島建加那志 ~琉球沖縄の伝説

2010年10月27日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(0)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第15話。


島建加那志



 むかしむかしのことです。
 はじめ、国々や島々は、まだ今のようには出来(でき)ていなくて、海の上を(ただよ)っていました。
 そこに、沖縄からビジディンという神がやって()ました。そして、天のアマミコという神にお願いして、土を持って来てもらいました。しかしその土だけでは、とても()りなかったので、(さら)に、土と石、そして(つち)を持って来て、島造(しまづく)り、国造(くにづく)りを、(はじ)めたそうです。
 節子(せつこ)という村に、白砂(はくさ)の浜を造り、村の真ん中(まんなか)には川を造り、それはそれは綺麗(きれい)な村を造りました。また、村の中に邪悪(じゃあく)なものが入れないようにと、道を(とら)の形にし、入口は虎の口に()せて造りました。
 それから次に、山を造りました。
 湯湾岳(ゆわんだけ)を一番に、二番に烏帽子岳(えぼしだけ)、三番に節子のタンノ岳、四番に古仁屋(こにや)のキャンマ山を造りました。そして、それぞれの山に、(きよ)らかな水を流しました。
 なお、ビジディンの神がやって来た時、七人のお(とも)の神を引き()れ、旗差し物(はたさしもの)を立て、馬に乗ってやって来たそうです。
 村の榕樹(がじゅまる)大木(たいぼく)は、ビジディンの神が植えたもので、そこにはかつて、刀や金のたらい(など)がありましたが、その金のたらいは、いつしか(ぬす)まれて、()くなってしまいました。するとその(あと)に、巨大な、お()(きのこ)()えました。巫女(みこ)によると、そのお化け茸が生えたのは、金のたらいが盗まれたので、それに対する神からの(とが)だったのだそうです。
 ビジディンの神石は、今も村の広場の近くにあります。
 節子の村の、沖にある二叉岩(ふたまたいわ)は、むかし、喜界島(きかいじま)にありましたが、そこから西の(かた)、湯湾の(あた)りを流れて行く時に、キユラユクダリ(雪白)という美人神が、白羽扇(びゃくうせん)(まね)()せて、そこに(とど)めたとのことだそうな。


 
※この話の参考とした話
奄美・鹿児島県大島郡瀬戸内町節子~(南島昔話叢書1『瀬戸内町の昔話』)
奄美・鹿児島県大島郡瀬戸内町節子~『瀬戸内町誌』
同上~(同上)
同上~(同上)
同上~(同上)
大島郡瀬戸内町嘉徳(かとく)~(同上)
大島郡瀬戸内町於斉(おさい)~(同上)


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●伝承地
①奄美・鹿児島県大島郡瀬戸内町節子~はじめ、国々島々はできていたのに、まだよくできあがらずに、海の上を流れ漂っていたそうです。すると、沖縄からビジディンという神がやって来て、天のアマミコ(阿摩弥姑)という神にお願いして、土を持って来させたそうです。それでも、間に合わなかったので、さらに土と石と、それに槌を持って来て、島造り、国造りを始めたそうです。節子の村には白砂の浜を造り、村の真ん中には川を造り、きれいな村を造ったそうです。村の中の道は、虎の形にし、入口は虎の口に似せて造り、邪悪なものは入れないように、形造ったそうです。山は湯湾岳が一番、二番は烏帽子岳、三番は節子のタンノ岳、四番は古仁屋のキャンマ山です。そして、そこにそれぞれきれいな水を流したそうです。ビジディンの神は七人の伴を引き連れて、旗差し物を立て、馬に乗って来たそうです。村の榕樹の大木す、ビジディンの神が植えたもので、そこには刀や金のたらいなどがあったのですが、その金のたらいは、いつか盗まれてなくなったんですよ。そのあとに大きなお化け茸が生えたことがありました。後から巫女の口を借りて分ったことですが、その化け茸が生えたのは、金のたらいを盗まれたので、それに対する神の咎だったそうです。ビジディンの神石は、今も村のミャー(広場)の近くにある。節子の沖にある二叉岩(タマタディル)は、昔、喜界島にあったのに、西の方の湯湾あたりへ流れて行くところを、キユラユクダリ(雪白の)という美人神が、白羽扇で招いて、そこに止めたという。(南島昔話叢書1『瀬戸内町の昔話』)
②奄美・鹿児島県大島郡瀬戸内町節子~はじめ国々島々は海上を流れただよっていた。沖縄からきたビジティンという神が天のアマミコ神にお願いして土を持ってこさせた。さらに土と石とそれから槌を持って来て、島づくり国づくりをはじめた。白砂の浜、川、村の通りは虎の形につくり、入口は邪悪のものを入れないように虎の口ににせて作った。山は一番が湯湾岳、二番が烏帽子岳、三番は節子のタンノ岳、四番は古仁屋のキャンマ岳である。そこにきれいな水を流した。ビジティンの神は七人の神を引きつれて、馬にのってこられた。村の榕樹の大木はビジティンの神が植えたもので、そこには刀や金のたらいがあった。(『瀬戸内町誌』)
③同上~人間の始まりは、北海道のアイヌとオーストラリア人である。昔、網野子のシドンサキという岬に坐って沖を眺めていたら、大津波が押し寄せてきた。それで、その人たちは尾根づたいに登って節子にやってきた。この人たちと節子の人たちが結ばれて、先祖ができた。また、沖縄の首里からきた一族もいる。(同上)
④同上~ティダクメガナシ(太陽久米加那志)は、天から南国に下ってきたが、暑かったので出雲の国へ行った。そこはギスが乱れていた。それで、イヤンヤ(岩屋)にとびこんだ。世界が明るくならないので人間は太鼓を打ちならして踊りはねていた。アマミコサマがのぞいてみようとした。チカラノミコトがその岩屋の扉をあけた。(同上)
⑤同上~ナンコク(南国)からアマミコサマがヰヒリ(兄弟)と一緒にきた。オーロッコ(鴨緑江)、朝鮮から出雲の国へととんできた。そこも乱れていたので、アマミコサマはイヤンヤ(岩屋)に入り、世の中は七日間は暗闇になった。アマミコサマを踊りや相撲などで外へ、タカチホサマが出し、世の中は明るくした。その時、榊を持ってきた。タカチホサマが木を持ってきて、茅をまげると家ができた。家の始まりである。この日を祝ったのが八月十五夜である。日本は、まだ固まらず浮いていた。アマミコサマが離れ島の岬に休憩しながら合掌して拝むとそれらが一緒になり国ができあがった。南の方によい島があるというのでこちらにきて、美しい島という意味のアマミと名づけた。湯湾岳のクニシという神とアマミコサマの間にできた女の子が節子のビジティンの神である。アマミコサマは、ビジティンに湯湾の東の石のないきれいな砂浜のある村の島建加那志になりなさいと命じ、谷や川におりずに、尾根づたいに行ってタンニョという岳に居すわれといった。(同上)
⑥大島郡瀬戸内町嘉徳(かとく)~カドホ(嘉徳)の島建加那志は沖縄からきたヲナリ・ヰヒリ(妹・兄)であった。二人は嘉徳にいたジャ(大蛇)を落し穴を作って退治した。(同上)
⑦同上~沖縄・首里の王族のヲナリ・ヰヒリ(妹・兄)が八本の角と八本の尻尾を持っていたアハウシャンムィという赤い怪牛を退治した。兄妹神は嘉徳の北東部にはり出した岬にある洞穴に住んでいた。(同上)
⑧大島郡瀬戸内町於斉(おさい)~於斉の島建加那志は対岸の請島の東側のキャーマという小島に住むつもりであったが、海を渡り、北側の於斉に落ちついたといわれる。(同上)


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