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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第34話
酒氏天久の賞
琉球沖縄では、氏(※つまり門中の数が)七九一あるなどと言われています。その中に酒氏あります。
その昔、大変に酒好きの酒氏天久筑登之親雲上親孝という人がいたそうです。今となってはいつの時代の人かよくわかりませんが、天久は、とても酒好きの上に社交的な人物で、誰からも親まれる人でした。
ある日のこと、祭事のため家臣達が王の前でお酒を飲んでいた時のことです。天久の酒の飲みっぷりと饒舌な話しぶりが、王の目に止まりました。
王が笑いながら言うことには、
「天久、お前の酒の酔いっぷりは天下一だが、一体おぬしは、どれぐらい酒が飲めるのか。」と。
応えて言うことには、
「はい、御主加那志前。私、自分の酒だとそうは飲めないのですが、何故か人の酒だと不思議なことに、瓶の底の酒がなくなるまで飲めるのです。」と。
一寸、訝しげに天久の顔を見て苦笑いしながら王が言うことには、
「此奴めが。」と。
続いて、一座の者達も大笑いしました。
「酒喰天久。お前は実に面白い。何か所望する物があれば言ってみよ。」と。
「はい。そう言えば私には、たった一つだけ願いがございます。酒のよい飲み方が出来るよう、後々の世まで子孫に伝えたく、『酒氏』という名を頂きとうございます。」と。
そう申し上げたところ、その氏を王から貰う事になり、意気揚々と満足げに酒宴から家に帰っていったそうです。
※注や解説
【門中】~琉球王家の血統では、「向」が姓、「朝」が名乗り頭(※名の最初の一字)である。琉球時代に中国から伝来し、「ハラ」とも言い、琉球方言では「むんちゅう」と発音。あくまで数少ない決まった士族の場合のみ、共通の姓、名乗り頭を持った。本土でいう同族に似た始祖を共通にする父系の血縁親族集団。十七世紀以降は、琉球王府の士族階層を中心に、沖縄本島の中南部で発達し、北部や周辺離島に広がった。門中は、ムートゥ(※宗家)と、ユダチ、ユダファと呼ばれる分家により成り立つ。門中の性格は、地域的な偏差も大きく、門中一つひとつの差もまた大きい。共有の門中墓を維持管理し、「おこで/オコデ(※門中の神人)」などを中心として、様々な先祖祭祀を行う。琉球王府の崩壊後、特に明治以降の門中は、士族以外の人々にまで急速に門中が広がり、父系血縁による継承を貫こうとする志向が強くなるとともに、養子を取る場合も養子同門制の原則に固執し始める。元々、家系継承の上での禁忌(※タブー)を、琉球王府時代は設けていた。また、中国の血縁集団である宗祖と、その宗祖の在り方を真似て、儒教的規範により琉球王府の王族や士族の中で門中制度を厳格に成り立たせ、「同姓娶らず」「異姓養わず」などといった禁忌(※タブー)があった。これが後々、「タチーマジクイ(※他系混交)」「チャッチウシクミ(※長子不相続)」「チョーデーカサバイ(※兄弟重合)」などといったものに変貌してゆくことになった。但し、そもそも琉球王府が門中を創った理由や意味は、「儒教」を国家運営の指導理念とし、士族階級の者達に、教育を通してその規範を浸透させるためにそもそも門中を創った。そして、士族に対して「氏」を大切にさせ、長子(※嫡子ちゃくし/長男ちょうなん)から長子へと家系が継承けいしょうされることを中心にした整然せいぜんとした家譜かふ(※系図)により士族社会を管理し、士族以外の人々(※百姓ひゃくせい/姓=氏を持たぬ一般の人々)との差別化を徹底てっていさせる制度を創り上げた。とはいうものの、琉球王府が、家系継承けいしょうの原則げんそくを厳密げんみつに守ろうとすれば、多くの家系が断絶だんぜつしてしまう事になりかねない場合もあった(※例えば、後継あとつぎがいない場合、子どもが女子ばかり等など)。それでは功績こうせきがあった家臣かしんの家系かけいを琉球王府の原則によって潰つぶしてしまうことになり、それは王府の望むところではなかった。そこで王府は原則を守りながらも、時に柔軟じゅうなんに対応した。具体的には、娘に婿むこをとる、娘の子を養子にとるなど、王府の評定所ひょうじょうじょの名のもとに許ゆるした。「チョーデーカサバイ」も世系図せいけいずの様式ようしきを変えることにより解決した。やがて琉球国が無くなった明治以降の門中は、琉球沖縄の全ての人々のものへと変化し、遺産相続という「財産問題」へと深く結びつくことによって、禁忌きんきは現在のように動かしがたいもの、教条的なものに変質し、強固きょうこになっていく。あくまでそれは琉球国が崩壊ほうかいした明治時代以降から現代に到る百数十年余りの短期間に起こったことである。かつて琉球沖縄の士族の人々は、亡くなれば共同の一族の墓である門中墓、亀甲カーミーヌクー墓や破風ファーフー墓に入った。それだけに門中の結束けっそくが固かたかった。それが明治時代の門中は、元来、長子以外の男子や女性を極端に差別する制度であった点、長子に甘やかされて無能が多かった点、長子以外の男子や女性を極端に差別する制度であった点、歴史的に門中に苦しめられてきた人々が多かった点、時代の流れによる人々の意識の変貌へんぼうした点、そして遂ついに戦後のアメリカ統治とうちによって、琉球沖縄の人々の門中意識が急速に薄うすまり、あるいは、以前とは全く別物の門中に変わってしまった。それは同時にまた、昔からの門中の理念が忘れ去られ、守られなくなりことを意味し、結果的に、行事や形式といった表面的なものだけが残ることとなった。また近年の人々の中には門中墓に入る事を避さける傾向が強くなり、個人の「屋形墓やかたばか/やーぐぁばか」が急速に増加するようになった。そのために、以前は増えなかった墓が、近年、爆発的に数を増し、墓が大きい事もあって社会問題になっている。なお、かつて琉球沖縄では、悪い行いをすると墓に入ってから先祖に叱しかられるといった儒教的な言い回しや考えが生活の中や人生観に深く浸透しんとう」していたという。それが今や消えつつあり、また、先祖代々親から子へと伝わってきた様々な正しい教えや、そして民話もまた消えつつある。もちろんそれは沖縄だけでなく日本全国の現象といえる。
【筑登之親雲上ちくどぅんぺーちん】~筑登之親雲上ちくどぅんぺーちんは、琉球國の位階いかいの称号。琉球の位階りゅうきゅうのいかいとは、沖縄本島を中心に存在した琉球國の身分序列じょれつ。筑登之親雲上は、位階としては従七品で、領地(※采地)を有しない(※位階りゅうきゅうのいかいについては「琉球沖縄の身分制『位階』について」を参照のこと)。
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