渡嘉敷ペークーと王~新・琉球民話・口碑伝説集第32話

横浜のtoshi

2015年12月11日 20:21


みんなで楽しもう!
~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第32話


渡嘉敷(とかしち)ペークーと(おお)



 尚敬王(ょうけいおう)の時代、首里の赤田に、渡嘉敷ペークーという、少し風変(ふうが)わりな人がおりました。
 これがなかなかの風流人(ふうりゅうじん)で、また滑稽(こっけい)を楽しみ、頓智(とんち)(ひい)で、また無欲(むよく)人物(じんぶつ)でした。
 また、()は是、()は非として、歯に(ころも)()せずに言ってのけることができる人で、首里王府の、官僚(かんりょう)役人達(やくにんたち)は、内心(ないしん)では、いつも渡嘉敷ペークの言葉に、びくびくしていたところがあるとも言われています。
 ペークーが、あまりに(まず)しい生活をしていたのを、ある時に王が同情され、米を一俵(いっぴょう)、下さったことがありました。
 ()(うま)を連れてやって来たペークーは、その(たわら)を、(くら)の片方に積もうとしました。ところが馬は、横倒(よこだお)しに(たお)れてしまいました。それを再三(さいさん)()り返しているのを、たまたま通りかかって御覧(ごらん)になった王は、もう一俵(いっぴょう)(くだ)さいました。米を左右に積んだペークーは、悠々(ゆうゆう)と、帰って行きました。
 また、王とペークーが、馳け馬(かけうま)の競争をした時がありました。ぺークーは、自分の馬の尻尾(しっぽ)餌草(えさぐさ)を結びつけたため、王はどんなに自分の馬に(むち)をあてても、ぺークーの馬の(しり)ばかり追います。王は見事(みごと)、ペークーの頓智(とんち)に負けてしまいました。
 ところで王は、何時(いつ)でも、家臣達にお辞儀(じぎ)ばかりさせているので、ペークーは、今度は王に、お辞儀(じぎ)をさせて見せようと、ある日、考えました。
 そこで、茅葺(かやぶき)掘立小屋(ほったてごや)である自分の家に、王をお(まね)きする事にしました。
 王が、ぺークーの家に入ろうとしたところ、門の鴨居(かもい)が低いため、どうしても中で待っているペークーに頭を下げなければなりません。それに気づいた王は、苦笑(くしょう)するしかありませんでした。
 その(ほか)にも、五代の琉球王に仕えた渡嘉敷ペークーの逸話(いつわ)の数々が、後世(こうせい)にまで語り()がれてきました。

 
※注や解説

尚敬王(しょうけいおう)】1700~1752年(在位:1713~1752年)。琉球第2尚氏王朝第13代国王。蔡温(さいおん)三司官(さんしかん)にして、多くの改革を行った。
渡嘉敷(とかしち/とかしちゃ)ペークー】~ぺークーの父兼倫(けんりん)渡嘉敷親雲上(とかしちぺーちん)(※「御右筆主取(うゆうひつぬしどり)」(文書係)と「謡取調役(うたいとりしらべやく)」)。その三男。童名は思亀、和名は。乾隆七年(西暦一七四二年)七月二日生まれ。道光十四年(一八三七年)、九十五才で亡くなる。その間、尚敬王、尚穆王、尚温王、尚成王、尚灝王、尚育王の六代の王に仕えたが、九十三才の時、ペークーは地頭収益(じとうしゅうえき)(ともな)わない北谷間切(ちゃたんまぎり)真栄城(まえしろ)の名島となり、名を、真栄城に改めた。なお、このペークーという人は、二十七歳から七年間、薩摩で、和文、和歌、剣道、書道、茶道、生花などを修行し、琉球に帰って花当職(はなあたいしょく)(※花畑管理職)()て、尚敬王の世子(せいし)(※跡継ぎ、世継ぎ)、尚哲公(※中城王子/後の尚穆王(しょうぼくおう)右筆(ゆうひつ)となる。しかしペークーは、なかなかの役職にありながら、自分では清貧(せいひん)の生活を好み、自分の貧乏で人を笑わせることが、屡々(しばしば)あったと言われている。
首里(しゅり)】~首里の以前の発音は「しゅい/すい」など。
赤田(あかた)】~首里の南風之平(ふぇーぬひら)赤田村。


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.

関連記事