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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第12話
木田大時の死
むかし、玉城間切前川に、木田大時という占師がおりました。
ある時、王子が病気になり、御側役人達は相談の上、木田に見て貰うことにしました。
木田は、王子の脈をとりながら言うことには、
「国々の按司が、戦さに明け暮れています。その罪滅ぼしの祈願をすれば、ご病気はきっと治ります。」と。
そこで、早速願立てをしたところ、忽ち王子の病気は治ったのでした。
それから木田は、王からも人々からも尊敬を集め、首里に邸宅を与えられ、大時(※吉凶占いの職)の役人の位まで授かりました。
ところが木田の出世を嫉んだ医師達が、王に色々な讒言を散々吹き込み、木田の神通力は偽りなので試した方がよいと、度々、進言したのでした。
そして木田は王の元に呼び出されたのでした。
それから、鼠が一匹、箱に入れられて占わせたところ、木田は自信に満ちた声で、三匹と、答えました。
驚いた王は、間違いないかと念を押し、間違えば首を刎ねるとまで言いましたが、木田は全く動じません。
王は、今まで目に掛けてきた信頼をすっかり裏切られたと、すっかり機嫌を損ね、木田に死の宣告を言い渡したのでした。
木田は直ぐさまその場で捕えられ、刑場へ引き立てられて行きました。
ところがいくらも経たないうちに、占いに使った鼠が二匹の子鼠を生んだのです。
側近からこの報告を受けた王は飛び上がらんばかり驚き、慌てて死刑の取り止めの早馬を立てましたが、間に合わず、既に木田は、この世の人ではありませんでした。
酷く悲しみ、己の過ちを悔やんだ王は、木田に「時之大屋子」という位を授けると共に、王家以外の者は葬らないと決められている玉陵の中央の部屋に、木田の遺骸が入った厨子甕を安置すると、懇ろに祀ったとのことです。
※注や解説
【玉城間切】~玉城の以前の発音は「たまぐすぃく/たまぐしく」など。
【前川】~前川村。前川の以前の発音は「めーがー」など。
【願立て】~神仏に願をかけること。願かけ。立願。
【讒言】~事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げ、その人のことを目上の人や位が高い人に悪く告げ口すること。
【神通力】~じんつうりき、とも。超人的な能力。通力。
【刑場】~死刑を執行する場所。
※【木田大時拝所】~童名は「仁王」。南城市(※旧玉城村)の玉城前川集落に小さな拝所がある。ここに玉城筑登之仁王という人物の屋敷跡があり、木田大時が王府に勤めるまで生まれ育った屋敷とされる。彼は、幼い頃からセジが高いシジダカサンで(※セジとは、琉球沖縄の伝承における霊力、霊威のこと。それが強い人をセジ高い=シジダカサンという)、中でも予知能力に優れていた。成人してからは、更に自分の腕を磨くため、前川村の大道という所に住んでいた小波津親雲上という風水師から、風水と天文を学んだといわれている。木谷には妻子が無く、死後、木田の遺体は、従兄弟の屋号内間が引き取ることになっていたのを、尚眞王が悔いたため、また呪いを避けるため、玉陵に葬ったともされている。玉陵の墓室は、三つに分かれ、中央の中室は、洗骨前まで遺骨を安置する部屋。創建された当初、東室には、洗骨後の「王」と「王妃」が葬られ、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記された、限られた家族だけが葬られた。そして確かに、尚圓王(※尚円王)が葬られている立派なイシジーシ(※石厨子/石棺)と同じ素晴らしい彫刻が施されたイシジーシが、たった一つだけ、本来は洗骨をするまで遺体を葬る場所である筈の中室に、何故か昔から残されている。言い伝えでは、これが木田大時のものといわれているが、真意のほどはわかっていない。なお、先の戦争時、近くの山川陵の遺骨は全て玉陵に移されたという。尚、今でも木田大時の子孫と言われる、本家の玉城村字前川の内間家をはじめ、内間家の子孫の沖縄市字小禄の上原家(※屋号:いりがーしむ)、その分家である那覇市牧志の嘉数家(※屋号:うまい)等に、この話は伝承され、四月に行われる清明祭と、旧暦の七夕に、一族は玉陵を拝んでいるという。伝わるいくつかの話は、鼠の数が、三匹、五匹と話により異なるが、身重で、子鼠を生んで数が増える点は同じ。
【大時】~「時」を『沖縄大百科事典』で引くと、元々は古琉球時代、神事などの日を選ぶ男だったとある。やがて、日選びするだけではなく人の吉凶禍福を占い、祭祀のときの呪詞なども扱ったと考えられる。そして「トキ」は、首里王府の官制の中に組み入れられ、一時期、公的呪術師として、「時之大屋子」と呼ばれた。王府の下級役人で、日や時刻を占う者の長であり、無学ながら才能ある百姓(※一般の民間人のこと)から任命され、時之大屋子の下にはさらに複数の公的呪術師が仕えていたという。
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