儀部鉄人 ~琉球沖縄の伝説

2011年01月21日

Posted by 横浜のトシ at 20:20│Comments(4)琉球沖縄の伝説・沖縄本島編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第75話。


儀部鉄人(ぎべてつじん)


 むかし昔(むかし)、沖縄本島の金武(きん)の並里(なみさと)に、儀部(ぎべ)という家(いえ)があったそうです。
 ある時(とき)、この家(いえ)のお嫁(よめ)さんが身籠(みご)もりました。
 そして、丈夫(じょうぶ)な子(こ)を生(う)みたいと思(おも)って、大(おお)きなお腹(なか)をしている頃(ころ)から、頻(しき)りに鉄屑(てつくず)を食(た)べたそうです。
 すると、生(う)まれてきた子(こ)は、体(からだ)の半分(はんぶん)が、鉄(てつ)で出来(でき)ていたそうです。一方(いっぽう)で、鼻(はな)、耳(みみ)、口(くち)、目(め)だけは、人のそれと同(おな)じように出来(でき)ていました。
 さて、その子(こ)は、大(おお)きくなるにつれて、どんどん強(つよ)くなっていきました。
 やがて、あちこちの戦(いく)さに出掛(でか)けて行(い)っては、次々(つぎつぎ)に敵(てき)を負(ま)かしました。
 というのも、敵(てき)の兵隊達(へいたいたち)が、刀(かたな)で刺(さ)したところで、刀の方(ほう)が折(お)れてしまうのですから、全(まった)く歯(は)が立(た)たなかったのです。
 自然(しぜん)と、金武(きん)では、村(むら)一番(いちばん)の強者(きょうしゃ)として崇(あが)められるようになりました。
 すると、その話(はなし)を伝(つた)え聞(き)いた首里(しゅり)の王(おう)は、儀部鉄人(ぎべてつじん)を呼(よ)び寄(よ)せて、自分(じぶん)の家来(けらい)にしたそうです。
 そして、今帰仁(なきじん)や中城(なかぐすく)との戦(いく)さの時(とき)に、儀部鉄人(ぎべてつじん)は、とても活躍(かつやく)し、戦争(せんそう)も勝(か)ちました。
 さて、次(つぎ)の、薩摩(さつま)の国(くに)が、琉球(りゅうきゅう)に攻(せ)めて来(き)た戦争(せんそう)ですが、薩摩の人達(ひとたち)は船(ふね)でやって来(き)て、主(おも)に鉄砲(てっぽう)を使(つか)いました。
 薩摩軍(さつまぐん)が攻(せ)めて来(く)ると聞(き)いた儀部鉄人(ぎべてつじん)は、港(みなと)で薩摩(さつま)の兵隊(へいたい)を待(ま)ち受(う)けていました。
 儀部鉄人(ぎべてつじん)は、何(なに)しろ体(からだ)の半分(はんぶん)が鉄(てつ)で出来(でき)ているのですから、薩摩兵(さつまへい)が鉄砲(てっぽう)で撃(う)っても、弾(たま)を弾(はじ)き返(かえ)し、最初(さいしょ)のうちは奮戦(ふんせん)して戦(たたか)いました。
 しかし、遂(つい)に弾(たま)が鉄人(てつじん)の口(くち)に当(あ)たって、頭(あたま)から血(ち)を流(なが)して死(し)んでしまったそうです。
 それが儀部鉄人(ぎべてつじん)の最期(さいご)だったそうな。

※この話の参考とした話
高木~「弁慶島」・柳田~「弁慶島」
沖縄本島・沖縄県国頭郡金武町金武~『沖縄の昔話』
沖縄本島・沖縄県国頭郡今帰仁村~『今帰仁村史』
沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村宜野座~『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉
沖縄本島・沖縄県国頭郡金武町~『金武町誌』
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~『喜名の民話』読谷村民話資料2
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村長浜~『長浜の民話』読谷村民話資料3
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村儀間~『儀間の民話』読谷村民話資料5
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~『宇座の民話』読谷村民話資料6
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~『渡慶次の民話』読谷村民話資料7
沖縄本島・沖縄県那覇市繁多川~『沖縄昔話資料』第一集
沖縄本島・沖縄県那覇市寄宮~『那覇の民話資料』第三集真和志地区(2)
沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村諸見~『那覇の民話資料』第五集那覇地区
沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町津嘉山~『ふるさとの民話 南風原町』第一集
沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村諸見~『いぜな島の民話』


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●伝承地
高木~「弁慶島」・柳田~「弁慶島」
沖縄本島・沖縄県国頭郡金武町金武~昔、金武の並里に、儀部という家があったそうだ。それで、この家の嫁が妊娠したので、丈夫な子を生みたいと思って、大きなお腹をしている頃から、鉄屑を食べていたんだそうだ。それで、生まれた子は、体の半分が鉄でできていたんだそうだ。鼻とか、耳とか、口とか、目とか、それだけが人並にできていたんだそうだ。
 そして、その子は大きくなるにつれて、強くなっていたので、あちこちの戦争に出かけていって負かしてばかりいたそうだ。敵の兵隊たちが刀で刺そうとしたら、その刀の方が折れてしまって、歯が立たない人だったそうだよ。それで、金武の村では一番の強者だと皆から崇められていた。
 その話を聞いた首里の王様が儀部鉄人を自分の家来にしたそうだ。そして、今帰仁や中城との戦争の時に、鉄人がすごく頑張って、戦争に勝ったそうだ。薩摩との戦争でも薩摩の人たちが船で琉球に攻めてきたので、その頃の薩摩の国の人たちは鉄砲を使っていたので、儀部鉄人は港で薩摩の兵隊を待ち受けていたが、向こうの兵隊の鉄砲に撃たれても、始めのうちはなんともなかったが、ついにその弾が鉄人の口に当たって、頭から血がだらだらと落ちて、鉄人は死んだそうだ。これが儀部鉄人の最期だったそうだ。(『沖縄の昔話』)
沖縄本島・沖縄県国頭郡今帰仁村~為朝は今帰仁の勢理客ノロと契って一子を設ける。勢理客ノロは、神女の身で懐妊したことを恥じ、流産しようと、鉄を煎じて飲んだが、流産しない。生れた子の皮膚は、鉄のごとく堅く、ただ首の関節だけが普通の皮膚であった。長ずるにしたがい武勇に秀れ、弓矢に当っても傷つかず、今帰仁按司となり、名を大舜と言った。大舜は舜天の兄で、当時、利勇北山を攻めると、戦い利なきゆえ、密使をもって大舜の鬚剃をさせ、首の柔らかい所を知って誅したという。また利勇が、してやったりと北山を攻めると、大舜の城門に立って麦飯を食する様子を見て、驚いて退散した。これは大舜を墓より出して、支えて立てたところ、蛆虫が口中いっぱいあって、これを遠方より見ると、まるで麦飯を食するように見えた。「生きて千人、死して千人」とは大舜のことをいうと伝える。(『今帰仁村史』)
沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村宜野座~チョウフグン親方の母は金武御殿(キンウドン)の娘であったが、夫がないまま妊娠したので、流産しようと鉄くずを飲んだ。それでも生まれたのがチョウフグンで、首以外の体が鉄でできていた。ヒトゥトゥングー(一鍬)と呼ばれる森は、チョウフグン親方が、鍬三本をいっぺんに打ってできたものという。薩摩が攻めて来たとき、チョウフグン親方に、海岸で千人も殺されて退却した。薩摩は、理髪屋を利用して、チョウフグン親方を殺した。親方は死ぬとき、理髪屋の足を引き裂いて、一つは西の海、一つは東の海に投げた。そして、再び薩摩が船で攻めてきたので、チョウフグン親方の死体に剣をもたせて海岸に立てておくと、口からは蛆虫が出ているのを見て、薩摩の兵たちは、チョウフグン親方が生ぎているとあわてて海に飛び込んで、大勢が死んだ。それで親方は、「生きて千人、死んで千人」と称された。(『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉)
沖縄本島・沖縄県国頭郡金武町~昔、金武間切の並里に、美しい娘がおり、巡視にこられた首里王が見染めて契りを込めた。娘はまもなく妊娠したが、百姓の娘が王の子を生むのはおそれ多いと鉄屑を煎じて飲んで流産しようとした。しかし、流産しないままに、月が満ちても生まれずにいると、ある日、お腹の子が、わたしを生むと、お母さんの命がないが、それでも生むかと言うので、母は、わたしは死んでもよいから生まれよと答えた。子どもは母のお腹を引き裂いて生まれ、母は死んだ。その子は全身鉄でできていて、成長するとたいへんな力持になり、十人がかりでやる仕事を一人でやりとげて村人を驚かした。金武の億首橋近くのヒルギ田原(約一万坪)を、半日で耕したと言い、その中にあるチュウクェームイ(一鍬森)は、一鍬ででぎたものだという。この男は武術にも秀れ、ギミンノヘイカと敬まわれた。尚寧王のとき、薩摩が沖縄を攻めたとき、金武ではギミンノヘイカが総指揮官となり、億首の要害で敵を迎え討った。そのとき、敵の首を億も切り落としたということで、この地は億首と名づけられた。薩摩軍の戦死者を葬った所をヤマトンチュウ墓と言って億首の西方にある。ギミンノヘイカの力に悩まされた薩摩軍は、一計を案じ、理髪屋を誘って、鉄のない喉元を掻き切らせた。ギミンノヘイカは、最後の力をふりしぼって、理髪師の両股を引き裂いて、一方の片脚を東の海、他方の脚を西の海に投げ付けた。沖縄の東と西の海がゴウゴウと鳴るのは、彼の怒りの余韻だと言われている。ギミンノヘイカが死んだので、大丈夫だと薩摩が再び攻撃してきた。村人は彼の死体を戦いの前線に押し立てると、その死体の口からは蛆虫が湧いており、それを見て敵は、ギミンノヘイカはまだ生きていて、ハチャグミを食べていると思い込み、恐れをなして戦意を失い自決してしまった。それで「生きて千人、死して千人」ということばが残った。ギミンノヘイカの墓は、ヒルギ田の東の森にあり、毎年の清明祭には、その子孫と言われるシチャラン小の門中が拝んでいる。(『金武町誌』)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~母親が不義の子を身籠もったので、流産させようと鉄を煎じて飲むと、身体が刀でも切れない鉄で出来た子が生まれ、チョウフグン親方と呼ばれる豪傑になる。薪を取りにやると、道具を使わないで、木を根こそぎ引き抜く力持ちだった。薩摩が沖縄と戦争をするとき、チョウフグン親方がいては勝てないので、家来に賄賂を送り、親方の髭を剃るとき、身体でただ一箇所だけ鉄になっていない喉を剃刀で切って殺させる。また、薩摩から攻めてぎたが、内臓は朽ち果てても、身体や手足は鉄なので、その死体を首里城の門に立てると銅像のように立つ。薩摩の軍はチョウフグンが生きて番をしていると思ったので、どうすることも出来なかった。それで、チョウフグン親方は「生きていて千人、死んで千人」といわれた。(『喜名の民話』読谷村民話資料2)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村長浜~チョウフグン親方は、鉄の身体で生まれ、武勇の達人になる。薩摩が攻めてくると千人の軍勢を殺す。それで、薩摩は、親方を殺そうとして、断髪屋に頼む。断髪屋は、髭剃りのときに、喉の肉にカミソリを立てて殺す。親方は、その断髪屋の足を裂き、一つの足は南の海に、一つの足は北の海に投げる。それで南の海が鳴るときには風がにぶり雨が降るようになる。薩摩は、チョウフグンが死んだと聞いて、薩摩から攻めて来ると、琉球ではチョウフグン親方の死体を墓から出して立てる。その口からポロポロ蛆が落ちると、薩摩の軍に琉球の武士達が、「親方は、ハチャグミ(おこし)を食べている」というと、もう帰ることができないとみな切腹して死ぬ。それで、チョウフグン親方は、「生きて千人、死んで千人」といわれる。(『長浜の民話』読谷村民話資料3)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村儀間~昔、侍の娘が不義の子を身ごもったので、降ろそうとして鉄を煎じて飲んだが流産できなかった。月が満ちて生まれた子は、全身が鉄で覆われており、顔と首だけが普通であった。成長して大武士となり京波根親方と称され、戦いの大将となって活躍した。敵は親方がいてはかなわないとて、散髪屋を誘って、剃刀で喉を刺し切らせた。すると親方は、散髪屋の股を引き裂いて、右足を東の海、左足を西の海に投げつけて死んだ。再び戦さが始まり、親方側では墓から親方の死体を出し、これを押し立てると、口から蛆虫が出ているのを敵が見て、親方は生きていて、ハチャグミを食べていると恐れおののき戦わないで切腹した。それで親方は「生きて千人、死んで千人」と言われた。(『儀間の民話』読谷村民話資料5)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~チョウフグン親方の母親は、嫁にも行かず、不義の子を身ごもったので、おろそうとして鉄屑を煎じて飲んだが、流産しないで、子どもを生んだ。これがチョウフグン親方で、この子は生まれるべき所から生まれないで、お腹を切って生まれた。親方の体は、鉄でできていたので、鉄砲玉があたっても死ぬことがなく、いつも敵を負かした。親方が死んだ後、戦さがおきたときは、親方の死体を墓から出して、押し立てると、口から蛆虫の出ているのを見て敵は、チョウフグン親方は生きていてハチャグミを食べていると言って逃げた。(『宇座の民話』読谷村民話資料6)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~チョウフグン親方の母親は、不義の子をみごもって、鉄屑を煎じて降ろそうとしたが、流産しないで、男の子を生んだ。これがチョウフグン親方で、母親の陰部から生まれず、腹を打ち破って生まれたので、母親は死んでしまった。その体は鉄で包まれていたので、戦さに強く負けることがなかった。薩摩も、このチョウフグン親方に手こずって、女を使って、喉を剃刀で掻き切って殺させたという。(『渡慶次の民話』読谷村民話資料7)
沖縄本島・沖縄県那覇市繁多川~本土から沖縄に千人の軍勢が攻めて来たとき、体が金属でできているチョウフグン親方が、皆殺しにしてしまう。本土の人から金を貰った理容師が、そこだけ金属でないチョウフグン親方の喉を突き刺した。親方は、理容師の足首をつかまえ、体を二つに引き裂いて、一つは東の海、一つは西の海に投げてから死んだ。親方が死んだという噂で、本土からまた千人が攻めて来た。首里城では、親方の死体を墓から引き出して、那覇の港に向けて立たせた。攻めて来た敵は、親方の口から蛆が湧いているのを遠くから見て、ハチャグミ(餅菓子)を食べていると思い、恐れて皆自害してしまった。それでチョウフグン親方は、「生きて千人、死んで千人」と言われた。親方は、生まれる前に母親が、ヌブシの玉を飲み込んだので、大きくなるにしたがって金属の体になったという。(『沖縄昔話資料』第一集)
沖縄本島・沖縄県那覇市寄宮~京阿波根は体が鉄で包まれていたが、一か所だけ鉄ではなく、薩摩が髪結に頼んで、剃刀で切って殺させた。戦いとなったので、墓から京阿波根の死体を出すと、敵は京阿波根の口に蛆が湧いているのを見て、ハチャ米を食べていると思って逃げた。(『那覇の民話資料』第三集真和志地区(2))
沖縄本島・沖縄県那覇市牧志~子をみごもった女の人が、おろそうとして鉄を煎じて飲んだが、流産しないで、鉄の体の子を生んだ。この子がチョウフグン親方で、だれでも負かす武術家になり、攻めてぎた薩摩もかなわなかった。この親方が死んでから、その噂を聞いて薩摩が再び攻めてきたので、その死体を墓から出して押し立てた。薩摩の兵は、死体の口から蛆の湧いているのを見て、チョウフグン親方は生きていたと恐れおののいて、皆喉を切ってしまった。それで親方は、「生きても千人、死んでも千人」と言われた。(『那覇の民話資料』第五集那覇地区)
沖縄本島・沖縄県島尻郡南風原町津嘉山~昔、武士の娘が妊娠したので、鉄を煎じて飲ませたが流産しなかった。臨月になったら、お母さんが生きるのと、わたしが生きるのとどっちがいいかと言うので、お母さんが死んだ方がいいと答えた。まもなく腹をかき切って生まれてきたが、その子は喉の部分以外は、体中が鉄でできていた。この人が成長して京阿波根親方となった。鹿児島が戦さを仕かけたが、親方相手ではどうにもならないので、理髪屋を誘って、親方の喉元を切りつけて殺させた。死んだという知らせで、再び戦さに押しかけたが、親方の死体の口から湧き出している蛆虫を見て、鹿児島の連中はハチャグミを食べていると見間違えて、京阿波根親方はまだ生きていたからどうにもならないと皆切腹した。それで親方は、「生きて千人、死んで千人」と言われた。(『ふるさとの民話 南風原町』第一集)
沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村諸見~母親が遊び子で、身ごもったので、降ろそうとして鉄屑を煎じて飲んだが、流産しなかった。その生まれた子は、喉元のところ以外は、鉄の皮を張っていたので、成長するとたいへん強い男になった。薩摩が攻めても、これにはかなわなかったので、鬚剃をだまして、男の喉元を切って殺させた。再び薩摩が攻めて来たので、この男の死体を立てると、口から蛆虫が湧いているのを敵は遠くから見て、男がハチャ米をかんでいると言って逃げて行った。それでこの男は、「生きて千人、死んで千人」と言われた。(『いぜな島の民話』)


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す〜み〜サン。はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

首から上だけが、なぜ人間らしい? たしかに~。

でも、す〜み〜サン、僕、そこで考えたんだけれども、
逆にもし、首から上が鉄で出来ていて、下が人間だと・・・・・・。

性格、思考、固そう~(笑)。そうとう頑固者?(笑)。頭、重いだろうなぁ~。

ギリシャ神話に、動物と人間が混ざった神は、よく出てくるけれども、
金属と人間の組み合わせは、デージ少ないバ~ヨ~。

ああ、でも、鉄の女という比喩の言葉、あるなぁ~。
あれ? 鉄の男って、聞いたことがないぞ? やっぱり男はだめか?
いや、男の名前には、よく「鉄」が入ってたりするなぁ。

いずれにしても、血の中に、鉄分は、いっぱい。
まんざら、体が鉄でできても、不思議でないといえばないなぁ~。

コメント、ありがとう。では。

追伸
次の作品、長すぎて、死ぬかと思いました~。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年01月23日 22:33


ひがサン、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

一人の人間が、生まれて、死んでいきました。

そして、その人の生きざまが、
こうした民話となって、先祖から、子孫へと、伝わってきました。

まったく、この民話を書いた人は、凄いと思います。

コメント、ありがとうございました。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年01月23日 21:55


体が鉄で出来てたならそりゃ強かったんでしょうね(°□°;)

時代によっては王様になれたかも。
Posted by 昆布山葵 at 2011年01月23日 20:03


書いた人 凄い
Posted by ひが at 2011年01月22日 12:33


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

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