京阿波根と治金丸~新・琉球民話・口碑伝説集第35話

横浜のトシ

2015年12月14日 20:20


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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第35話


京阿波根(きょうあはごん)治金丸(ちがねまる)



 嘉靖元年(西暦一五二二年)尚眞王(しょうしんおう)の時代、宮古島から一振(ひとふ)りの宝剣(ほうけん)が王に献上(けんじょう)されました。
 この刀は王の守刀(まもりがたな)として、宝剣(ほうけん)治金丸(ちがねまる)銘名(めいめい)され、阿波根親方実基(あはごんうぇーかたじっき)(たく)されて、京の(きょうのみやこ)でその鑑定(かんてい)をさせることになりました。
 京の都で()()鑑定(かんてい)させたところ、その刀は偽物(にせもの)とすり()えられてしまいました。
 そうとは知らずに、阿波根(あはごん)偽物(にせもの)を琉球に持ち帰ったところ、王妃(おうひ)がそれが偽物(にせもの)であるのを見破(みやぶ)り、王は阿波根(あはごん)()ぐさま、京の都に行かせました。
 三年という月日を()て、大変な苦心(くしん)(すえ)に、阿波根(あはごん)治金丸(ちがねまる)を取り返して来ました。
 王は(こと)(ほか)お喜びになって、沢山(たくさん)褒美(ほうび)を与えました。
 ところで阿波根(あはごん)は、またの名を京阿波根(きょうあはごん)と言い、元々、武勇(ぶゆう)(ひい)でた(すぐ)れた人物であっただけに、その名声(めいせい)嫉妬(しっと)する者もいて、王に讒言(ざんげん)をする者もいましたが、取り上げられませんでした。
 ある日のこと、城中(じょうちゅう)の茶の間で、一人の小姓(こしょう)が、阿波根(あはごん)(すき)を見て匕首(あいくち)()し、致命的(ちめいてき)(きず)()わせました。しかし阿波根(あはごん)もまた逆にその小姓(こしょう)(また)素手(すで)で二つに()()き、そのまま城外に出たところで、最早(もはや)、これまでと自刃(じじん)し、最期を()げました。
 これを悲しんだ聞得大君加那志(ちふぃうふじんがなし)は、(ねんご)ろに、城外のその場所に石囲(いしがこ)いして、(ほうむ)ったそうです。
 それが京阿波根塚(きょうあはごんづか)と言い伝えられているものです。

 
※注や解説

京阿波根(きょうあはごん)】~京阿波根実基(きょうあはごんじっき)阿波根親方実基(あはごんうぇーかたじっき)とも。唐名(からな)虞建極(ぐけんきょく)位階(いかい)は親雲上(ぺーちん、又は、ぺーくーみー)とも。阿波根(あはごん)地頭職(じとうしょく)(にん)にあったが、この話にちなんで「京」を冠して京阿波根(きょうあはごん)とも呼ばれる。正式な呼び方は、虞建極・京阿波根親雲上実基。生没年(せいぼつねん)不詳(ふしょう)。琉球國時代、十六世紀前半の武術家。手(※琉球沖縄の武術)元祖(がんそ)ともされている人物であり、それは様々(さまざま)文献上(ぶんけんじょう)に記録があるためで、琉球沖縄の素手(すで)格闘術の武術家としては最古の人物である(※資料としては、『琉球國由来記』、『琉球國旧記』、『球陽』。その他、新しいところでは『上勢頭誌』、『琉球祖先宝鑑』、『琉球千草之巻』はじめ、『沖縄大百科事典』にも記載がある)。「治金丸」を鑑定、ないしは研ぐために京へ渡航したのは、嘉靖年間(1522~1566年)のこと。首里城での暗殺の様子は、『球陽』の記述では「建極、手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」とあり、京阿波根が、「空手」でもって暗殺者の童子の両股(りょうもも)を折った様子が記されている。琉球での「童子」とは少年の意で、二十歳あたりまでをも含む。この「空手」の読みは、「からて」、「くうしゅ」、「くうて」のいずれの読みであるかは不明。特にここでの「空手」が後の空手(からて)と伝系的に繋がるのかも不明で、佐久川寛賀が19世紀初頭に唐手(とうで)を琉球にもたらす以前の、素手(すで)格闘術を述べたものとして注目されてきた。
親方(うぇーかた)】~この作品では親方(うぇーかた)という位になっており、琉球國の称号の一つ。王族の下に位置し、琉球士族(しぞく)の最高の称号(しょうごう)であり、国政の要職(ようしょく)についた。親方は世襲(せしゅう)でなく、功績(こうせき)ある士族が(たまわ)るもので、親方(うぇーかた)の子が親方(うぇーかた)になるわけではなかった。
治金丸(ちがねまる)】~琉球沖縄の民話に出てくる有名な宝刀(ほうとう)の一つ。ある農家の男が、つまみ食いする子どもを(いまし)めようと、包丁(ほうちょう)()り下ろす仕種(しぐさ)をした途端(とたん)に、()れてもいないのに子どもの首が落ちた。その話を聞いて調べにきた役人の前で、男は事情(じじょう)を話し、そこで今度(こんど)は牛で(ため)してみたところが、同じく首が落ちた。その包丁(ほうちょう)は首里城に届けられ、王がこれを刀に打ち直させ、宝刀(ほうとう)としたのが治金丸(ちがねまる)であるという言い伝えが残っている。実際に、琉球王尚家(しょうけ)に伝わっていた治金丸という宝剣が現存(げんぞん)し、これは大永二(一五二二)年に、宮古の仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)が尚真王に献上(けんじょう)した日本刀の小刀(こがたな)
一振り(ひとふり)】~刀の数え方は「ひとふり、ふたふり・・・・・・」。漢字「振」か「口」を当てる。
守刀(まもりがたな)】~守り刀。身を守るため、いつも身につけている短刀。護身刀。
()()】~磨師(とぎし)研師(とぎし)砥師(とぎし)。主に、日本刀(にほんとうのけんま)研磨(けんま)する職業。(ほか)刃物(はもの)研磨(けんま)の場合と異なる部分が多いとされ、刃物(はもの)砥師(とぎし)兼業(けんぎょう)することが少なく、逆に日本刀の砥師(とぎし)が他の刃物を()ぐことも(ほとん)どなく、独立した分野の職業だった。また、他の刃物(はもの)研磨(けんま)が、切れ味が悪くなった物を()ぎ直す事が一番の目的なのに対して、日本刀の研磨は、刃を()けて()れるようにすることを前提(ぜんてい)としつつも、(さら)にそこから作業を進めて刀身(とうしん)地鉄(じがね)刃文(はもん)見所(みどころ)がよく見えるように引き出すために()ぐのが主要(しゅよう)目的(もくてき)だった。刀剣がもつ、美的、芸術的要素を引き出す事を最終の目的とする所に、日本刀研磨(けんま)の本質があり、琉球でもかなり古くから日本刀が登場した。
讒言(ざんげん)】~事実を曲げ、ありもしない事柄(ことがら)を作り上げ、その人のことを目上の人や、(くらい)の高い人に悪く言うこと。
匕首(あいくち/ひしゅ)】~合口。つばのない短刀。
自刃(じじん)】~物で自分の生命を絶つこと。よくはわかっていないが、阿波根の名声が高まり、無私にして剛直な性格が災いして讒言(ざんげん)に遭い、そして首里城内で暗殺されかかったとされている。その後、素手の格闘家は戦いに勝ち、そのまま城外に出て、自刃(じじん)するという筋は、しっくりこない。特に外に出た理由や、自刃(じじん)する理由が考え(にく)い。伝わる話によっては、自刃(じじん)という表記がないものもある。
聞得大君加那志(ちふぃじんがなし/ちふぃうふじんがなし)】~「聞得大君(ちふぃじん/ちふぃうじん/ちふぃうふじん/きこえのおおきみ/きこえおおぎみ)」とは、琉球信仰における神女の最高位の呼称。「聞得大君」の意味は「最も名高い神女」の意。宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」「てだしろ」。琉球國における神女は、単なる神職ではなく、国家体制を支える重要な役目を担っていたばかりか、実際には、大名のような扱いであった。
京阿波根塚(きょうあはごんづか)】~かつてあった中山門(ちゅうざんもん)近くに、京阿波根塚(きょうあはごんづか)という御嶽(うたき)があり、伝承(でんしょう)では阿波根の(つか)と言われている。首里城(すいぐすく/しゅりじょう)から守礼門(しゅれいもん)を通って玉陵(たまうどぅん)に向けての道が綾門大道(あやじょううふみち)と呼ばれ、かつては終点に中山門(ちゅうざんもん)があった。その場所の南に、美連嶽(みんちらうたき/めずらだき/めずらだけ)(※美連塚)京阿波根塚(きょうあはごんづか)がある。この場所は後方にかつて真和志森(まわしむい)と言う森があり、『真壁大あむしられ』が管理した。美連塚の真後ろに京阿波根塚がある。そもそも、首里城内での暗殺となると穏やかな話ではなく、阿波根と王との関係が実際にはどうであったのか、この話における関係をそのまま鵜呑みには出来ない。なお、真和志森(まわしむい)の東に小さな丘があり、ここに「君恋嶽」がある(※『琉球国由来記』には「キミコイシ嶽」とある)。この嶽は一説に、尚真王の妹で聞得大君の地位にあった「おとちとのもい金」(※「おもろ」で「つききよら」と(うた)われた女君)の館があった地で、京阿波根を守護した「女君神」とは、現人神としてのこの「つききよら」ではないかと東恩納寛惇は『南島風土記 首里条』で述べている。王家の女君同士の争いが見え隠れし、更に京阿波根がそれに関わってたとすると、伝わる話の辻褄が合う点も少ないない(※偽物を王妃が見破った点や聞得大君が塚を葬った点やその場所など。)


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