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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第17話
銘苅子と天女
尚圓王の時代に、真和志間切安謝村の銘苅で、銘苅子という人が手足を洗っていました。
その時近くで、とても人とも思われぬ美しい女性が水浴びをしています。
一目見て、天女に違いないと思った銘苅子は、目が眩むほど美しい飛衣を盗むと、家の倉の稲束の中に隠しました。
そしてなにも知らない振りをして、女性の側に行ったところ、その女性が涙ながらに訴えて言うことには、
「すみません。私は天女ですが、空を飛ぶための飛衣を盗まれて、帰るに帰れず、難儀致しております。」と。
「それはそれは、お気の毒に。私がきっと探し出してあげましょう。」と銘苅子は答えると、取り敢えずこれを着なさいと、自分の着物を着せると、その美女を家に連れ帰ったのでした。
それから月日が忽ち過ぎ去って、二人は夫婦の契りを交わし、二男二女の子どもが生まれました。
そんなある日のこと、姉が弟の子守りをしながら、こんな歌を唄いました。
初親の飛衣
産親の舞衣や
稲束の刈籠に
粟束の結籠に
六俣の倉上にあん
八俣の倉上にあん
泣くなよー
泣くなよー
うみわらびー
この子守歌を聞いた母親は、大層喜び、丁度、銘苅子が留守だったのを幸いに、直ぐさま羽衣を見付け出しました。
それから後、天女は、松の木から天に向かって舞い上りました。
銘苅子と三人の子がそれに気付いて、行くのを止めたため、天女は、心を掻きむしられ、幾度となく舞い下りようとしたものの、折からの強風に煽られ、結局、別れを惜しみながら、天女は天に昇ってしまいました。
なお、息子は二人とも若死しましたが、女の子の一人は尚真王の夫人となり、二人の間には長女で唯一の女の子、佐司笠按司加那志が生まれました。
また銘苅子は、王城に召されて高官にまで上ったということです。
※注や解説
【銘苅子】~「銘苅子」と呼ばれる玉城朝薫の組踊りとしても、この話は有名。別名「松川之縁」とも。向受祐(※唐名):玉城朝薫は、琉球國第二尚氏王統の人。中国からの冊封使をもてなすための、踊奉行に、一七一八年任命される。奉行に就任後、翌年の、重陽の宴にあたり、初めて組踊を創作、上演する。歌三線にも秀で、湛水流を、向日長(※唐名):新里親方朝住に学び、それを三男の向廷瑛(※唐名):奥平親雲上朝喜に伝えた。朝薫が創作した組踊は「朝薫の五番」と呼ばれ、それは「執心鐘入」「銘苅子」「孝行之巻」「女物狂」「二童敵討」。琉球王統にまつわる天女伝説としては、この銘苅の話と森の川の話があり、他に地域の天女伝説もある。琉球沖縄の天女伝説は、別の記事を参照。
【尚圓王】=尚円王。(一四一五~一四七六:在位一四七〇~七六)。第二尚氏王統初代琉球國王。第一尚氏王統六代尚泰久王に仕え、7代尚徳王の代に、王と意見が合わずに引退。尚徳王の死後、群臣に推されて王になり、第二尚氏王統を開いたことに王府の歴史書ではなっている。実際のところはクーデターにより第一尚氏王統を倒して国を乗っ取ったであろう人物。童名は思徳金。通称は、金丸。
【真和志間切】~真和志の以前の発音は「まーじ」など。
【安謝村】~昔も発音は同じ。
【稲束】~刈り取った稲を束ねたもの。いなたば。いねたば。
※この銘苅子の天女の伝説の場所は、ほとんど全ての文献・書籍では、沖縄戦後、アメリカ軍によって壊され、無くなったことになっている。かつて私も、せめてこの辺りかとずいぶん探し回ってみたものの、断念した。それから数年後、実際には現存し続けてきたこの場所を知る人に案内されて以来、個人的になんどか訪れてきた。この聖なる場所が現存するのは、地元の銘苅の方々による、並々ならぬ努力の結果なのである。従って、この方々以外のないものも、それを犯してはならない。大変な努力を払いながら守ってきた銘苅の人々のための聖地であり、奇跡的な保存状態に今もあるのはその銘苅の人々によるものである。その魂を理解する銘苅の人間以外は、本来、訪れるべき場所ではないと私は考え、滅多なことで人を連れて行ったことはないし、逆に研究者なのどにはよく説明した上で連れていっている。それが銘苅の方々に対する、民俗学を研究する者としての礼儀だと考えているからである。この琉球の宝、銘苅の宝が、真の銘苅の人々の未来に幸あらんことを願う。くれぐれも、部外者や宗教団体やユタなどにほんの少しでも荒らされることがないようにと心から願ってやまない。
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