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~琉球沖縄に伝わる民話~
新訳『球陽外卷・遺老說傳』第19話
指帰橋
遠い昔の時代、小さな橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。
そして木食い虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。
近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。
この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々な船が、ここに到着して停泊していました。
そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。
そんなわけでその橋を名付けて
「指帰橋」といいます。
※注や解説
【往昔】~過ぎ去った昔。大昔。往古。昔々。遙か昔。古。
【杠】~小橋。
【邑】~「邑」の字は、もともと古代中国の都市国家を示し、転じて、地方都市、集落を表すようになった漢字。琉球国は、長く中国の冊封体制に組み込まれてきた影響で、慣例として漢字の音読みが多いのが特徴的。地名や姓名など。沖縄の「邑」=「村」もまた、その慣例から、すべて「そん」と発音。
【茶湯崎】~地名。以前の発音は「ちゃなざち/ちゃなじゃち」など。茶湯崎邑とは、那覇市とかつて合併した真和志市にあり、真和志地区の松川村のこと。俗な古い名称に「指回」があり、明治三十六年十月、沖縄土地整理事業完了の際、松川と改称された。「指帰橋」は、首里の儀保や、山川を水源とする真嘉比川と、首里の崎山や、金城の周辺を水源とする金城川とが合流して、安里川の本流となる、首里坂下に架設された橋。当初の木橋は、近世になって石橋に改築。現在は坂下上り口の元国道の暗渠に昔の名残りを留めているという。(※暗渠とは、地下に埋設、あるいは地表にあっても蓋をした導水路。閉水路とも。排水、下水、用水などに利用)。明治末年刊行の『大日本地名辞書』第八巻にこうあるという。「差回橋は、首里坂下安里川の支流に架す。昔は、諸島の貢船、川をさかのぼりて来り泊り、満潮を待ってかえりし故に名づくとぞ、今の茶湯崎という云云」と。
【然り而して】~そして。そこで。
【蛀】~木食い虫。
【爛せられ】~損ない、破られて。
【屢次】~度重なること。たびたび。しばしば。
【修葺】~修繕すること。
【輔臣】~中国の、天子を補佐する臣。
【此の時】~この橋をかけた時代。
【海潮】~海の水。海水。うしお。
【江】~川。大きな川。※個人的には「江」を「みなと」と解釈しない。
【湾泊】~停泊する。
【而して】~「而して」「而して」から転じたもの。漢文訓読に用いられた語。そうして、それに加えて、の意。
【渓水】~「谿水」とも。谷川の水。谷川。
【指帰橋】~橋の名。さしかえしのある場所の橋→「さしけーしばし」→「さしかえしばし」。那覇市松川二丁目。茶湯崎橋の通称が「指帰橋」ともいわれている。茶湯崎橋は、真嘉比川に架けられ、王国時代から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋だった。木造だった頃は何度か架け直され、その頃のことは位置も含めてよくわかっていない。従って茶湯崎橋と指帰橋」が同じなのかは、はっきりしていないところがある。
【真和志】~以前の発音は「まーじ」など。真和志、沖縄県那覇市中央部の一地区とされてきた。かつては真和志間切。一九〇八年四月、島尻郡真和志村に。一九五三年十月、真和志市に。一九五七年十二月、那覇市に編入合併。
【松川村】~以前の発音は「まつぃがー/まちがー」など。松川村。
【首里】~以前の発音は「すい/しゅい」など。
【儀保】~以前の発音は「じーぶ」など。
【山川】~以前の発音は「やまがー」など。
【真嘉比川】~安里川の支川。支川とは、本川と合流する川
【崎山】~以前の発音は「さちやま/ひちゃま」など。
【金城】~以前の発音は「かなぐすぃく/かなぐしく」など。
【金城川】~以前の発音は「かなぐしくがーら」。
【原文~□は欠字】】往昔之世設杠此地(在茶湯崎邑西自首里往那覇大路)人民往還然而爲蟲蛀所爛屡次修葺不堪其憂至于近世□王令輔臣築石爲橋此時海潮出入水深江廣而北山諸船到此灣泊而海水漲來有爲溪水被歸因名其橋曰指歸橋
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