酒氏天久の賞~新・琉球民話・口碑伝説集第34話

横浜のトシ

2015年12月13日 20:20


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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第34話


酒氏天久の賞



 琉球沖縄では、(うじ)(※つまり門中(もんちゅう)の数が)七九一あるなどと言われています。その中に酒氏あります。
 その(むかし)、大変に酒好きの酒氏天久(あみく/あめく)筑登之(ちくどぅん)親雲上(ぺーちん)親孝(しんこう)という人がいたそうです。今となってはいつの時代の人かよくわかりませんが、天久(あみく)は、とても酒好きの上に社交的な人物で、誰からも(したし)まれる人でした。
 ある日のこと、祭事(さいじ)のため家臣達(かしんたち)が王の前でお酒を飲んでいた時のことです。天久(あみく)の酒の飲みっぷりと饒舌(じょうぜつ)な話しぶりが、王の目に()まりました。
 王が笑いながら言うことには、
 「天久(あみく)、お前の酒の()いっぷりは天下一だが、一体(いったい)おぬしは、どれぐらい酒が飲めるのか。」と。
 (こた)えて言うことには、
 「はい、御主加那志前(うしゅがなしーめー)。私、自分の酒だとそうは飲めないのですが、何故(なぜ)か人の酒だと不思議なことに、(びん)の底の酒がなくなるまで飲めるのです。」と。
 一寸(ちょっと)(いぶか)しげに天久(あみく)の顔を見て苦笑(にがわら)いしながら王が言うことには、
 「此奴(こやつ)めが。」と。
 続いて、一座(いちざ)の者達も大笑いしました。
 「酒喰(さきくえー)天久(あみく)。お前は実に面白い。何か所望(しょもう)する物があれば言ってみよ。」と。
 「はい。そう言えば私には、たった一つだけ願いがございます。酒のよい飲み方が出来るよう、後々(のちのち)()まで子孫に伝えたく、『酒氏』という名を(いただ)きとうございます。」と。
 そう(もう)し上げたところ、その(うじ)を王から(もら)う事になり、意気揚々(いきようよう)満足(まんぞく)げに酒宴(しゅえん)から家に帰っていったそうです。

 
※注や解説

門中(もんちゅう/むんちゅう/むんちゅー)】~琉球王家の血統では、「向」が姓、「(ちょう)」が名乗り頭(※名の最初の一字)である。琉球時代に中国から伝来し、「ハラ」とも言い、琉球方言では「むんちゅう」と発音。あくまで数少ない決まった士族の場合のみ、共通の姓、名乗り頭を持った。本土でいう同族に似た始祖(しそ)を共通にする父系の血縁親族集団。十七世紀以降は、琉球王府の士族(しぞく)階層(かいそう)を中心に、沖縄本島の中南部で発達し、北部や周辺離島に広がった。門中は、ムートゥ(※宗家)と、ユダチ、ユダファと呼ばれる分家(ぶんけ)により成り立つ。門中の性格は、地域的な偏差(かくさ)も大きく、門中一つひとつの差もまた大きい。共有(きょうゆう)の門中(ばか)維持(いじ)管理(かんり)し、「おこで/オコデ(※門中の神人(かみんちゅ)」などを中心として、様々な先祖祭祀(さいし)を行う。琉球王府の崩壊後、特に明治以降の門中は、士族以外の人々にまで急速に門中が広がり、父系血縁(しじ)による継承(けいしょう)(つらぬ)こうとする志向(しこう)が強くなるとともに、養子を取る場合も養子同門制の原則に固執(こしつ)し始める。元々、家系継承(かけいけいしょう)の上での禁忌(きんき)(※タブー)を、琉球王府時代は(もう)けていた。また、中国の血縁集団である宗祖(しゅうそ)と、その宗祖の在り方を真似(まね)て、儒教的(じゅきょうてき)規範(きはん)により琉球王府の王族や士族の中で門中制度を厳格(げんかく)に成り立たせ、「同姓(どうせい)(めと)らず」「異姓(いせい)養わず」などといった禁忌(きんき)(※タブー)があった。これが後々、「タチーマジクイ(※他系混交(たけいこんこう)」「チャッチウシクミ(※長子(ちゃくし)不相続)」「チョーデーカサバイ(※兄弟重合(じゅうごう)」などといったものに変貌(へんぼう)してゆくことになった。(ただ)し、そもそも琉球王府が門中を創った理由や意味は、「儒教(じゅきょう)」を国家運営(こっかうんえい)指導理念(しどうりねん)とし、士族(しぞく)階級の者達に、教育を通してその規範(きはん)浸透(しんとう)させるためにそもそも門中を(つく)った。そして、士族に対して「氏」を大切にさせ、長子(ちょうし(ちゃくし)(※嫡子(ちゃくし)長男(ちょうなん)から長子へと家系が継承(けいしょう)されることを中心にした整然(せいぜん)とした家譜(かふ)(※系図)により士族社会を管理し、士族以外の人々(※百姓(ひゃくせい)/姓=氏を持たぬ一般の人々)との差別化を徹底(てってい)させる制度を創り上げた。とはいうものの、琉球王府が、家系継承(けいしょう)原則(げんそく)厳密(げんみつ)に守ろうとすれば、多くの家系が断絶(だんぜつ)してしまう事になりかねない場合もあった(※例えば、後継(あとつ)ぎがいない場合、子どもが女子ばかり(など)。それでは功績(こうせき)があった家臣(かしん)家系(かけい)を琉球王府の原則によって(つぶ)してしまうことになり、それは王府の望むところではなかった。そこで王府は原則を守りながらも、時に柔軟(じゅうなん)に対応した。具体的には、娘に婿(むこ)をとる、娘の子を養子にとるなど、王府の評定所(ひょうじょうじょ)の名のもとに(ゆる)した。「チョーデーカサバイ」も世系図(せいけいず)様式(ようしき)を変えることにより解決した。やがて琉球国が無くなった明治以降の門中は、琉球沖縄の全ての人々のものへと変化し、遺産相続という「財産問題」へと深く結びつくことによって、禁忌(きんき)は現在のように動かしがたいもの、教条的なものに変質し、強固(きょうこ)になっていく。あくまでそれは琉球国が崩壊(ほうかい)した明治時代以降から現代に到る百数十年余りの短期間に起こったことである。かつて琉球沖縄の士族の人々は、亡くなれば共同の一族の墓である門中墓、亀甲(カーミーヌクー)墓や破風(ファーフー)墓に入った。それだけに門中の結束(けっそく)(かた)かった。それが明治時代の門中は、元来、長子以外の男子や女性を極端に差別する制度であった点、長子に甘やかされて無能が多かった点、長子以外の男子や女性を極端に差別する制度であった点、歴史的に門中に苦しめられてきた人々が多かった点、時代の流れによる人々の意識の変貌(へんぼう)した点、そして(つい)に戦後のアメリカ統治(とうち)によって、琉球沖縄の人々の門中意識が急速に(うす)まり、あるいは、以前とは全く別物の門中に変わってしまった。それは同時にまた、昔からの門中の理念が忘れ去られ、守られなくなりことを意味し、結果的に、行事や形式といった表面的なものだけが残ることとなった。また近年の人々の中には門中墓に入る事を()ける傾向が強くなり、個人の「屋形墓(やかたばか/やーぐぁばか)」が急速に増加するようになった。そのために、以前は増えなかった墓が、近年、爆発的に数を増し、墓が大きい事もあって社会問題になっている。なお、かつて琉球沖縄では、悪い行いをすると墓に入ってから先祖に(しか)られるといった儒教的な言い回しや考えが生活の中や人生観に深く浸透(しんとう)」していたという。それが今や消えつつあり、また、先祖代々親から子へと伝わってきた様々な正しい教えや、そして民話もまた消えつつある。もちろんそれは沖縄だけでなく日本全国の現象といえる。
筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)】~筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)は、琉球國の位階(いかい)の称号。琉球の位階(りゅうきゅうのいかい)とは、沖縄本島を中心に存在した琉球國の身分序列(じょれつ)。筑登之親雲上は、位階としては従七品で、領地(※采地)を有しない(※位階(りゅうきゅうのいかい)については「琉球沖縄の身分制『位階』について」を参照のこと)


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