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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第41話。
むかし
そしてアマミキョは、
その
それを
その
※この話の参考とした話
①沖縄本島・沖縄県島尻郡知念村久高島~「昭和六十二年度 立命館大学説話文学研究会採集稿」
②沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村仲田~『いぜな島の民話』
③沖縄本島・沖縄県祗島尻郡知念村久高島~『沖縄県久高島資料』
④同右~「沖縄民俗研究」三号
⑤同右~同右
⑥沖縄県那覇市首里~『中山世鑑』巻一
⑦沖縄県那覇市首里~『琉球国由来記』巻一
⑧沖縄県那覇市首里~『遺老説伝』巻二
⑨同右~『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』
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●伝承地
①沖縄本島・沖縄県島尻郡知念村久高島~五穀は、アマミキョとシネリキョが持って来られた。アマミキョが、瓢箪のなかに麦・粟・豆・アダカ・米を入れて流した。その瓢箪が伊敷浜に着いた。アカチュミ神が取ろうとしたが取れなかったので、ヤグルガーで身を潔めると取ることができた。麦・粟・豆などは、ハタシュバルに蒔いたが、米は百名の受水・走水に持って行って蒔いた。(「昭和六十二年度 立命館大学説話文学研究会採集稿」)
②沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村仲田~沖縄のいちばん上の神さまであるアマミキョが中国から米の種を久高島に持ってきた。しかし、そこには田圃がなかったので、知念村の受水走水に植えつけた。(『いぜな島の民話』)
③沖縄本島・沖縄県祗島尻郡知念村久高島~シラタルーとファーガナシは兄妹で、久高島の先祖である。東海岸の伊敷浜で神に祈って七種類の種子を得て、これを栽培して子孫が繁栄した。(『沖縄県久高島資料』)
④同右~アマミキョが奄美大島から来るとき、海が荒れてタニムンの壷がなくなった。それには大麦・小麦・裸麦・粟・アデカの苗が入っていた。それが幾世代か経って久高島に着いた。アカチミが取ろうとしたが取れず、アカチミのウミナイビ(シマリバー)がヤグルガーで水浴びして、左の袖で取った。(「沖縄民俗研究」三号)
⑤同右~伊敷浜から海を見ると、沖の方に三つの大石がある。その南側の石の二ところの真中から壺(瓢箪)が流れ込んできた。アカミチューが取ろうとしたら逃げたので、アガリウフザト(大里家)に行って、そこのカミンチューと相談し、シマリバー(妻)といっしょにヤグルガーで禊をし、白衣に着替えて伊敷浜に戻ると、壼を取ることができた。その壼の中には、裸麦・粟・小豆・米・アダカの実が入っており、米以外は久高島のハタスに蒔き、稲は玉城・百名の受水走水に蒔かせた。(同右)
⑥沖縄県那覇市首里~五穀ノ祭神ト申スハ、当初、穴居野処、物与相友、?傷之心有無。未稼稷知らず、草木之実食、未火化有ず。禽獣之血飲、而其毛茹ナドシテ、人繁栄、成難ケレバ、阿摩美久、天ヘノボリ、五穀ノ種子ヲ乞下リ、麦粟菽黍ノ、数種ヲバ、初テ久高嶋ニゾ蒔給。稲ヲバ、知念大川ノ後、又玉城ヲケミゾニゾ芸給。去程ニ、麦ハ春ノ中、稲ハ夏ノ初ニ、熟シテケレベ、先ヅ天神地祗二、祭ントテ、七日戒、三日斎シテ、祭リテケレバ、天神地祗モ、悦ノアマリニヤ、現ジ給テ、初テ寿ヲゾシ給ケル。
今在々取々(所カ)、春夏四度ノ祭神、其始ナリ。二月ニ久高ノ行幸、四月ニ知念・玉城ノ行幸モ、其ヨリシテ始リケル。是又、本報始返之大祭也。敬可々々。吾朝神国ト申ハ、此等ノ事ニ依テ也。」(『中山世鑑』巻一)
⑦沖縄県那覇市首里~古自、二月麦ノミシキヨマノ時、隔年一次、幸于久高嶋行。(聞得大君・司雲上・按司、御召列也)御祭礼有也。(此時間切於、位昇進之言上、之有也)然。
尚貞王御宇、康煕十二年癸丑、二月十一日至、改而当役遣、御祭礼有也。聖主親ラ、御渡海ノ儀、之止由、評定所日記見也。祭奠所之品物、遏達理職御双紙見。此由来者、阿摩美久天上、下五穀之種子而乞、麦・粟・菽・黍・数種、始於久高嶋蒔、稲於知念・玉城芸也。玆因 聖上、親幸于久高嶋而行、御祭礼有也。且春夏四祭、于此始。詳于中山世鑑見。且久高嶋古老者、俗説、上古、天孫氏世代(何世幾代考得ず)アナゴノ子ト云人、彼嶋ニ住居始タル、根人ナリ。妻者アナゴノ姥ト云。或日アナゴノ子、漁猟ニ、伊敷泊ニ出時、汀ニ白壼一浮テ、ヨリ来ヲ見テ、是ヲ取ントスルニ、取被ズ
、又遠ク離ズ。此如スル事、両三度及雖、了ニ取得ズ。然ドモ遠流ズ。急ギ帰宅シテ、妻ニ話ル(マゝ)。婦云。此壼必由有ラン。沐浴潔斎シテ、徃テ是ヲ取レト云。夫沐浴シテ、白衣ヲ著シ、再ビ汀ニ往向ヒ、袖ヲ攤ケ待ツ。忽然トシテ、寄来ル濤ニ副テ、壺輙袖ニ乗ル。取揚テ家帰、壷ノロヲ開看ルニ、麦・粟・黍・?・豆・檳榔・アザカ・シキヨ、七種アリ。是皆栽ユル種ト心得ヘテ、所所ニ此種子ヲ蒔ク。時ヲ得テ、皆生ルナリ。数種ノ内、麦ハ春成熟ス。故二月、麦穂祭ト称、祭礼有也。粟・黍・菽、夏成熟ス。濱榔高ク、於諸木秀、アザカ・シキヨ、繁茂有テ、森岳ト成ル。此森岳ニ、君真物出現、託遊アリ。実ニ神ノ在、玄岳ナリ。粤ニ森岳始建ツトナリ。此数種寄来リ、皆生長有テヨリ、百姓、神ノ威光ヲ崇、悉く信仰篤ク致所ト。(云云)且此数種入タル壷、土中ニ埋タル所アリ。石ヲ積ミ囲繞シ今ニアリ。前世、掘リ見ント望者有、鍬ヲ立ルニ、烈風吹、忽チ死為者、一両輩有ト、申伝ルナリ。此麦成熟時、于朝廷棒。聖上詔宣ク、是レ人民養育スル穀物ト。
御歓喜斜ズ。玆因、隔年一次、二月日撰、幸于久高嶋行。神祗御祭礼始ルト、謂伝ナリ。行幸還幸、共ニ御船ニテ、神唄コヱナ、アリヶルト也。(『琉球国由来記』巻一)
⑧沖縄県那覇市首里~往古の世、玉城郡百名邑に、一男人有り、乳名は白樽。賦性至孝にして操心仁義。恒に善事を為し、敢て悪を為さず。玉城按司、深く之れを褒美し、遂に長男免武登能按司の女を以て娶して他の妻と為す。一日、夫婦一同に、野に出で山に登り、光景を玩楽す。忽ち東溟の中に一小島有りて、波濤の間に隠見するを看る。白樽、深く奇とし且つ怪とし、時々其の野に出で行き、用心之れを看る。日晴れ雲散じ風和やかに波静かなれば、則ち一島を現在し、隔海甚だ近し。此の時、威勢相競ひ、于戈未だ弭まず。是に於て、白樽深く此の世の変乱を厭ひ、以て海島に遁去せんとす。夫婦相共に商議し、即ち小舟に乗じ、東に向ひて行く。未だ一瞬息ならずして、早や他の島に至る。舟を繫ぎて上岸し、遍く四境を巡るに、泉甘く土肥え、野曠く山低く、宜しく邑を設け家を構へ、以て栖居を為すべし。而して今、食物有ること没く、日日海辺に出でて螺貝を拾取し、以て日度を致す。是れに由りて夫婦、共に伊敷泊に到り、以て子孫繁衍、食物豊饒を祈る。未だ尽くは祈り畢らざるに、倏ち一白壺の波に随ひて浮び来る有り。白樽、衣を掲げて海に入り、撈せんとするに、其の壼波間に湮没し、肯て看見せず。婦女、屋久留川に至りて其の身を沐浴し、改めて潔衣を穿ち、亦他の浜に行き、衣袖を展開して以て白壼を挨つに、白壺自ら袖上に来る。婦女、喜びて其の壺を執り、其の蓋を控開するに、内に麦三種(一は小麦、一は葉多嘉麦、一は大麦)・粟三種(佐久和・餅也・和佐)・豆一種(俗に小豆と呼ぶ)を載す。即ち其の種を古間口の地に播く。節、正月に届るや、麦穂出発すること、甚だ常の麦と異なる。白樽、深く之れを奇異とし、之れを禁城に奉献す。二月に至り、その麦已に熟し、恭しく吉旦を択び、其の麦を奉献す。王深く之れを喜び、而して之れを頂戴し、即ち人をして神酒を醸し、以て各処の森岳を祭らしめ、次に百工に賜ふ。此れよりの後、五穀豊饒し、予孫繁衍し、遂に以て邑と為る。之れを名づけて久高島と曰ふ。其の長女於戸兼、専ら祝女職に任じ、各岳の祭祀を掌る。長男真仁牛は、父の家統を襲ぐ。其の子孫、延きて今世に至るまで、外間根人為り。(『遺老説伝』巻二)
⑨同右~五穀之基者、久高嶋之浜に海より甕小浮上り候を、久高之大王はあく見付、不審与思ひ、右甕小請取、見分仕候処、五穀之種子入置被候付、地方ニ蒔入、崩立(萌)、実入時分、珎敷与思ひ、成熟之砌者春調、天孫子江差上、此より雨粕之初ニ而、五月五日ニ者、砂糖おかけ申ず雨美粕拝調、美御すし御前、御火鉢御前江差上、大君加那志御頂被候。右付百人御物参者。(『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』)
①沖縄本島・沖縄県島尻郡知念村久高島~五穀は、アマミキョとシネリキョが持って来られた。アマミキョが、瓢箪のなかに麦・粟・豆・アダカ・米を入れて流した。その瓢箪が伊敷浜に着いた。アカチュミ神が取ろうとしたが取れなかったので、ヤグルガーで身を潔めると取ることができた。麦・粟・豆などは、ハタシュバルに蒔いたが、米は百名の受水・走水に持って行って蒔いた。(「昭和六十二年度 立命館大学説話文学研究会採集稿」)
②沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村仲田~沖縄のいちばん上の神さまであるアマミキョが中国から米の種を久高島に持ってきた。しかし、そこには田圃がなかったので、知念村の受水走水に植えつけた。(『いぜな島の民話』)
③沖縄本島・沖縄県祗島尻郡知念村久高島~シラタルーとファーガナシは兄妹で、久高島の先祖である。東海岸の伊敷浜で神に祈って七種類の種子を得て、これを栽培して子孫が繁栄した。(『沖縄県久高島資料』)
④同右~アマミキョが奄美大島から来るとき、海が荒れてタニムンの壷がなくなった。それには大麦・小麦・裸麦・粟・アデカの苗が入っていた。それが幾世代か経って久高島に着いた。アカチミが取ろうとしたが取れず、アカチミのウミナイビ(シマリバー)がヤグルガーで水浴びして、左の袖で取った。(「沖縄民俗研究」三号)
⑤同右~伊敷浜から海を見ると、沖の方に三つの大石がある。その南側の石の二ところの真中から壺(瓢箪)が流れ込んできた。アカミチューが取ろうとしたら逃げたので、アガリウフザト(大里家)に行って、そこのカミンチューと相談し、シマリバー(妻)といっしょにヤグルガーで禊をし、白衣に着替えて伊敷浜に戻ると、壼を取ることができた。その壼の中には、裸麦・粟・小豆・米・アダカの実が入っており、米以外は久高島のハタスに蒔き、稲は玉城・百名の受水走水に蒔かせた。(同右)
⑥沖縄県那覇市首里~五穀ノ祭神ト申スハ、当初、穴居野処、物与相友、?傷之心有無。未稼稷知らず、草木之実食、未火化有ず。禽獣之血飲、而其毛茹ナドシテ、人繁栄、成難ケレバ、阿摩美久、天ヘノボリ、五穀ノ種子ヲ乞下リ、麦粟菽黍ノ、数種ヲバ、初テ久高嶋ニゾ蒔給。稲ヲバ、知念大川ノ後、又玉城ヲケミゾニゾ芸給。去程ニ、麦ハ春ノ中、稲ハ夏ノ初ニ、熟シテケレベ、先ヅ天神地祗二、祭ントテ、七日戒、三日斎シテ、祭リテケレバ、天神地祗モ、悦ノアマリニヤ、現ジ給テ、初テ寿ヲゾシ給ケル。
今在々取々(所カ)、春夏四度ノ祭神、其始ナリ。二月ニ久高ノ行幸、四月ニ知念・玉城ノ行幸モ、其ヨリシテ始リケル。是又、本報始返之大祭也。敬可々々。吾朝神国ト申ハ、此等ノ事ニ依テ也。」(『中山世鑑』巻一)
⑦沖縄県那覇市首里~古自、二月麦ノミシキヨマノ時、隔年一次、幸于久高嶋行。(聞得大君・司雲上・按司、御召列也)御祭礼有也。(此時間切於、位昇進之言上、之有也)然。
尚貞王御宇、康煕十二年癸丑、二月十一日至、改而当役遣、御祭礼有也。聖主親ラ、御渡海ノ儀、之止由、評定所日記見也。祭奠所之品物、遏達理職御双紙見。此由来者、阿摩美久天上、下五穀之種子而乞、麦・粟・菽・黍・数種、始於久高嶋蒔、稲於知念・玉城芸也。玆因 聖上、親幸于久高嶋而行、御祭礼有也。且春夏四祭、于此始。詳于中山世鑑見。且久高嶋古老者、俗説、上古、天孫氏世代(何世幾代考得ず)アナゴノ子ト云人、彼嶋ニ住居始タル、根人ナリ。妻者アナゴノ姥ト云。或日アナゴノ子、漁猟ニ、伊敷泊ニ出時、汀ニ白壼一浮テ、ヨリ来ヲ見テ、是ヲ取ントスルニ、取被ズ
、又遠ク離ズ。此如スル事、両三度及雖、了ニ取得ズ。然ドモ遠流ズ。急ギ帰宅シテ、妻ニ話ル(マゝ)。婦云。此壼必由有ラン。沐浴潔斎シテ、徃テ是ヲ取レト云。夫沐浴シテ、白衣ヲ著シ、再ビ汀ニ往向ヒ、袖ヲ攤ケ待ツ。忽然トシテ、寄来ル濤ニ副テ、壺輙袖ニ乗ル。取揚テ家帰、壷ノロヲ開看ルニ、麦・粟・黍・?・豆・檳榔・アザカ・シキヨ、七種アリ。是皆栽ユル種ト心得ヘテ、所所ニ此種子ヲ蒔ク。時ヲ得テ、皆生ルナリ。数種ノ内、麦ハ春成熟ス。故二月、麦穂祭ト称、祭礼有也。粟・黍・菽、夏成熟ス。濱榔高ク、於諸木秀、アザカ・シキヨ、繁茂有テ、森岳ト成ル。此森岳ニ、君真物出現、託遊アリ。実ニ神ノ在、玄岳ナリ。粤ニ森岳始建ツトナリ。此数種寄来リ、皆生長有テヨリ、百姓、神ノ威光ヲ崇、悉く信仰篤ク致所ト。(云云)且此数種入タル壷、土中ニ埋タル所アリ。石ヲ積ミ囲繞シ今ニアリ。前世、掘リ見ント望者有、鍬ヲ立ルニ、烈風吹、忽チ死為者、一両輩有ト、申伝ルナリ。此麦成熟時、于朝廷棒。聖上詔宣ク、是レ人民養育スル穀物ト。
御歓喜斜ズ。玆因、隔年一次、二月日撰、幸于久高嶋行。神祗御祭礼始ルト、謂伝ナリ。行幸還幸、共ニ御船ニテ、神唄コヱナ、アリヶルト也。(『琉球国由来記』巻一)
⑧沖縄県那覇市首里~往古の世、玉城郡百名邑に、一男人有り、乳名は白樽。賦性至孝にして操心仁義。恒に善事を為し、敢て悪を為さず。玉城按司、深く之れを褒美し、遂に長男免武登能按司の女を以て娶して他の妻と為す。一日、夫婦一同に、野に出で山に登り、光景を玩楽す。忽ち東溟の中に一小島有りて、波濤の間に隠見するを看る。白樽、深く奇とし且つ怪とし、時々其の野に出で行き、用心之れを看る。日晴れ雲散じ風和やかに波静かなれば、則ち一島を現在し、隔海甚だ近し。此の時、威勢相競ひ、于戈未だ弭まず。是に於て、白樽深く此の世の変乱を厭ひ、以て海島に遁去せんとす。夫婦相共に商議し、即ち小舟に乗じ、東に向ひて行く。未だ一瞬息ならずして、早や他の島に至る。舟を繫ぎて上岸し、遍く四境を巡るに、泉甘く土肥え、野曠く山低く、宜しく邑を設け家を構へ、以て栖居を為すべし。而して今、食物有ること没く、日日海辺に出でて螺貝を拾取し、以て日度を致す。是れに由りて夫婦、共に伊敷泊に到り、以て子孫繁衍、食物豊饒を祈る。未だ尽くは祈り畢らざるに、倏ち一白壺の波に随ひて浮び来る有り。白樽、衣を掲げて海に入り、撈せんとするに、其の壼波間に湮没し、肯て看見せず。婦女、屋久留川に至りて其の身を沐浴し、改めて潔衣を穿ち、亦他の浜に行き、衣袖を展開して以て白壼を挨つに、白壺自ら袖上に来る。婦女、喜びて其の壺を執り、其の蓋を控開するに、内に麦三種(一は小麦、一は葉多嘉麦、一は大麦)・粟三種(佐久和・餅也・和佐)・豆一種(俗に小豆と呼ぶ)を載す。即ち其の種を古間口の地に播く。節、正月に届るや、麦穂出発すること、甚だ常の麦と異なる。白樽、深く之れを奇異とし、之れを禁城に奉献す。二月に至り、その麦已に熟し、恭しく吉旦を択び、其の麦を奉献す。王深く之れを喜び、而して之れを頂戴し、即ち人をして神酒を醸し、以て各処の森岳を祭らしめ、次に百工に賜ふ。此れよりの後、五穀豊饒し、予孫繁衍し、遂に以て邑と為る。之れを名づけて久高島と曰ふ。其の長女於戸兼、専ら祝女職に任じ、各岳の祭祀を掌る。長男真仁牛は、父の家統を襲ぐ。其の子孫、延きて今世に至るまで、外間根人為り。(『遺老説伝』巻二)
⑨同右~五穀之基者、久高嶋之浜に海より甕小浮上り候を、久高之大王はあく見付、不審与思ひ、右甕小請取、見分仕候処、五穀之種子入置被候付、地方ニ蒔入、崩立(萌)、実入時分、珎敷与思ひ、成熟之砌者春調、天孫子江差上、此より雨粕之初ニ而、五月五日ニ者、砂糖おかけ申ず雨美粕拝調、美御すし御前、御火鉢御前江差上、大君加那志御頂被候。右付百人御物参者。(『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』)
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