銘苅子の天女~新・琉球民話・口碑伝説集第17話

横浜のトシ

2015年11月27日 20:20


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~琉球沖縄に伝わる民話~

新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第17話


銘苅子(みかるしぃ/めかるしぃ/めかるしー)天女(てんにょ)



 尚圓王(しょうえんおう)の時代に、真和志間切(まわしまぎり)安謝村(あじゃそん)銘苅(みかる/めかる)で、銘苅子(みかるしぃ/めかるしぃ/めかるしー)という人が手足を洗っていました。
 その(とき)近くで、とても人とも思われぬ美しい女性が水浴(みずあ)びをしています。
 一目(ひとめ)見て、天女(てんにょ)に違いないと思った銘苅子(めかるしぃ)は、目が(くら)むほど美しい飛衣(とびんす)(ぬす)むと、家の(くら)稲束(いなづか)の中に(かく)しました。
 そしてなにも知らない()りをして、女性の(そば)に行ったところ、その女性が涙ながらに(うった)えて言うことには、
 「すみません。私は天女(てんにょ)ですが、空を飛ぶための飛衣(とびんす)を盗まれて、帰るに帰れず、難儀(なんぎ)(いた)しております。」と。
 「それはそれは、お気の(どく)に。私がきっと探し出してあげましょう。」と銘苅子(めかるしぃ)は答えると、取り()えずこれを着なさいと、自分の着物を()せると、その美女を家に連れ帰ったのでした。
 それから月日が(たちま)ち過ぎ()って、二人は夫婦の(ちぎ)りを()わし、二男二女の子どもが生まれました。
 そんなある日のこと、姉が弟の子守(こも)りをしながら、こんな(うた)(うた)いました。

   初親(はつうや)飛衣(とうびんす)
   産親(なしうや)舞衣(まいんす)
   稲束(いなたば)刈籠(かりかご)
   粟束(あわたば)結籠(ゆいかご)
   六俣(むつまた)倉上(くらうい)にあん
   八俣(やつまた)の倉上にあん
   ()くなよー
   泣くなよー
   うみわらびー

 この子守歌(こもりうた)を聞いた母親は、大層(たいそう)喜び、丁度(ちょうど)銘苅子(めかるしぃ)が留守だったのを(さいわ)いに、()ぐさま羽衣(はにんす)を見付け出しました。
 それから後、天女は、松の木から天に向かって舞い(あが)りました。
 銘苅子(めかるしぃ)と三人の子がそれに気付いて、行くのを止めたため、天女は、心を()きむしられ、幾度(いくど)となく()()りようとしたものの、(おり)からの強風に(あお)られ、結局、別れを()しみながら、天女は天に(のぼ)ってしまいました。
 なお、息子は二人とも若死(わかじに)しましたが、女の子の一人は尚真王(しょうしんおう)の夫人となり、二人の間には長女で唯一の女の子、佐司笠按司加那志(さしかさあんじがなしい)が生まれました。
 また銘苅子(めかるしぃ)は、王城(おじょう)()されて高官(こうかん)にまで(のぼ)ったということです。

 
※注や解説

銘苅子(みかるしぃ/めかるしぃ/めかるしー)】~「銘苅子」と呼ばれる玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)組踊(くみおど)りとしても、この話は有名。別名「松川之縁(まつかわのえん)」とも。向受祐(しょうじゅゆう)(※唐名(からな)玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)は、琉球國第二尚氏王統の人。中国からの冊封使(さくほうし/さっぷうし/さっぽうし)をもてなすための、踊奉行(おどりぶぎょう)に、一七一八年任命(にんめい)される。奉行に就任後(しゅうにんご)、翌年の、重陽の宴(ちょうようのえん)にあたり、初めて組踊を創作(そうさく)上演(じょうえん)する。歌三線(うたさんしん)にも(ひい)で、湛水流(たんすいりゅう)を、向日長(※唐名(からな)新里親方朝住(しんざとうぇーかたちょうじゅう/1651~1713)に学び、それを三男の向廷瑛(※唐名(からな)奥平親雲上朝喜(おくだいらぺーちんちょうき)に伝えた。朝薫(ちょうくん)が創作した組踊(くみおどり)は「朝薫の五番」と呼ばれ、それは「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「銘苅子(めかるしぃ)」「孝行之巻(こうこうのまき)」「女物狂(おんなものぐるい)」「二童敵討(にどうてきうち)」。琉球王統にまつわる天女伝説としては、この銘苅の話と森の川の話があり、他に地域の天女伝説もある。琉球沖縄の天女伝説は、別の記事を参照。
尚圓王(しょうえんおう)】=尚円王。(一四一五~一四七六:在位一四七〇~七六)第二尚氏(しょうし)王統(おうとう)初代(しょだい)琉球國王。第一尚氏王統六代尚泰久(しょうたいきゅう)王に(つか)え、7代尚徳王(しょうとくおう)(だい)に、王と意見が合わずに引退。尚徳王の死後、群臣(ぐんしん)()されて王になり、第二尚氏王統を開いたことに王府の歴史書ではなっている。実際のところはクーデターにより第一尚氏王統を倒して国を乗っ取ったであろう人物。童名(わらびなー)思徳金(うみとくがん)。通称は、金丸。
真和志間切(まわしまぎり)】~真和志の以前の発音は「まーじ」など。
安謝村(あじゃそん)】~昔も発音は同じ。
稲束(いなづか)】~刈り取った稲を(たば)ねたもの。いなたば。いねたば。

※この銘苅子の天女の伝説の場所は、ほとんど全ての文献・書籍では、沖縄戦後、アメリカ軍によって壊され、無くなったことになっている。かつて私も、せめてこの辺りかとずいぶん探し回ってみたものの、断念した。それから数年後、実際には現存し続けてきたこの場所を知る人に案内されて以来、個人的になんどか訪れてきた。この聖なる場所が現存するのは、地元の銘苅の方々による、並々ならぬ努力の結果なのである。従って、この方々以外のないものも、それを犯してはならない。大変な努力を払いながら守ってきた銘苅の人々のための聖地であり、奇跡的な保存状態に今もあるのはその銘苅の人々によるものである。その魂を理解する銘苅の人間以外は、本来、訪れるべき場所ではないと私は考え、滅多なことで人を連れて行ったことはないし、逆に研究者なのどにはよく説明した上で連れていっている。それが銘苅の方々に対する、民俗学を研究する者としての礼儀だと考えているからである。この琉球の宝、銘苅の宝が、真の銘苅の人々の未来に幸あらんことを願う。くれぐれも、部外者や宗教団体やユタなどにほんの少しでも荒らされることがないようにと心から願ってやまない。


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