てぃーだブログ › 琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~ › 琉球沖縄の伝説・沖縄本島編 › 運天港と牧港の名の由来 ~琉球沖縄の伝説

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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第67話。


運天港(うんてんこう)牧港(まきみなと/まちなと)の名の由来



 むかし((むかし)伝説(でんせつ)です。
大和(やまと)の、源為朝(みなもとのためとも)には、兄弟達(きょうだいが)沢山(たくさん)おりました。ところが兄弟同士(きょうだいどうし)(いく)さになりました。そして為朝(ためとも)(いく)さに()けて、奄美(あまみ)鬼ヶ島(きかいじま)に、(はじ)めは(なが)()いたということです。
 鬼ヶ島(きかいじま)(なが)()くと、島の鬼達(おにたち)から「為朝(ためとも)は神だ。この人は人間ではない。」などと言われたそうです。
 というのも為朝(ためとも)は、容姿容貌(ようしようぼう)(ひい)でている上に、とても大きな体格(たいかく)だったため、鬼達(おにたち)はこの人を見るなり神に違いないと思ったのだそうです。
 また、この人に対して(へん)手出(てだ)しでもしようものなら大変(たいへん)な事になると、鬼から(おそ)れられたそうです。
 こうして為朝(ためとも)は、鬼達(おにたち)(みな)(おさ)めたのでした。
 しかしながら為朝(ためとも)は、この地が自分の(つい)棲家(すみか)ではないとして、沖縄本島(ほんとう)(わた)ろうとしました。ところがその時、暴風(ぼうふう)()ったのでした。
 (つま)部下達(ぶかたち)(みな)恐怖(きょうふ)(あま)(さわ)ぎ立てたところ、為朝(ためとも)が言うことには、
 「これは、(おんな)である私の(つま)()せているため、海の神がお(いか)りなのだ。このままでは(ふね)難破(なんぱ)してしまう。」と。
 そして自分の(つま)(うみ)(ほう)()げました。するとその途端(とたん)(かぜ)が、ぱったり()んだのでした。
 しかしながら、それまでの暴風(ぼうふう)のため、(ふね)はかなりの打撃(だげき)()けていて、最早(もはや)自走(じそう)することが出来(でき)ません。(うん)(てん)(まか)せて航行(こうこう)していたところ、今帰仁(なきじん)運天(うんてん)辿(たど)()いたそうです。そのために運天(うんてん)という地名(ちめい)到着(とうちゃく)した場所に()いたと言われています。
 また、運天港(うんてんこう)(ちか)くを今帰仁(なきじん)というのは、為朝(ためとも)(あが)めて「今の鬼神(きしん)」と呼んだのが(もと)になって今帰仁(なきじん)と言われるようになったとの()(つた)えがあります。
 さて、上陸(じょうりく)した為朝(ためとも)は、運天(うんてん)から首里の方向に(すす)んで()きました。その(ころ)、その(あた)りにモーフンという者がいて、世の中を(みだ)すような事ばかりしていて、どうしようもありませんでした。たまたま通り()かった豪族(ごうぞく)高貴(こうき)女性(じょせい)をモーフンが()い回していたところ、偶々(たまたま)為朝(ためとも)がその娘を助ける事になりました。モーフンは為朝(ためとも)を見るなり(おそ)れをなして、一目散(いちもくさん)()げて()ったのでした。
 (たす)けられた(むすめ)為朝(ためとも)の妻になり、琉球(こく)始祖(しそ)瞬天(しゅんてん)王統(おうとう)の最初、舜天丸(しゅんてんまる)出産(しゅっさん)し、舜天丸(しゅんてんまる)はやがて成長(せいちょう)すると、かつて母を(はずかし)めようとしたモーフンを退治(たいじ)したのでした。
 それから(のち)のことです。
 為朝(ためとも)は、(つま)()に、少しの間、故郷(こきょう)()ってまた(かえ)って()るからと約束(やくそく)すると、港から内地(ないち)に向かって旅立ったのでした。
 それからというもの、何年もの間、妻と子は待ち続けました。
 しかしながら、()っても()っても為朝(ためとも)が二度とその(みなと)に帰って来る事はありませんでした。そのため、マチミナト(牧港)という()が、その(みなと)()いたそうな。

 
 
※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字伊良皆~『伊良皆の民話」読谷村民話資料1
奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~『大奄美史』『奄美大島史』
奄美・鹿児島県大島郡瀬戸内町加計呂麻島~『奄美民族誌』
同上~『奄美大島かけろまの民俗』
奄美・鹿児島県大島郡徳之島~『大奄美史』『奄美大島史』
奄美・鹿児島県大島郡沖永良部島~同上
沖縄本島・沖縄県国頭郡今帰仁村運天~『今帰仁村史』
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~『宇座の民話』読谷村民話資料6
沖縄本島・沖縄県那覇市牧志~『那覇の民話資料』第五集那覇地区
沖縄本島・沖縄県島尻郡大里村~『島尻郡誌』


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●伝承地
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村字伊良皆~源為朝には、兄弟達がたくさんいたそうだよ。内地で兄弟同志で戦さしてね。そして為朝は、負けてね、初めは鬼ヶ島に流れ着いたらしい。鬼ヶ島に流れつくと、鬼ヶ島の鬼達からも、為朝は、「神様だ。この人は人間ではない」と言われた。姿かたちもよくて、また体格でも、もう大きいもんだから、鬼達も、「神様だこの人は。この人にでも手だししようものなら大変だ」と言って恐れて。それで為朝は、もう皆鬼達も治めた。またそれから、ここで住むのではないとして沖縄に渡るときに、暴風にあってしまってもう、妻や部下達が皆騒ぎたてると為朝は、「これは、自分の妻である女を乗せているからこの難船にあうのだ」と言って、自分の妻を海に放り投げたそうだ。そうすると風も止んで、運を天に任せていると今帰仁運天に着いたという話だ。それで、運天という地名を付けたということだが。
 また、運天から首里に上って行くと、そこでは、モーフンが王の邪魔をしてしょうがなかった。王様をさまたげ、この琉球王の妻が追われてくるのをこの為朝が助けた。モーフンは、為朝を恐れて逃げてね。それで、その妃を助けたので、妃は為朝の妻になってね、そうして舜天丸を出産して、そして、その舜天丸がこのモーフンを退治したという話を聞いたが。そしてそれから後、為朝が妻と子に、「あなた達は牧港で待ってなさいね。私は故郷に行ってから、また帰って来るから」と約束して、内地に為朝は行った。それから妻と子は、 「もう、何年何月何日には、帰っていらっしゃると言っていたから」といって待っているが、待っても待っても帰っていらっしゃらなくて、待っても待てなくなって、マチミナト(牧港)という名を付けたという話だが。(『伊良皆の民話」読谷村民話資料1)
奄美・鹿児島県大島郡喜界町小野津~為朝が島近くに来て、雲か島かと矢を放った。そこに清水が湧き出たのが、雁股の水と称し、今に伝える。為朝は上陸して一軒の家に入ると、機を織る美しい娘が、為朝さまのおいでをお待ちしていたと、夢のお告げを語った。これが縁で夫婦の契りを結び、娘はやがて妊娠した。為朝は氏神の賜物と八幡大菩薩を祀ったが、それが今の小野津八幡となった。その後、御子が誕生したが、喜界島は狭過ぎるとて大島に移り、その子孫がそこにいるという。(『大奄美史』『奄美大島史』)
奄美・鹿児島県大島郡瀬戸内町加計呂麻島~為朝が伊豆大島に流されて、附近の島々を征伐するとき、暴風に吹き流され、奄美大島の南端西古見の港に碇泊して順風を待った。ある日、為朝は家来を連れて真向うに見える加計呂麻島の実久に遊びに出かけたが、その夜は、八月踊りで、島守林太夫もやって来て、多くの女童たちといっしょに踊って為朝をもてなした。その踊りのなかのひとりに美しい娘がおり、為朝は魅せられて、船を西古見から実久に回し、その娘の許に一、二ヶ月滞在した。まもなく娘はみごもったが、順風を得て琉球へ赴くこととなったので、為朝は娘を大力の大与穂加那之に託し、男子なれば系図を与えよと言い残して去った。(『奄美民族誌』)
同上~為朝は喜界島から大島に渡り、名瀬・大和浜・宇検・西古見を移り渡り、加計呂麻島の芝・実久にやってきた。実久では、島の娘と恋仲になり、子どもができ、その子孫に実久三次郎という豪族も生まれた。かつて加計呂麻島の東半を鎮西村と称したのは、鎮西八郎為朝にちなんだものである。(『奄美大島かけろまの民俗』)
奄美・鹿児島県大島郡徳之島~犬田布岳の頂上に二個の岩石があるが、これは為朝が行く手の航路を見定めるために腰を降ろして眺めた石という。また天城岳の頂上には、為朝を祀る祠があるが、これは為朝の滞島中に、島民の難船を救ったという恩に感じて建てられたものという。(『大奄美史』『奄美大島史』)
奄美・鹿児島県大島郡沖永良部島~為朝は畔布に滞在しており、手々知名の平山家、赤館の竜家はその子孫と伝わる。(同上)
沖縄本島・沖縄県国頭郡今帰仁村運天~運天港の北方には、為朝が潜伏していたという寺原の洞窟がある。中に拝所ありてビジュルの霊石があって、土地の人は年に二回拝すという。為朝は漂着後、湧川村の海岸下我部で、隠居の翁に食塩の製法を教えたと言い、その地に塩屋の御岳がある。為朝数日間病に罹り、ひそかに夜中に逃走したので、翁は自分に迷惑をかけまいと身を投じたのかと考え、近隣の者ともども、七日ごとの祭りをした。その地を割海(わりみ)の寺という。寺の名がついたのは、為朝が僧侶の姿で来たからと伝え、ここにも霊石のビジュルがあり、土地の人は航海や船の行方を占う。(『今帰仁村史』)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~為朝は、屋号、大里ヌン殿内のウメーを妻にしたが、ある日牧港から内地に帰った。それで、その妻は待ち詫びて順風のあるたびごとに、牧港で為朝の帰りを待ったが、とうとう帰って来なかった。それで、港の名を「牧港」
と言うようになった。(『宇座の民話』読谷村民話資料6)
沖縄本島・沖縄県那覇市牧志~為朝は大島に流され、暴風雨に遭って流されて、沖縄の運天港に着いた。運を天にまかせたというので運天港と呼ばれることとなった。南部に来て、大里按司の聟になり、再興のため本土に戻ろうとしたが、舟には女は乗せられないということであった。それで大里按司は、帰りを港で待っとったので、マチの牧港と呼ばれた。二人の間にできた子が沖縄王になった。(『那覇の民話資料』第五集那覇地区)
沖縄本島・沖縄県島尻郡大里村~為朝は、海路で京に上る途次、暴風に遭遇し波浪に奔弄され、運天の港に漂着した。そこから南下して、大里按司の許に寄寓、その妹と契って舜天をもうけた。その住した跡を和解(うけ)森と称し、大里の人の拝する所となっている。
(『島尻郡誌』)


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ウイングさま。はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

それはそれは、僕も書いた甲斐がありました。

きっと、お父様もニライカナイで、
話を通して、心が通じ合って、およろこびのことと思います。

それにしても、
ウイングさんのお父様は、49歳とは、随分、お若くして亡くなられたのですね。
お母様や ウイングさんは、ご苦労なさったことでしょう。

お父さまとの素適な思い出や、素適な話は、
ウイングさんの心の中で、いつまでも生き続けます。

コメントありがとうございました。
では。
Posted by 横浜のtoshi at 2010年12月19日 14:27


この話は唯一幼いころ父から聞かされた
話でした。うる覚えでしたので、今日は
ちょっとうれしかったですね~。
49歳で亡くなった父でしたが、お話以上に
父のことをを思い出す機会になり暖かい
気持ちになりました。^^
Posted by ウイング at 2010年12月19日 11:13


カオリさん。
はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。。

ご訪問、ありがとうございます。

カオリさんが、おっしゃる通りで、
奄美大島の横、喜界島のことだとする説があります。

沖縄本島から見て、喜界島の方向は、
残念ながら、ニライカナイの方向とは違います。

ですから、沖縄本島から、喜界島とニライカナイを結びつけるのは、
ちょっと無理があります。


その一方で、
沖縄には、奄美の方角から人々が渡ってきたという説があり、
沖縄と奄美の島々とは、切っても切り離せない関係にあります。


沖縄や奄美では、神との交信は女性、
特に、姉妹が、兄を守るために祈ることが、最初でした。
日本神道では、他の地域でも、それは同じです。

やがて、
琉球国の時代、尚真王の時に、
神女体制が、強固なものとして確立します。

王や国家を、
姉妹や妻が、聞得大君(チフィジン)として守護し、
聞得大君を頂点に、「祝女(ノロ)」、八重山では「司(ツカサ)」が、
地方の神事を通して地域をおさめる国家体制ができあがります。

これによって、神女体制は、より重要な役割をにないます。


ところで、
『桃太郎』の話は、全国的にあります。
その中に、鬼ヶ島を、喜界島とする説があります。

奄美大島周辺を、荒らし回っている海賊行為を繰り返す人々がいて、
それを鬼として描かれたのが『桃太郎』だという説です。

沖永良部島では、桃太郎はニラの島へ行ったとなっています。
龍宮であるニラの島で、
さらわれていった島民はみな、鬼に食べられ、桃太郎が鬼退治に行きます。
まさにニラも龍宮も、ニライカナイですが、やはり方角に問題が残ります。

なお、桃太郎の子分、犬(いぬ)、猿(さる)、雉(きじ)は、一族をあらわし、
桃太郎の鬼退治に、力を貸した人々とされます。

歴史的史実があって、それが物語や話になる、
それが民話や伝承の特徴です。


源為朝(みなもとのためとも)伝説ですが、
実際に、平安時代後期に存在した武将です。

別名、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)。

日本の歴史上の人物であり、伝説の人物でもあって、
あちこちに、伝説が残っています。

弓が上手な、大変な豪傑で、15歳で九州を平定したといわれています。

保元の乱という戦争の時、
父の、源為義(ためよし)とともに、為朝(ためとも)は、
崇徳上皇に味方して負けます。

一方、
鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)の父、源義朝(よしとも)は、
為朝(ためとも)の兄で、
平清盛とともに、後白河天皇に味方して勝ちます。

そして、為朝(ためとも)は、
兄の源義朝(よしとも)に捕らえられ、伊豆大島に流され、最後をとげます。

ところがそうではなくて、
奄美に辿り着いた、沖縄に辿り着いた、という話が残っているわけです。

それらの話は、琉球渡来伝説と言われる、源為朝伝説です。

伊豆大島から奄美大島や沖縄に渡ったというのは、
かなり厳しい説と、今では考えられています。

その一方で、
沖縄本島の、あちこちに、いくつもの源為朝伝説があります。

その理由ですが、
沖縄の「舜天王(しゅてんおう)」伝説のためです。

舜天王は、琉球の王として、歴史上的に初めて名を残す伝説の人です。
そして伝説では、為朝(ためとも)の子とされています。

僕は、沖縄や奄美を初めて訪れた時、
なぜこんな所に、源為朝の伝説があるのかと、驚いたものです。

以上、背景や補足を、書いてみました。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2010年12月19日 09:14


とても興味深いお話をありがとうございます。

もしかして『鬼』が今は『喜』になっている島のことでしょうか。
つい最近、その島について色々上司から聞きました。
歴史を知らない現代人(私)から考えると謎の多い島、何かしらある島のように思いました。


ニライカナイから来たと思ったのかな(笑)?歴史には色々な表現で記されているかもしれませんが、島歌や語り継がれている悲しい詩には女性歴史も感じます。

女性がまつりを司る役目だった沖縄。神との交信は女性です。

きっとこの妻は自ら海に身を投げたんだと私は感じました。
Posted by カオリ at 2010年12月19日 04:45


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

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