かつ)て】~(むかし)以前(いぜん)(まえ)に。
(おさ/をさ/ちょう)】~(おお)くの(ひと)(うえ)()って統率(とうそつ)する(ひと)(かしら)
(しこう/しか)して】~「(しかく)して」「(しか)して」から(てん)じたもの。漢文(かんぶん)訓読(くんどく)(もち)いられた()。そうして、それに(くわ)えて、の()
兼城(かねぐすく/かにぐすぃく/かにぐすく)】~人名(じんめい)
大屋子(おおやこ/うふやこ/うふやくう/うふやくぅ/うぷやぐ)】~「第42話」の注を参照。
兼城(かねぐすく/かにぐすぃく/かにぐすく)(そん)】~久米島(くめじま)具志川(ぐしちゃー・)間切(まぎり)兼城(かねぐすく/かにぐすぃく/かにぐす・く)(そん)。「兼城(かねぐすく)」の以前(いぜん)発音(はつおん)は、「かにぐすぃく」「かにぐすく」など。
(ぼく)して】~(うらな)って、(うらな)って(さだ)めて、判断(はんだん)して(さだ)めて、の()
栖居(せいきょ)】~()む。「栖」も「居」も、()む、の()
(すなは)ち】~「(すなは)ち」、「(すなは)ち」とも。現代仮名遣(げんだいかなづか)いでは「すなわち」。()いかえれば。つまり。とりもなおさず。まさしく。その(とき)は。そうすれば。その(とき)(むかし)。あの(ころ)当時(とうじ)()ぐに。たちまち。もう。(すで)に。
久米島(くめじま)御蔵(みくら)】~久米島(くめじま)蔵元(くらもと)のこと。蔵元(くらもと)とは、沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)番所(ばんしょ)にあたるもので、地方行政(ちほうぎょうせい)(つかさど)役所(やくしょ)
仲城(なかぐすく・)按司(あじ/あんじ/あず)】~人名(じんめい)久米(くめ)仲城(なかぐすく・)按司(あじ/あんじ/あず)とも。伊敷索(ちなは)按司の長男で、琉球で最も高い場所に宇江城(うえぐすく)を築いたが、尚眞王に滅ぼされた。
仲里(なかざと/なかざとぅ/なかじゃとぅ・)(ぐすく)】~十五から十七世紀(せいき)中頃(なかごろ)までは「久米(くめ)中城(なかぐすく)」と()ばれ、『由来記(ゆらいき)』には、康煕(こうき)(ねん)(一六六七)に、中城(なかぐすく・)(じょう/ぐすく)仲里(なかざと/なかざとぅ/なかじゃとぅ・)(ぐすく)宇江城(うえぐすく/うぃーぐすぃく/うぃーぐしく・)(じょう/ぐすく)改称(かいしょう)したとあり、また間切名(まぎりめい)同時(どうじ)改称(かいしょう)したとある。
具志川(ぐしかわ/ぐしちゃー・)按司(あじ/あんじ/あず)】~人名(じんめい)
笠末若茶良(がさすわかちゃら/がさしわかちゃら)】~「ガサスワカチャラ」人名(じんめい)
登武那覇(とんなは/とぅんなは)】~地名(ちめい)
中山(ちゅうざん)】~三山(さんざん)時代(じだい)(くに)の一つ。
(つい)に】~「(つい)に」「(つい)に」とも。とうとう。しまいに。結局(けっきょく)。また(「(つい)ぞ」に(おな)じ)(いま)まで一度(いちど)も。(いま)(かつ)て。(いま)までに一度(いちど)も。
官軍(かんぐん)】~君主(くんしゅ)(ぞく)する正規(せいき)(ぐん)のこと。大和(やまと)においては天皇(てんのう)朝廷(ちょうてい)政府側(せいふがわ)軍隊(ぐんたい)()す。
伊敷索(いしきなわ/いしきなは)(やま)】~(やま)()
後人(こうじん)】~(のち)(ひと)後世(こうせい)(ひと)
尊信(そんしん)】~(とうと/たっと)んで信頼(しんらい)すること。また、(とうと/たっと)んで信仰(しんこう)すること。
神嶽(かみだけ/かみたけ/しんごく)】~「第20話」の注を参照。
(たき/たけ)】~「御嶽(うたき)」、「神嶽(かみだけ/かみたけ/しんごく)」に(おな)じ。
(しん)】~(かみ)。なお(かみ)(かぞ)(かた)は「(はしら)」。
久米島世主伊部(くめのよのぬしいべ)】~「クメノヨノヌシイベ」。神名(しんめい/じんみょう/かみな/かむな)
阿武来指笠伊部(あふらいさすかさいべ/あぶきさしかさいべ)】~「アフライサスカサイベ」。神名(しんめい/じんみょう/かみな/かむな)
豊添之君伊部(とよむすのきみいべ/とよそえのきみいべ)】~「トヨムスノキミイベ」。神名(しんめい/じんみょう/かみな/かむな)
【原文】~往昔之世有伊敷索按司者不知何人後裔也嘗爲久米島長而生育四子長名曰兼城大屋子嘗卜地兼城村而栖居焉即今久米島御藏之地也次名曰仲城按司嘗築仲里城而住居焉三名曰具志川按司嘗爲具志川城主也四名曰笠未若茶良嘗住居于登武那覇地其父伊敷索按司者中山征伐久米島時竟爲官軍所滅而葬之于伊敷索山後人尊信之爲神嶽嶽有三神一曰久米世主伊部一曰阿武來指笠伊部一曰豐添之君伊部


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