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~琉球沖縄に伝わる民話~
新・口碑伝説民話集録
『琉球民話集』より、第23
龍宝山大権現
宮古島の志里萬の里に住んでいた平良大首里大屋子は、琉球から宮古に帰る時に暴風に遭い、高麗の国に流れ着きました。
朝鮮の人は、平良大首里大屋子一行を縛り上げて、首領である大屋子の首を斬り落とそうとしました。
「もう、これまで」と思いながら、大屋子は天を仰ぎ拝んでから、落ちる涙で「琉球」の二文字を地面に書いたのでした。
その様子を見ていた朝鮮の人は心を打たれ、死刑は取り止めになりました。それから五年程、留置された後に、大屋子は北京に送られ、それから更に三年間、支那にいました。そして進貢船に乗り、八年ぶりにやっとのことで琉球に帰って来ることができたのでした。
平良大首里大屋子は、自分の命があることと、この八年の苦難のために、神仏をそれまで以上に深く信じるようになって、波之上大権現を、宮古島にお迎えすることにし、草庵を造って、龍宝山大権現としてお祀りしました。
するとその後は、今までのように悪魔や鬼が横行することが宮古島からすっかりなくなり、神の御威光によって、宮古の人々は安楽に暮ごせるようになりました。
なお、年数が過ぎた万暦三十九年に、薩摩から宮古に御検地使者が渡って来た時に、お宮が建てられました。
※注や解説
【志里萬】~読みは他に「しれま」「しれまの」。
【平良大首里大屋子】~琉球國の代官。読みは他に「うぷしゅりおぶやぐ」、「ひららおおしゅりおおやこ」。
【高麗】~朝鮮。
【波之上大権現】~熊野三神。現在、宮古神社にこの話が伝わる。但し、たびたび宮古神社は、建て替えられたり場所を移動している。なお、龍宝山大権現であるが、朝鮮に漂着した平良大首里大屋子は言葉が通じず海賊とみなされ、本文にあるように、処刑寸前に「琉球」の二文字を書して命拾いした。日頃から信心していた波之上権現(那覇)のご加護によるものと、権現を勧請して庵を設け、一層、信心につとめたとされる。一六〇九(慶長十四)年、薩摩藩が琉球國を制圧すると、琉球全域を検地して石高を定めた。一六一一年の検地の使者が帰国の際、薩摩藩は琉球王府に対して、宮古・八重山に寺院開設の必要性を進言した。同年、王府は宮古に龍宝山祥雲寺と権現堂を創建した。これが龍宝山大権現と考えられなくもないが、いずれにせよ、平良大首里大屋子と龍宝山大権現は深い関係があったと考えられる。また、この話の最後の方は、いくつかの出来事が混同しているようにもとれなくもない。特に、草庵に大権現を祀るという部分に違和感を個人的に覚える。なお、宮古神社が日本最南端の神社という表記を様々な古い資料でみかける一方で、砂川神社が最南端であることからして、砂川神社より宮古神社の方が先に建てられた、あるいは、(先にも書いた通り)宮古神社が建て替えにより場所を度々移動したことから砂川神社より南に宮古神社があった時もあるのではないかとも考えられる。ちなみに最西端は与那国島の祖納にある十山神社。
【御検地使者】~土地測量の使者。一六〇九年、薩摩藩・島津氏は琉球國を武力で侵略して征服した。その侵略のきっかけは、慶長の役の際に琉球國が支援を断ったためというのが表向きだが、本当のところは以前から島津が琉球國の貿易による莫大な利益を狙っていたと想像できる。島津は琉球を征服すると太閤検地に倣って「慶長検地(琉球國検地)」を行い、喜界島、(奄美)大島、徳之島、沖永良部島、与論島の五島を薩摩藩の直轄とし、沖縄本島以南を琉球王府の直轄地とした。一六一一年、琉球王府はそれまで二人であった頭職(※最上位の行政職)を三人に増やし、八重山・宮古郡の検地を行った。
【万暦三十九年】~西暦一六一一年。
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