行盛の最期 ~琉球沖縄の伝説

2010年12月20日

Posted by 横浜のトシ at 20:20│Comments(0)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第69話。


行盛(ゆきもり)最期(さいご)



 昔々(むかしむかし)のお(はなし)です。
 源平(げんぺい)合戦(かっせん)(やぶ)れた、平家(へいけ)一族(いちぞく)落人(おちうど)が、奄美大島(あまみおおしま)漂流(ひょうりゅう)して()ました。
 平家(へいけ)落人(おちうど)(おも)だった(ひと)をあげると、笠利村(かさりそん)屋仁(やに)に「蒲生(がもう)」、安木屋場(あんきゃば)に「今井(いまい)」、戸口(とぐち)に「行盛(ゆきもり)」、浦上(うらかみ)に「有盛(ありもり)」といった人々(ひとびと)がおりました。
 この者達(ものたち)は、それぞれの()(しろ)(きず)いて番兵(ばんぺい)配置(はいち)し、自分たちの()(まも)っておりました。
 また、平家(へいけ)仲間同士(なかまどうし)連絡(れんらく)(けっ)して()やしませんでした。
 なおその平家の人々の中で、有盛公(ありもりこう)(くらい)一番上(いちばんうえ)でした。
 そこで、蒲生(がもう)今井(いまい)は、その()異状(いじょう)があるかないかを、戸口(とぐち)行盛(ゆきもり)翌朝(よくあさ)まで()らせ、その知らせを行盛は夕方迄(ゆうがたまで)有盛(ありもり)()らせるという、伝達(でんたつ)手段(しゅだん)確立(かくりつ)し、(かなら)()めて()るに(ちが)いない源氏(げんじ)(そな)えていたのでした。
 そんな(おな)じことの()(かえ)しの生活(せいかつ)は、四十数年間に(およ)びました。その(かん)平家(へいけ)人々(ひとびと)は、奄美大島(あまみおおしま)の人々に、色々(いろいろ)学問(がくもん)その()(つた)えて、普及(ふきゅう)させたのでした。
 そんな、ある日のことです。
 安木屋場(あんきゃば)今井(いまい)家来(けらい)の一人が、大勝(おおがち)にいた、とても綺麗(きれい)女性(じょせい)()()って、段々(だんだん)懇意(こんい)になり、ある時、戸口(とぐち)到着(とうちゃく)する時間(じかん)大幅(おおはば)(おく)れてしまいました。
 そのため戸口(とぐち)行盛(ゆきもり)(はじ)めとする人々(ひとびと)は、(つい)源氏(げんじ)()()んで、今井(いまい)全滅(ぜんめつ)したと(かんが)えました。そこで、(てき)(やいば)にかかるよりはと覚悟(かくご)()め、(ただ)ちに切腹(せっぷく)して()てたのでした。
 すると蒲生(がもう)も、今井(いまい)(ほろ)ぼされ、行盛(ゆきもり)達が切腹(せっぷく)したと()(およ)んで、(あと)を追うように、(みな)切腹(せっぷく)して()てたのでした。
 女と(たわむ)れて(あそ)(ふけ)っていた今井(いまい)家来(けらい)は、今井(いまい)蒲生(がもう)切腹(せっぷく)して()てたと耳にし、(あわ)てて戸口(とぐち)()ってみたところ、(すで)にみんな()んでいました。(また)()ぐその足で蒲生(がもう)へ行ってみましたが、同様(どうよう)有様(ありさま)でした。
 その家来(けらい)は、(すべ)ての事の()こりが自分(じぶん)にあると(さと)って、責任(せきにん)をとってそこで切腹(せっぷく)しました。
 一方(いっぽう)、今井は家来(けらい)戸口(とぐち)から帰らず、行盛(ゆきもり)蒲生(がもう)切腹(せっぷく)したと()(およ)び、(つい)源氏(げんじ)()めて()(みな)やられてしまったと(おも)いました。そして切腹(せっぷく)して果てました。そして間もなく、有盛(ありもり)達も、(あと)()ったのでした。
 その()奄美大島(あまみおおしま)人々(ひとびと)は、それぞれの場所(ばしょ)神社(じんじゃ)(つく)って、御霊(みたま)(まつ)りました。それが、現在のそれぞれの神社です。
 なお、龍郷(たつごう)の一番高い山に、おで森、という場所があります。
 現在、龍郷(たつごう)では、妊娠(にんしん)している女性(じょせい)が、そこにお(まい)りすると、綺麗(きれい)()どもに(めぐ)まれると言われています。そこにある(はか)は、今井(いまい)家来(けらい)(つう)じていた綺麗(きれい)女性(じょせい)のものではないかとされているためです。
 また、そこに向かって、(いま)でも、年に二、三回、安木屋場(あんきゃば)今井(いまい)(まつ)った神社から、おで森へ、()(たま)()んでいくのが目撃(もくげき)されます。
 龍郷(たつごう)の人々はそれを見ると、きっとそれは今井(いまい)家来(けらい)(たましい)が、(いと)しい女と子どものもとへ()んで行くのだと(はな)しているのだそうな。



※この話の参考とした話
柳田~「平家谷」
奄美・鹿児島県大島郡奄美大島~「奄美民俗」2号
奄美・鹿児島県大島郡奄美大島~『大奄美史』『奄美大島史』
同上~『奄美民族誌』
奄美・鹿児島県大島郡笠利町節田~『宮古島庶民史』
沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町竹富島~『竹富町誌』
沖縄先島・沖縄県八重山郡与那国町祖納~『ひるぎの一葉』


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●伝承地
柳田~「平家谷」
奄美・鹿児島県大島郡奄美大島~源平合戦で破れた平家の一族の落人が大島に漂流してきた。大体のメンバーをあげてみると、笠利村の屋仁に蒲生、安木屋場に今井、戸口に行盛、浦上に有盛という人々がいた。この人達は他に番兵を従え、それぞれの地で身を守っていた。そのうちでも有盛公が一番偉かった。それで蒲生と今井の方は戸口の行盛に明日の朝まで異状があるかないかを知らせるのでした。そして行盛の方は夕方までに有盛のところに知らせるというふうに毎日同じことをくりかえしていた。それが、ある日、安木屋場の今井の方の家来が大勝にいるきれいな女の人と知り合い、戸口に到着する時間を超過してしまった。それで戸口の方の人達は源氏が攻めてきてやられたんだと考え、直ちに切腹してしまった。又蒲生の方も同様に考え、皆んな切腹してしまった。遊びふけった今井の家来はあわてて、戸口へ行ったところ、戸口の人達は皆んなすでに死んでいた。又、蒲生の方へ行ってみると、やはり同様であった。そこで、その家来は驚いて又、切腹した。今井と蒲生の方も家来が帰らないので源氏が攻めてきてどこでか、やられたなと思いそれぞれ切腹してしまった。そこで、その人々は大島に色々学問やその他を普及したので、当地にすんでいる住民が神社を造って祭ったのが現在の神社であるらしい。そして竜郷の一番高い山(おで森)というところがある。現在、竜郷では妊娠している婦人がお参りすると、きれいな子供ができると言われている事から判断すると今井の家来と通じていた女の人の墓ではないかと推定できる。そこで現在でも年に二、三回ぐらい安木屋場の今井を祭ってある神社から、そのおで森へ火玉が飛んでいくといわれています。そして竜郷の人々が言うには今でも二人は恋人としておつきあいをしているのではなかろうかと話しているそうです。(「奄美民俗」2号)
奄美・鹿児島県大島郡奄美大島~資盛は島の西南部東間切・西間切・屋喜内間切を領有し、加計呂麻島諸鈍に居城を構え、有盛は島の北部名瀬間切・笠利間切を領して浦上に居城を置き、行盛は島の東部古見間切・住用間切を領して戸口に牙城を築いた。今日、諸鈍の大屯神社、戸口の行盛神社、浦上の有盛神社がその跡である。浦上の行盛には一人の若君があったが、夜漁見物にたびたび安木屋場の今井遠見番の許に行くうちに、その途中の浦という部落の美しい娘と恋仲となって通うことになった。ある日若君は、今井権太夫の許に行った帰りに、七日ごとに無事を報ずる遠見の注進を頼まれながら、それを忘れて浦に逗留し、権太夫の依頼を果さなかった。戸口の行盛は、我が子も今井も攻め手に討たれたと思い、覚悟を決めた。それを聞いた今井は責を負うて屠腹した。若君は、それとは知らず数日して戸口に戻り、ことの重大さに驚き、腹掻き切って死んだ。浦の娘は、すでに若君の子を宿しており、しばらく若君の訪れぬ間に男の子が生まれた。娘は、若君の赤児を見せるべく戸口に赴いて、若君の死を知り、そのまま若君の墓に詣って、赤児を刺し殺し、自らも松の木に首を縊って死んだ。この松を今に平松と呼んで、「うれより美(きよ)らさや戸口の平松、云々」と歌によんでいる。(『大奄美史』『奄美大島史』)
同右~安木屋場の見張番の今井権太夫は、毎日戸口の城まで八里の道を往来した。その途中、久場と竜郷の中間の番屋という小浜に、万千代(まんちえ)という美女がおり、この女の許に立ち寄るようになって、子どもまで儲けるに至った。そのため、次第に戸口への報告を怠るようになった。源氏の状況を案じた行盛が、使いを見張所の権太夫の許に遣したが、権太夫の姿がなかった。戸口の行盛は、使いの帰りの遅いのは、権太夫ともども、源氏の襲撃に会ったものと速断し、権太夫が戸口に駈け付けたときには、割腹自害して果てていた。主君を殺した責任を感じた権太夫も、その後を追って自害したが、万千代もまた、すべて自分の身から出たことと、子どもともども自害して世を去った。(『奄美民族誌』)
奄美・鹿児島県大島郡笠利町節田~戸口の行盛は、今井権太夫を失い、わが子を失ったので、平家の世はこれでお終いだとして切腹した。それを追って、平家の人々は、次々と自害した。平家がヤナ島(奄美大島)を守ること四十三ヶ年であった。(『奄美・笠利町昔話集』)
沖縄先島・沖縄県宮古郡平良市狩俣~狩俣は、平家の残党の漂着した所という。狩俣北方の仲間御岳根所は、平家落人と関係する家筋であると伝える。(『宮古島庶民史』)
沖縄先島・沖縄県八重山郡竹富町竹富島~壇の浦を落ちのびた平家武者の赤山(あかやま)王が流れ着いたところが美崎であった。赤山王は竹富島にたどり着くと、美崎に洞穴を見つけて住み、島人とも親しくなった。さらに赤山王は島の中央の大岩に登り、島を見渡せる所に住まいを作った。これを赤山岳と名付けている。その子孫が、今も赤山岳のそばに住んでいる。(『竹富町誌』)
沖縄先島・沖縄県八重山郡与那国町祖納~平家一門の人々は、祖納の東方一里のアダネバナに至り、サンニノダイの高地に登って、望郷の悲しみに涙を流したという。(『ひるぎの一葉』)


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