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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第36話・最終回
大頭我那覇の忠義
万暦三十三年(西暦一六〇五年)、徳川家康が、征夷大将軍となり、豊臣家に代わって天下を治めた頃、薩摩藩の島津義久公は、琉球から来ていた報恩寺の僧に天下の形勢を諭して、尚寧王が家康公に是非とも謁見すべきだと勧めました。
王はそれを聞いて迷いながらも、何もしないで曖昧にしていると、再び義久から直々に使者が来て、そのことを強く要請してきました。その時の内容は、駿府に行って謁見しないと、薩摩藩は琉球に艦隊を差し向けざるを得ない事態になるであろうという、厳しい内容でした。
時に、那覇の人で、唐名、牛助春、我那覇秀昌(※又の名を島我那覇)という人がいました。
この、島津の要請の前年、五島平戸(※長崎県)に漂着し、藩主松浦氏から薩摩に送られた時、前藩主、島津忠恒公がからかって言うことには、
「余は琉球を討とうと思うので、其方が案内を致せ。」と。
我那覇は憤然として言うことには、
「その国に生まれながら、他国の軍を導いて自分の国を討つなど、不忠も甚しい。死んでも、そんな事など出来るものではありません。」と。
そう言って、きっぱり断ったのでした。それでも忠恒は、あの手この手で、再三、頼んでみたものの、我那覇は、
「かかる道理が薩摩にはあっても、我が国、琉球に他国を攻めるなどという考えは、全くございません。」と言い切って、頑として気持ちは動きません。
この一貫した我那覇の態度に一目置いた忠恒は、その忠義心はお誉めになりました。
そして、家臣の島壱岐之助に、大頭我那覇を琉球に連れて行かせることにし、また三司官の名護良豊宛の書付と共に、琉球に向かわせたのでした。
それは薩摩と琉球の関係が良好だった、薩摩の琉球侵攻の、五年前のことでした。
なお島我那覇には、こんな逸話もあります。
かつて豊臣秀吉公が太閤の時代、琉球の使者として島我那覇が謁見した際、秀吉はその冠が大きいことに驚き、島我那覇にそれを借りて被って見たところが耳まですっぽりと入ってしまい、
「さてさて、天下一の大頭かな。」と言って大笑いしたという話も伝わっています。
※注や解説
【徳川家康】一五四二~一六一六年。江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川氏の祖。本姓は、先に藤原氏、次いで源氏と名乗る。家系は、三河国の国人土豪・松平氏。一五六七年に勅許を得て徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。
【征夷大将軍】~征夷大将軍は、朝廷の令外官の一つ。蝦夷を征討する偉大な将軍を意味するが、中世から近世にかけての武家政権時代には、実質的な君主・統治者の称号として機能した。
【島津義久】一五三三~一六一一年。島津義久は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩の守護大名・戦国大名であり、島津氏の第十六代当主。
【尚寧王】~一五六四~一六二〇年(在位:一五八九~一六二〇年)。琉球國第二尚氏王朝第七代目の国王。
【謁見】~貴人や位の高い人、または、目上の人に会うこと。
【駿府】~徳川家康の居城。現在の静岡県東部。
【我那覇秀昌】~我那覇秀昌。牛助春。薩摩に逆らって琉球國を結果的に窮地に追い込んでしまった、時代の趨勢に弱かった人物。我那覇親雲上秀昌。秀吉は、琉球に対し、島津氏を通して使節派遣を命じ、一五八九年、琉球の使者は、京都の聚楽第で秀吉と対面。この時の使者の正使は天龍寺桃庵という人で、補佐役が我那覇親雲上秀昌だった。対面した秀吉は、正使の天龍寺に目もくれず、頭が大きい我那覇にばかり興味を示す。秀吉は彼の冠を取って自分が被ると、冠は秀吉の頭にすっぽりはまり、「大なるかな、秀昌の頭や」と叫んだといわれている。それ以来、彼には「大頭我那覇」という名が付く。なお秀吉は、この時の琉球の使者を他国と同様に、一方的に、服属するために来たと解釈し、朝鮮出兵の食料支援を要求。明を宗主国にいただく琉球は、当然、明国征服のための戦争に協力できるはずもなく、といって従わなければ朝鮮のように攻め込まれる恐れもあり、結局、半分だけ出すことで妥協させた。しかし一方で、時代の趨勢に疎かった親明派により、密かに明国に秀吉のたくらみを通報する。日本と明のはざまで、難しい外交の舵取りを迫られる琉球國であったが、朝鮮出兵が失敗し、秀吉の野望は打ち砕かれる中で、琉球國は道を完全に誤った。更に、今度は断絶した日本と明国の国交回復をに、徳川家康は島津を通して琉球を利用しようと考えていたにも関わらず、またしても琉球國は道を誤り、それまで良好な関係だった薩摩と琉球の関係を一気に冷え込ませてしまった。その結果、徳川家康が背後にいる島津の琉球侵攻に繋がってしまい、その結果、奄美は琉球國から切り離されて薩摩のものとなり、大変に過酷な運命を辿ることになった。その一方で、琉球は薩摩の支配を緩く受けながらも、明治までの間、ずっと続いてゆくことになった。
【島津忠恒】一六〇二~一六三八年。島津家久と改名するが、同名の叔父が存在するため、初名である「忠恒」と表記される事が多い。安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。島津氏第十八代当主。初代薩摩藩主。
【名護良豊】~馬良弼名護親方良豐。三司官。一五五一~一六一七年。琉球國第二尚氏王統の人。
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