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琉球國建国の一族

第1(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)(はか)
変遷(へんせん)



 第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)系図(けいず)をエクセルで作ってみました。

 まずはご(らん)下さい。(※パソコンやスマホ、また機種で表示は異なります。大きい表示の場合、一番下のバーで左が見えます)
琉球國建国の一族「第一尚氏王統の墓」
琉球國建国の一族「第一尚氏王統の墓」

尚思紹苗代大親(なーしるうふやー)王の墓
天山稜(首里池端)→(?)→佐敷ようどれ(南城市佐敷グスク近く)佐敷ようどれ(南城市/航空自衛隊知念分屯基地内。※そこの説明書きにあるように、佐敷グスク近くの崖下にあったのを風雨による破損が目立ったため1764年にここへ移動)

尚巴志王の墓
天山稜(首里池端)末吉村の山林シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)伊良皆村(読谷山間切喜納)佐敷森(読谷村伊良皆)

尚忠王の墓
天山稜(首里池端)末吉村の山林シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)伊良皆村(読谷山間切喜納)佐敷森(読谷村伊良皆)

尚思達王の墓
天山稜(首里池端)末吉村の山林シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)伊良皆村(読谷山間切喜納)佐敷森(読谷村伊良皆)

尚金福王の墓
天山稜(首里池端)末吉村の山林シリン川原(シレン河原/キャンプキンザー内/浦添間切城間村に遙拝所)※王の墓とも遙拝所ともされるものが上間(那覇市/仲井間小学校の、前の道を挟んで向かい側)

尚泰久王の墓
天山稜(首里池端)末吉村の山林シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)伊良皆村(読谷山間切喜納)伊波村濱南(美里間切伊波村※乳母の出身地)玉城(南城市冨里/1908年(明治41年)に第一尚氏ゆかりの子孫によりこの地へ。うるま市曙集落の崖下に、尚泰久の墓であるのを隠すため「クンチャー墓(乞食墓)」と呼んで長い間、隠されてきた)

尚徳王の墓
天山稜(首里池端)→(?)→カネマン墓(金満/那覇市識名/安謝名家(あじゃなけ)の墓=尚徳王御陵跡)


 歴史上特異(とくい)な、金丸とその一派による、第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)ゆかりの人々の根絶(こんぜつ)計画と、追われる人々の逃亡(とうぼう)(げき)の間で、壮絶(そうぜつ)な闘いが()り広げられていきました。そして金丸は、ついに国を丸ごと乗っ取って王の座を手に入れます。王となるに相応(ふさ)わしい武勲(ぶくん)を上げたわけでもなく、国の窮状(きゅうじょう)を救う功績(こうせき)をあげたわけでもなく、単に自分の出世のために政治的手腕を究極(きゅうきょく)まで発揮(はっき)した、金丸が前代(まれ)にみる、よほどの策謀(さくぼう)にたけた人物であったことに間違いありません。

 前王統抹殺(まっさつ)の過程にあって第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)は、遺骨(いこつ)破壊(はかい)消失(しょうしつ)の危険を危惧(きぐ)し消滅を恐れて、何度か分骨(ぶんこつ)を行ったことはすでに色々な文献(ぶんけん)で確認されています。従って上記だけが、第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)の王たちの、唯一(ゆいいつ)の墓と限ったわけではないと考えられます。

 まだ未発見、あるいは知られていない様々(さまざま)第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)の王の墓と共に、第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)が歴史の表舞台から、かき消されることがないようにと守ってきた人々の存在を、(うかがい)い知ることが出来ます。もちろん無念(むねん)の気持ちが(ふく)まれつつも、琉球を統一して琉球國を建国した者達こそ我らが第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)とゆかりの者達なのだという、(ほこ)りと自負(じふ)(さけ)びを、少なくとも私は個人的に強く感じながら墓を回ってきました。

 伊良皆の佐敷森(さしきむい)の王が眠る墓の近くには、破壊される前に天山稜から王たちの遺骨を運び出した、平田子(ひらたしー)屋比久子(やびくしー)(平田之子・屋比久之子)の墓があり、王の墓と共に回ってきました。また最後の王、尚徳王(※尚徳王の後を、第2王子の中和が継ぎ、中和王は父の名で朝鮮に遣使し、明へも朝貢使節を送った。父の名を用いた理由だが、国王の死去後はその国王の名で朝貢し、一年余り経って()が明けてから、明に死去を報告し、請封するのが慣例であったため。王の在位が一つも重ならないのはこのため。ところが請封前に、金丸によるクーデターが起こってまるまる国を乗っ取られてしまった。対外的に明から王と認められる前にクーデターが起こったわけで、国内では既に王として政務をつかさどっているのであり、中和王を最後の王とする説は、もっともだと考える(高瀬恭子「第一尚氏最後の王『中和』」)。まして金丸にとって中和を王として認めたくなかったことから歴史的削除が意図的に行われたのだろうと推測する。)の墓の近くには、佐敷から移されたの三男、屋比久大屋子の墓があります。そういった、第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)ゆかりのお墓も、共に回ってきました。

 残念ながら第一(だいいち)尚氏(しょうし)王統(おうとう)の墓「天山稜」は、発掘調査後に再建される兆しはなく、第二(だいに)尚氏(しょうし)王統(おうとう)の墓も無く、あるのは尚圓王(しょうえんおう)宇喜也嘉(おぎやか)の家族の墓である「玉陵((たまうどぅん)」だけの昨今で、宝口は忘れ去られ、山川は訪れる者も少ないありさまです。それはまるで本当の事が明るみに出ると困るからと言わんばかりです。それでは正しい歴史につながりませんから、すべてがいつか、きちんと復活することを心から願っております。本当の琉球の歴史理解のために。




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