大頭我那覇の忠義~新・琉球民話・口碑伝説集第36話

横浜のトシ

2015年12月15日 20:20


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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第36話・最終回


大頭我那覇(うふちぶるがなは)忠義(ちゅうぎ)



 万暦三十三年(西暦一六〇五年)徳川家康(とくがわいえやす)が、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、豊臣家(とよとみけ)()わって天下を治めた頃、薩摩(さつま)藩の島津義久(しまづよしひさ)(こう)は、琉球から来ていた報恩寺(ほうおんじ)の僧に天下の形勢(けいせい)(さと)して、尚寧王(しょうねいおう)家康公(いえやすこう)是非(ぜひ)とも謁見(えっけん)すべきだと(すす)めました。
 王はそれを聞いて迷いながらも、何もしないで曖昧(あいまい)にしていると、再び義久(よしひさ)から直々(じきじき)に使者が来て、そのことを強く要請(ようせい)してきました。その時の内容は、駿府(すんぷ)に行って謁見(えっけん)しないと、薩摩(さつま)藩は琉球に艦隊を差し向けざるを得ない事態になるであろうという、厳しい内容でした。
 時に、那覇の人で、唐名(からな)、牛助春、我那覇秀昌(がなはしゅうしょう)(※又の名を島我那覇(しまがなは)という人がいました。
 この、島津の要請(ようせい)の前年、五島平戸(ごとうひらど)(※長崎県)漂着(ひょうちゃく)し、藩主(はんしゅ)松浦氏から薩摩(さつま)に送られた時、前藩主、島津忠恒(ただつね)公がからかって言うことには、
 「()は琉球を()とうと思うので、其方(そのほう)が案内を(いた)せ。」と。
 我那覇(がなは)憤然(ふんぜん)として言うことには、
 「その国に生まれながら、他国の軍を(みちび)いて自分の国を()つなど、不忠(ふちゅう)(はなはだ)しい。死んでも、そんな事など出来るものではありません。」と。
 そう言って、きっぱり断ったのでした。それでも忠恒(ただつね)は、あの手この手で、再三、頼んでみたものの、我那覇(がなは)は、
 「かかる道理(どうり)薩摩(さつま)にはあっても、我が国、琉球に他国を攻めるなどという考えは、全くございません。」と言い切って、(がん)として気持ちは動きません。
 この一貫(いっかん)した我那覇(がなは)の態度に一目置(いちもくお)いた忠恒(ただつね)は、その忠義(ちゅうぎ)心はお()めになりました。
 そして、家臣の島壱岐之助に、大頭我那覇(うふちぶるがなは)を琉球に連れて行かせることにし、また三司官(さんしかん)名護良豊(なごりょうほう)(あて)書付(かきつけ)と共に、琉球に向かわせたのでした。
 それは薩摩(さつま)と琉球の関係が良好だった、薩摩(さつま)の琉球侵攻の、五年前のことでした。
 なお島我那覇(しまがなは)には、こんな逸話(いつわ)もあります。
 かつて豊臣秀吉公が太閤(たいこう)の時代、琉球の使者として島我那覇(しまがなは)謁見(えっけん)した際、秀吉はその(ハチマキ)が大きいことに驚き、島我那覇(しまがなは)にそれを借りて(かぶ)って見たところが耳まですっぽりと入ってしまい、
 「さてさて、天下一の大頭(おおあたま)かな。」と言って大笑いしたという話も伝わっています。

 
※注や解説

徳川家康(とくがわいえやす)】一五四二~一六一六年。江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川氏の祖。本姓は、先に藤原氏、次いで源氏と名乗る。家系は、三河国の国人土豪・松平氏。一五六七年に勅許(ちょっきょ)()て徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)】~征夷大将軍は、朝廷の令外官(りょうげのかん)の一つ。蝦夷(えぞ)征討(せいとう)する偉大(いだい)な将軍を意味するが、中世から近世にかけての武家政権時代には、実質的な君主(くんしゅ)統治者(とうちしゃ)称号(しょうごう)として機能(きのう)した。
島津義久(しまづよしひさ)】一五三三~一六一一年。島津義久は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩の守護大名・戦国大名であり、島津氏の第十六代当主。
尚寧王(しょうねいおう)】~一五六四~一六二〇年(在位:一五八九~一六二〇年)。琉球國第二尚氏王朝第七代目の国王。
謁見(えっけん)】~貴人や位の高い人、または、目上の人に会うこと。
駿府(すんぷ)】~徳川家康の居城(きょじょう)。現在の静岡県東部。
我那覇秀昌(がなはしゅうしょう)】~我那覇秀昌(がなはひでまさ)。牛助春。薩摩に逆らって琉球國を結果的に窮地に追い込んでしまった、時代の趨勢(すうせい)に弱かった人物。我那覇親雲上(がなはぺーちん)秀昌。秀吉は、琉球に対し、島津氏を通して使節派遣を命じ、一五八九年、琉球の使者は、京都の聚楽第(じゅらくだい)で秀吉と対面。この時の使者の正使は天龍寺桃庵という人で、補佐役が我那覇親雲上秀昌だった。対面した秀吉は、正使の天龍寺に目もくれず、頭が大きい我那覇にばかり興味を示す。秀吉は彼の(ハチマキ)を取って自分が被ると、冠は秀吉の頭にすっぽりはまり、「大なるかな、秀昌の頭や」と叫んだといわれている。それ以来、彼には「大頭(うふちぶる)我那覇」という名が付く。なお秀吉は、この時の琉球の使者を他国と同様に、一方的に、服属(ふくじゅう)するために来たと解釈(かいしゃく)し、朝鮮出兵の食料支援を要求。(みん)を宗主国にいただく琉球は、当然、明国(みんこく)征服のための戦争に協力できるはずもなく、といって従わなければ朝鮮のように()()まれる恐れもあり、結局、半分だけ出すことで妥協させた。しかし一方で、時代の趨勢に疎かった親(みん)派により、密かに明国に秀吉のたくらみを通報する。日本と明のはざまで、難しい外交の舵取(かじと)りを(せま)られる琉球國であったが、朝鮮出兵が失敗し、秀吉の野望は打ち(くだ)かれる中で、琉球國は道を完全に誤った。更に、今度は断絶(だんぜつ)した日本と明国の国交回復をに、徳川家康は島津を通して琉球を利用しようと考えていたにも関わらず、またしても琉球國は道を誤り、それまで良好な関係だった薩摩と琉球の関係を一気に冷え込ませてしまった。その結果、徳川家康が背後にいる島津の琉球侵攻に繋がってしまい、その結果、奄美は琉球國から切り離されて薩摩のものとなり、大変に過酷な運命を辿ることになった。その一方で、琉球は薩摩の支配を緩く受けながらも、明治までの間、ずっと続いてゆくことになった。
島津忠恒(しまづただつね)】一六〇二~一六三八年。島津家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在するため、初名である「忠恒」と表記される事が多い。安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。島津氏第十八代当主。初代薩摩藩主。
名護(なご)良豊(りょうほう)】~馬良弼(まりょうひつ)名護親方良豐。三司官。一五五一~一六一七年。琉球國第二尚氏王統の人。



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