鶴の穂落とし田 ~琉球沖縄の伝説

2010年11月21日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(0)琉球沖縄の伝説・沖縄本島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第40話。


鶴の穂落とし田




 むかし(むかし)の、お(はなし)です。
 あまみきよ(アマミキヨ)子孫(しそん)あまみつ(アマミツ)という人がいて、(とう)(ゆー)冊封使(さくほうし)として中国の福建省(ふっけんしょう)に行きました。
 その(とき)()べたお(こめ)大層(たいそう)美味(おい)しくて、(なん)とか琉球(りゅうきゅう)にその(たね)()(かえ)りたいと(ねが)ったものの、残念(ざんねん)ながら()()れることが出来(でき)ませんでした。
 それから時代(じだい)()ぎて、北山(ほくざんく)(ぐすく)伊波(いは)按司(あじ)という人物(じんぶつ)中国(ちゅうごく)(わた)った(さい)にも(おな)じように、その美味(おい)しい(こめ)(たね)()しがりましたが、中国(ちゅうごく)(ひと)は、これを()たせてあげることは出来(でき)ませんと(ことわ)りました。ただその()わりに(たね)()()れる方法(ほうほう)(おし)えてくれました。
 それは、(とり)である(つる)()()らしてそれを手に入れるという方法(ほうほう)でした。
 琉球国(りゅうきゅうこく)(もど)ってから、早速(さっそく)、その(おし)えに(したが)って(つる)()()らし、(いね)(みの)時期(じき)見計(みはか)らって(とり)(そら)(はな)ちましたが、残念(ざんねん)ながら途中(とちゅう)(つよ)南風(ぱいかじ/みなみかぜ)()かれたために、のえじ(ノエジ)という場所(ばしょ)でついに(つる)(ちから)()き、()ちて()んでしまいました。
 そうとは()らない伊波按司(いはあじ)は、(もど)って()時期(じき)(つる)(さが)しに出掛(でか)け、()った(さき)仮小屋(かりごや)()てたのでした。その場所(ばしょ)が、いわがー(イワガー)名付(なづ)けられた(ところ)です。
 なおその(とき)に、()んだ(つる)見付(みつ)けたのでした。
 その(のち)伊波按司(いはあじ)は、ふみえ(フミエ)しまぶく(シマブク)あした(アシタ)ひが(ヒガ)という人物(じんぶつ)協力(きょうりょく)して、()んだ(つる)が、くわえていた稲穂(いなほ)を、()()えました。
 その()が、受水(うきんじゅ)走水(はいんじゅ)(ちか)くの、三穂田(みーふーだー・みふぅだ)(※御穂田とも)であり、ここから(いま)琉球(りゅうきゅう)沖縄(おきなわ)(いね)が、(ひろ)がっていったそうな。


 
※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村仲村渠~「昭和五十四年度 奄美・沖縄民間文芸研究会採集稿」
奄美・鹿児島県大島郡竜郷町戸ロ~『薩南諸島の総合的研究』
奄美・鹿児島県大島郡竜郷町大勝~同上
奄美・鹿児島県大島郡竜郷町秋名~同上
奄美・鹿児島県大島郡大和村今里~同上
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~『瀬名波の民話』読谷村民話資料4
同上~同上
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~『喜名の民話』読谷村民話資料2
沖縄本島・沖縄県中頭郡勝連町津堅島~『南島説話』
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村百名~『玉城村誌』
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村中山~「昭和五十五年度 奄美・沖縄民間文芸研究会採集稿」
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村~『中山世鑑』巻一
沖縄本島・沖縄県島尻郡知念村~『遣老説伝』巻一


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●伝承地
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村仲村渠~アマミキヨの子孫にアマミツという人がいて、唐の世に遣唐使として、シナの福建省に行ったとき、その米がどうしてもうまい。なんとかその種をもらおうとしたが、なかなかくれなかったそうだ。その後また北山城の伊波按司という人がシナに渡って、やはり米の種を欲しがったが、シナの人はこれを持たせてやることが出来ないので、鶴を慣らしてくびってやればよいと教えてくれた。その教えに従って、鶴を放すと南風に吹かれて途中、ノエジというところで鶴は落ちて死んでしまった。そこで、伊波按司は、来る時期だがと探しに来て、その辺に仮小屋を立てた。それが今のイワガーと名づけられた所になっている。そのとき、鶴を見つけて、フミエのシマブク、アシタのヒガと協力して、その鶴のくわえていた稲穂でもって植えた田が三穂田でこれからどんどん稲が広がったそうだ。(「昭和五十四年度 奄美・沖縄民間文芸研究会採集稿」)
奄美・鹿児島県大島郡竜郷町戸ロ~昔、シユンという男が七歳の時母を失い継母がきた。十三歳の時父は旅にでた。その留守中に継母はシユンを殺そうと、毒を与えたり井戸を掘らせて殺そうする。シユンは逃げだす。継母は井戸に土を入れて殺したと父に告げる。父は悲しみ失明し、竹細工をしていた。シユンは白髪の老人から鳥が田を開けと鳴いていると聞き、田を開く。そこに鷲が稲穂をくわえてきて落し、それを播くと、稲がよくできた。(中略)(『薩南諸島の総合的研究』)
奄美・鹿児島県大島郡竜郷町大勝~昔、鶴が稲を持ってきて、山に落し、鍛冶屋の炭焼五郎か拾って植えてはやら.した。ツルオトシという。(同上)
奄美・鹿児島県大島郡竜郷町秋名~一人の農夫が一生懸命田を作ろうとしていたが、高潮に流された。タロージという神がこれに感じネリヤから稲の初穂を鳥にくわえさせてもってこさせた。また、天からグユの種子を落し、田の畦に植えたら、田が崩れないといった。(同上)
奄美・鹿児島県大島郡大和村今里~仲の悪い兄弟がいた。兄弟の片方がある女の病気見舞いにいった。それを嫉いてその女を兄弟の他の片方が泥沼で殺したら、その遺体から蛆が湧いた。これを鳥が食べて、その糞が泥沼に落ちて稲となった。(同上)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~伊波仲門という人が、中国に渡り米種を鶴に託して沖縄に飛ばしたが、台風のため島尻の受水走水に落ちて死んだ。伊波仲門は、この地で稲を育て、鶴の遺骸は占里に持ち帰って家の宝とした。(『瀬名波の民話』読谷村民話資料4)
同上~昔、神さまが鳥を全部集めて、沖縄には稲がないので、ある所からくわえて来いと命じられた。まず烏が申し出たが、目付が悪いと言って神さまは許さない。鷲が選ばれてくわえて来たが、受水走水までで力が尽きた。沖縄の稲作はここから始まった。(同上)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~米は沖縄にはなかったが、雀が稲穂をくわえて来て、アガリマーイをする受水走水に落した。それから稲は始まった。(『喜名の民話』読谷村民話資料2)
沖縄本島・沖縄県中頭郡勝連町津堅島~稲は知念間切で始まった。その種子は鶴が将来した。この鶴は同間切で死んだのであるが、偉功があるので王に奉った所、王は東方の聖島の津堅島で祀れと命じられて、その骨を津堅人に賜わった。今も、白い二対の脚骨と称するものが竹筒に入れて大事に祀られている。(『南島説話』)
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村百名~伊波按司が北山王の使で中国へ渡り、稲を知って、その種子を持ち帰ろうとしたが、国外持ち出しが許されず、鶴に種子を運ばす方法を思いつく。そこで領地の美里村伊波から中国へ向けて一羽の鶴を飛ばした後、その帰りを待ったが伊波には戻ってこなかった。強い風のせいと知って、按司は知念か玉城の方で翼を休めていると判断し、百名の伊波ガーの上方に見張所を建てて待った。当時、百名には進貢船に乗った経験のある阿摩美津という人があり、伊波按司に力を貸して、いっしょに海岸を探し歩いたが、ついに発見できず按司は美里村伊波へ帰った。しかし、阿摩美津はあきらめず探し回っていると、新原西方のメーシ(米地)で鶴の死骸を見つけた。そして、その跡に稲が芽生えていた。鶴の死骸は、玉城殿内(ドンチ)で崇めていたが、伊波按司のもとに引き取られ、現在でも美里村伊波の仲門家に所蔵されているという。伊波番所の跡の下の井戸を伊波ガーと言い、戦前まで、百名部落の大半が飲料水としてきた。(『玉城村誌』)
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村中山~三穂田の話は、伊波按司がシナに行かれたときのことです。伊波按司が稲の穂を持ち帰ろうとしたが、当時シナではその持ち運びは禁じられていたそうです。それで鶴にくわえさせて、石川のイハナカ城に飛ばすつもりだったが、風のためにウキンジュ、ハインジュの三穂田に落ちてしまって、その遺骨になったところが、そ二に稲が生えてきたそうです。この遺骨は、玉城祝女殿内に祀られておった。そこで伊波按司がシナから帰られて、石川のイハナカ城に持ってゆかれたんだ。私は祝女殿内に使われておったんだ。新床に祀られていた。その伊波按司が私が飛ばした鶴だからといって遺骨を持って帰られた。私達、今五年に一回、今帰仁回りと言って拝みがありますが、そのときには、伊波按司の所も拝んできます。(「昭和五卜五年度 奄美・沖縄民間文芸研究会採集稿」)
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村~五穀ノ祭神ト申スハ、当初、穴居野処、物与相友、妎傷之心有無。未稼稷知ズ、草木之実食、未火化有ず、禽獣之血飲、而其毛茹ナドシテ、人繁栄、成難ケレバ、阿摩美久、天ヘノボリ、五穀の種子ヲ乞下リ、麦粟菽黍ノ、数種ヲバ、初テ久高嶋ニゾ蒔給。稲ヲバ、知念大川ノ後、又玉城ヲケミゾニゾ芸給。(『中山世鑑』巻一)
沖縄本島・沖縄県島尻郡知念村~上古の世、阿摩美久、始めて稲種を地に播くの時、此の田を名づけて田内川(知念邑に在り)と曰ふ。近世に迄り、根人の名を、叫びて川内と曰ふ。今誤りて幸地と呼ぶ。而して今稲穂祭の時、根人其の田地に往き、以て稲穂を取り、恭しく知念城内殿に供ふ。既にして其の米を研ぎ究め、水に浸和し、其の半は根神並びに家内の人に吃はせ、一半にて飯を煮き、以て神前に献じ、祈?して祭る。(『遣老説伝』巻一)



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