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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第32話
渡嘉敷ペークーと王
尚敬王の時代、首里の赤田に、渡嘉敷ペークーという、少し風変わりな人がおりました。
これがなかなかの風流人で、また滑稽を楽しみ、頓智に秀で、また無欲な人物でした。
また、是は是、非は非として、歯に衣を着せずに言ってのけることができる人で、首里王府の、官僚や役人達は、内心では、いつも渡嘉敷ペークの言葉に、びくびくしていたところがあるとも言われています。
ペークーが、あまりに貧しい生活をしていたのを、ある時に王が同情され、米を一俵、下さったことがありました。
痩せ馬を連れてやって来たペークーは、その俵を、鞍の片方に積もうとしました。ところが馬は、横倒しに倒れてしまいました。それを再三、繰り返しているのを、たまたま通りかかって御覧になった王は、もう一俵下さいました。米を左右に積んだペークーは、悠々と、帰って行きました。
また、王とペークーが、馳け馬の競争をした時がありました。ぺークーは、自分の馬の尻尾に餌草を結びつけたため、王はどんなに自分の馬に鞭をあてても、ぺークーの馬の尻ばかり追います。王は見事、ペークーの頓智に負けてしまいました。
ところで王は、何時でも、家臣達にお辞儀ばかりさせているので、ペークーは、今度は王に、お辞儀をさせて見せようと、ある日、考えました。
そこで、茅葺の掘立小屋である自分の家に、王をお招きする事にしました。
王が、ぺークーの家に入ろうとしたところ、門の鴨居が低いため、どうしても中で待っているペークーに頭を下げなければなりません。それに気づいた王は、苦笑するしかありませんでした。
その他にも、五代の琉球王に仕えた渡嘉敷ペークーの逸話の数々が、後世にまで語り継がれてきました。
※注や解説
【尚敬王】1700~1752年(在位:1713~1752年)。琉球第2尚氏王朝第13代国王。蔡温を三司官にして、多くの改革を行った。
【渡嘉敷ペークー】~ぺークーの父兼倫は渡嘉敷親雲上(※「御右筆主取」(文書係)と「謡取調役」)。その三男。童名は思亀、和名は。乾隆七年(西暦一七四二年)七月二日生まれ。道光十四年(一八三七年)、九十五才で亡くなる。その間、尚敬王、尚穆王、尚温王、尚成王、尚灝王、尚育王の六代の王に仕えたが、九十三才の時、ペークーは地頭収益を伴わない北谷間切の真栄城の名島となり、名を、真栄城に改めた。なお、このペークーという人は、二十七歳から七年間、薩摩で、和文、和歌、剣道、書道、茶道、生花などを修行し、琉球に帰って花当職(※花畑管理職)を経て、尚敬王の世子(※跡継ぎ、世継ぎ)、尚哲公(※中城王子/後の尚穆王)の右筆となる。しかしペークーは、なかなかの役職にありながら、自分では清貧の生活を好み、自分の貧乏で人を笑わせることが、屡々あったと言われている。
【首里】~首里の以前の発音は「しゅい/すい」など。
【赤田】~首里の南風之平赤田村。
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