木田大時の死~新・琉球民話・口碑伝説集第12話

横浜のトシ

2015年11月18日 20:20


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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第12話


木田大時(むくたうふとぅち)()



 むかし、玉城間切(たまぐすくまぎり)前川(まえがわ)に、木田大時(むくたうふとぅち)という占師(うらないし)がおりました。
 ある時、王子(おうじ)が病気になり、御側役人達(おそばやくにんたち)は相談の上、木田(むくた)に見て(もら)うことにしました。
 木田は、王子(おうじ)(みゃく)をとりながら言うことには、
 「国々の按司(あじ)が、(いく)さに()()れています。その罪滅(つみほろ)ぼしの祈願(きがん)をすれば、ご病気はきっと(なお)ります。」と。
 そこで、早速(さっそく)願立(がんだ)てをしたところ、(たちま)王子(おうじ)の病気は(なお)ったのでした。
 それから木田(むくた)は、王からも人々からも尊敬(そんけい)(あつ)め、首里に邸宅(ていたく)(あた)えられ、大時(とぅち)(※吉凶占(きっきょううらな)いの(しょく)の役人の(くらい)まで(さず)かりました。
 ところが木田(むくた)出世(しゅっせ)(ねた)んだ医師達が、王に色々な讒言(ざんげん)散々(さんざん)()()み、木田(むくた)神通力(じんずうりき)(いつわ)りなので(ため)した方がよいと、度々(たびたび)進言(しんげん)したのでした。
 そして木田(むくた)は王の元に呼び出されたのでした。
 それから、(ねずみ)一匹(いっぴき)、箱に入れられて(うらな)わせたところ、木田(むくた)は自信に()ちた声で、三匹と、答えました。
 (おどろ)いた王は、間違(まちが)いないかと(ねん)を押し、間違(まちが)えば(くび)()ねるとまで言いましたが、木田(むくた)(まった)(どう)じません。
 王は、今まで目に()けてきた信頼(しんらい)をすっかり裏切(うらぎ)られたと、すっかり機嫌(きげん)(そこ)ね、木田に死の宣告(せんこく)を言い渡したのでした。
 木田(むくた)()ぐさまその場で(とら)えられ、刑場(けいじょう)へ引き立てられて行きました。
 ところがいくらも()たないうちに、(うらな)いに使った(ねずみ)が二匹の子鼠(こねずみ)を生んだのです。
 側近(そっきん)からこの報告を受けた王は飛び上がらんばかり驚き、(あわ)てて死刑の取り()めの早馬(はやうま)()てましたが、()に合わず、(すで)木田(むくた)は、この世の人ではありませんでした。
 (ひど)く悲しみ、(おのれ)(あやま)ちを()やんだ王は、木田(むくた)に「時之大屋子(ときのおおやこ/とぅちぬうふやく)」という(くらい)(さず)けると共に、王家(おうけ)以外の者は(ほうむ)らないと決められている玉陵(たまうどん)の中央の部屋に、木田(むくた)遺骸(いがい)が入った厨子甕(ずしがめ)安置(あんち)すると、(ねんご)ろに(まつ)ったとのことです。

 
※注や解説

玉城間切(たまぐすくまぎり)】~玉城の以前の発音は「たまぐすぃく/たまぐしく」など。
前川(まえがわ)】~前川村。前川の以前の発音は「めーがー」など。
願立(がんだ)て】~神仏に願をかけること。願かけ。立願(りゅうがん)
讒言(ざんげん)】~事実を曲げたり、ありもしない事柄(ことがら)を作り上げ、その人のことを目上の人や位が高い人に悪く告げ口すること。
神通力(じんずうりき)】~じんつうりき、とも。超人的な能力。通力(つうりき)
刑場(けいじょう)】~死刑を執行(しっこう)する場所。
※【木田(むくた/もくた・)大時(うふとぅち)拝所(うがんじゅ)】~童名(どうみょう)は「仁王」。南城市(なんじょうし)(※旧玉城村)の玉城前川(まえがわ)集落に小さな拝所(うがんじゅ)がある。ここに玉城筑登之仁王(たまぐすくちくどぅんにおう)という人物の屋敷跡(やしきあと)があり、木田大時(むくたうふとぅち)が王府に(つと)めるまで生まれ育った屋敷とされる。彼は、幼い頃からセジが高いシジダカサンで(※セジとは、琉球沖縄の伝承における霊力、霊威のこと。それが強い人をセジ高い=シジダカサンという)、中でも予知能力に優れていた。成人してからは、(さら)に自分の腕を(みが)くため、前川村の大道(うふどう)という所に住んでいた小波津親雲上(こはつぺーちん)という風水師から、風水と天文を学んだといわれている。木谷には妻子が無く、死後、木田の遺体(いたい)は、従兄弟の屋号内間が引き取ることになっていたのを、尚眞王が()いたため、また(のろ)いを避けるため、玉陵(たまうどぅん)(ほうむ)ったともされている。玉陵(たまうどぅん)の墓室は、三つに分かれ、中央の中室(ちゅうしつ)は、洗骨(せんこつ)前まで遺骨(いこつ)安置(あんち)する部屋。創建(そうけん)された当初(とうしょ)、東室には、洗骨後の「王」と「王妃」が(ほうむ)られ、西室には、墓前(ぼぜん)の庭の玉陵碑に記された、限られた家族だけが葬られた。そして確かに、尚圓王(しょうえんおう)(※尚円王)(ほうむ)られている立派なイシジーシ(※石厨子/石棺)と同じ素晴らしい彫刻が(ほどこ)されたイシジーシが、たった一つだけ、本来は洗骨(せんこつ)をするまで遺体を葬る場所である筈の中室(ちゅうしつ)に、何故(なぜ)か昔から残されている。言い伝えでは、これが木田大時のものといわれているが、真意(しんい)のほどはわかっていない。なお、先の戦争時、近くの山川陵の遺骨は全て玉陵(たまうどぅん)に移されたという。(なお)、今でも木田大時の子孫と言われる、本家の玉城村字前川の内間家をはじめ、内間家の子孫の沖縄市字小禄の上原家(※屋号:いりがーしむ)、その分家である那覇市牧志の嘉数家(※屋号:うまい)等に、この話は伝承(でんしょう)され、四月に行われる清明祭(しーみーさい)と、旧暦の七夕に、一族は玉陵を拝んでいるという。伝わるいくつかの話は、鼠の数が、三匹、五匹と話により異なるが、身重(みおも)で、子鼠(こねずみ)を生んで数が増える点は同じ。
(うふ)(とぅち/トキ)】~「(トキ)」を『沖縄大百科事典』で引くと、元々は古琉球時代、神事などの日を選ぶ男だったとある。やがて、日選びするだけではなく人の吉凶禍福を占い、祭祀のときの呪詞なども扱ったと考えられる。そして「トキ」は、首里王府の官制の中に組み入れられ、一時期、公的呪術師として、「時之大屋子(ときのおおやこ/とぅちぬうふやく)」と呼ばれた。王府の下級役人で、日や時刻を占う者の長であり、無学ながら才能ある百姓(ひゃくせい)(※一般の民間人のこと)から任命され、時之大屋子の下にはさらに複数の公的呪術師が仕えていたという。



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