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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第35話
京阿波根と治金丸
嘉靖元年(西暦一五二二年)、尚眞王の時代、宮古島から一振りの宝剣が王に献上されました。
この刀は王の守刀として、宝剣治金丸と銘名され、阿波根親方実基に托されて、京の都でその鑑定をさせることになりました。
京の都で磨ぎ師に鑑定させたところ、その刀は偽物とすり替えられてしまいました。
そうとは知らずに、阿波根が偽物を琉球に持ち帰ったところ、王妃がそれが偽物であるのを見破り、王は阿波根を直ぐさま、京の都に行かせました。
三年という月日を経て、大変な苦心の末に、阿波根は治金丸を取り返して来ました。
王は殊の外お喜びになって、沢山の褒美を与えました。
ところで阿波根は、またの名を京阿波根と言い、元々、武勇に秀でた優れた人物であっただけに、その名声を嫉妬する者もいて、王に讒言をする者もいましたが、取り上げられませんでした。
ある日のこと、城中の茶の間で、一人の小姓が、阿波根の隙を見て匕首で刺し、致命的な傷を負わせました。しかし阿波根もまた逆にその小姓の股を素手で二つに斬り裂き、そのまま城外に出たところで、最早、これまでと自刃し、最期を遂げました。
これを悲しんだ聞得大君加那志は、懇ろに、城外のその場所に石囲いして、葬ったそうです。
それが京阿波根塚と言い伝えられているものです。
※注や解説
【京阿波根】~京阿波根実基、阿波根親方実基とも。唐名は虞建極。位階は親雲上(ぺーちん、又は、ぺーくーみー)とも。阿波根地頭職の任にあったが、この話にちなんで「京」を冠して京阿波根とも呼ばれる。正式な呼び方は、虞建極・京阿波根親雲上実基。生没年は不詳。琉球國時代、十六世紀前半の武術家。手(※琉球沖縄の武術)の元祖ともされている人物であり、それは様々な文献上に記録があるためで、琉球沖縄の素手格闘術の武術家としては最古の人物である(※資料としては、『琉球國由来記』、『琉球國旧記』、『球陽』。その他、新しいところでは『上勢頭誌』、『琉球祖先宝鑑』、『琉球千草之巻』はじめ、『沖縄大百科事典』にも記載がある)。「治金丸」を鑑定、ないしは研ぐために京へ渡航したのは、嘉靖年間(1522~1566年)のこと。首里城での暗殺の様子は、『球陽』の記述では「建極、手に寸鉄無く、但空手を以て童子の両股を折破し」とあり、京阿波根が、「空手」でもって暗殺者の童子の両股を折った様子が記されている。琉球での「童子」とは少年の意で、二十歳あたりまでをも含む。この「空手」の読みは、「からて」、「くうしゅ」、「くうて」のいずれの読みであるかは不明。特にここでの「空手」が後の空手と伝系的に繋がるのかも不明で、佐久川寛賀が19世紀初頭に唐手を琉球にもたらす以前の、素手格闘術を述べたものとして注目されてきた。
【親方】~この作品では親方という位になっており、琉球國の称号の一つ。王族の下に位置し、琉球士族の最高の称号であり、国政の要職についた。親方は世襲でなく、功績ある士族が賜るもので、親方の子が親方になるわけではなかった。
【治金丸】~琉球沖縄の民話に出てくる有名な宝刀の一つ。ある農家の男が、つまみ食いする子どもを戒めようと、包丁で振り下ろす仕種をした途端に、触れてもいないのに子どもの首が落ちた。その話を聞いて調べにきた役人の前で、男は事情を話し、そこで今度は牛で試してみたところが、同じく首が落ちた。その包丁は首里城に届けられ、王がこれを刀に打ち直させ、宝刀としたのが治金丸であるという言い伝えが残っている。実際に、琉球王尚家に伝わっていた治金丸という宝剣が現存し、これは大永二(一五二二)年に、宮古の仲宗根豊見親が尚真王に献上した日本刀の小刀。
【一振り】~刀の数え方は「ひとふり、ふたふり・・・・・・」。漢字「振」か「口」を当てる。
【守刀】~守り刀。身を守るため、いつも身につけている短刀。護身刀。
【磨ぎ師】~磨師。研師。砥師。主に、日本刀を研磨する職業。他の刃物の研磨の場合と異なる部分が多いとされ、刃物の砥師が兼業することが少なく、逆に日本刀の砥師が他の刃物を砥ぐことも殆どなく、独立した分野の職業だった。また、他の刃物の研磨が、切れ味が悪くなった物を砥ぎ直す事が一番の目的なのに対して、日本刀の研磨は、刃を付けて斬れるようにすることを前提としつつも、更にそこから作業を進めて刀身の地鉄、刃文の見所がよく見えるように引き出すために砥ぐのが主要な目的だった。刀剣がもつ、美的、芸術的要素を引き出す事を最終の目的とする所に、日本刀研磨の本質があり、琉球でもかなり古くから日本刀が登場した。
【讒言】~事実を曲げ、ありもしない事柄を作り上げ、その人のことを目上の人や、位の高い人に悪く言うこと。
【匕首】~合口。つばのない短刀。
【自刃】~物で自分の生命を絶つこと。よくはわかっていないが、阿波根の名声が高まり、無私にして剛直な性格が災いして讒言に遭い、そして首里城内で暗殺されかかったとされている。その後、素手の格闘家は戦いに勝ち、そのまま城外に出て、自刃するという筋は、しっくりこない。特に外に出た理由や、自刃する理由が考え難い。伝わる話によっては、自刃という表記がないものもある。
【聞得大君加那志】~「聞得大君」とは、琉球信仰における神女の最高位の呼称。「聞得大君」の意味は「最も名高い神女」の意。宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」「てだしろ」。琉球國における神女は、単なる神職ではなく、国家体制を支える重要な役目を担っていたばかりか、実際には、大名のような扱いであった。
【京阿波根塚】~かつてあった中山門近くに、京阿波根塚という御嶽があり、伝承では阿波根の塚と言われている。首里城から守礼門を通って玉陵に向けての道が綾門大道と呼ばれ、かつては終点に中山門があった。その場所の南に、美連嶽(※美連塚)と京阿波根塚がある。この場所は後方にかつて真和志森と言う森があり、『真壁大あむしられ』が管理した。美連塚の真後ろに京阿波根塚がある。そもそも、首里城内での暗殺となると穏やかな話ではなく、阿波根と王との関係が実際にはどうであったのか、この話における関係をそのまま鵜呑みには出来ない。なお、真和志森の東に小さな丘があり、ここに「君恋嶽」がある(※『琉球国由来記』には「キミコイシ嶽」とある)。この嶽は一説に、尚真王の妹で聞得大君の地位にあった「おとちとのもい金」(※「おもろ」で「つききよら」と謳われた女君)の館があった地で、京阿波根を守護した「女君神」とは、現人神としてのこの「つききよら」ではないかと東恩納寛惇は『南島風土記 首里条』で述べている。王家の女君同士の争いが見え隠れし、更に京阿波根がそれに関わってたとすると、伝わる話の辻褄が合う点も少ないない(※偽物を王妃が見破った点や聞得大君が塚を葬った点やその場所など。)。
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