みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~
奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第81話。
むかし
それまで三つに分かれていた沖縄本島を統一して、
言い伝えによると
そんなある
「こんな
すると、
「
しかしもしかすると、
それからというもの、
すると、
そしていよいよ、本当に
すると
そして
こうして、
※この話の参考とした話
①高木~「長者の城跡」・柳田~「長者屋敷」
②沖縄県島尻郡伊平屋村字前泊~「昭和五四年度 沖縄国際大学口承文芸研究会伊平屋調査草稿」
③沖縄本島・沖縄県具志川市米原~『ふるさとの昔ばなし 具志川市の民話』(一)
④沖縄本島・沖縄県島尻郡伊平屋村~『伊平屋村史』
⑤沖縄本島・沖縄県島尻郡伊平屋村島尻~「奄美・沖縄民間文芸研究」十一号
Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.
●伝承地
①高木~「長者の城跡」・柳田~「長者屋敷」
②伝承地~沖縄県島尻郡伊平屋村字前泊~この屋蔵大主はですね、沖縄の第一尚巴志のお祖父さんにあたって、伊平屋島の我喜屋に永住して、そして、非常に農業に熱心されて、この豊作のときには蔵をですね、一つひとつ作って、その豊作のときには、みなその蔵に蓄めて、その蔵がおわったらまた次の蔵を作ってそれに貯えて、そういう順序を経て、八つの蔵のいっぱいつまったところ、非常に飢饉が生じまして、そのときに農民は困って、「屋敷の蔵から、なんとか出来ないか」ということをやったけれども、屋蔵大主はですね、「まだまだ今は大丈夫でしょう。まだ飢饉があるから」と言っていると、そして、いよいよもうせっぱつまって、一家死ぬかの立場になったところに、蔵を一つひとつ開けて、一般の農民に配けてあげた。そして、全部の蔵を開放してあげて、住民の非常な苦しい立場を救って、それで、あだ名を屋蔵大主と名をつけたそうであります。そして、その骨はですね、まだ、伊平屋のハイフという崎のところに、骨を祭ってあるそうであります。おわり。(「昭和五四年度 沖縄国際大学口承文芸研究会伊平屋調査草稿」)
③沖縄本島・沖縄県具志川市米原~伊平屋の王(後の尚巴志の父親)は、旱魃で作物も全部枯れ困っている島の人達に、倉にしまってある食べ物を分け与えていた。また魚を捕るのがうまかったので、漁に出て、魚も配布した。しかしその分け前に不満を持った村人は、王を殺して倉の物を奪い取ってやろうと考え、漁からの帰りを待ち構えていた。彼が帰って来る時、神様が現れ「島には帰らず、舟で西に向いている島を探しなさい」と告げた。彼が逃げた村が佐敷であった。そこの按司の娘を妻にし、大勢の子供ができた。その中の一人が尚巴志である。彼は体は小さいが大変な力持ちだったという。(『ふるさとの昔ばなし 具志川市の民話』(一))
④沖縄本島・沖縄県島尻郡伊平屋村~屋蔵大主は、天孫子の子孫で、英祖の五男、島尻世主大里按司の三男、上与座按司の次男である。英祖王の四代目の玉城王の時代になって、王が酒と女に溺れたため、国中が乱れて、中山、北山、南山が対立するようになった。そのため上与座按司は、兄の南山の大里按司から玉城王をいさめるように進言した。兄の大里按司はこの進言を怒って上与座按司を殺害した。上与座按司の次男の屋蔵大主は、伊平屋島の我喜屋が上里村にあった頃、伊平屋に渡って上里に耕地を求めて住み、八つの高倉を建てて穀物を蓄え、その地を屋蔵敷地と唱えた。屋蔵大主は、二男、三女を生み、長男は鮫川大主、次男は上里按司、長女は我喜屋親祝女、次女は我喜屋祝女になった。
その後も力を強めた屋蔵大主は、伊是名城に城を築き、鮫川大主を城主として、伊是名島を統治させた。屋蔵大主は、伊平屋の地を次男の上里按司に継がせ、死後は我喜屋のヤクラ海岸の洞窟の屋蔵墓に葬られた。(『伊平屋村史』)
⑤沖縄本島・沖縄県島尻郡伊平屋村島尻~屋蔵大主は、首里から派遣されて、この島に来て、我喜屋に稲を作らせた。苗は失敗したが、マカーという草を混えて植えると豊作になった。稲はでぎないと申請していたのに、首里から調べに役人が来るというので、家を造って、稲を皆刈り取り、それを隠した。それで屋蔵大主と祀られるようになった。(「奄美・沖縄民間文芸研究」十一号)
①高木~「長者の城跡」・柳田~「長者屋敷」
②伝承地~沖縄県島尻郡伊平屋村字前泊~この屋蔵大主はですね、沖縄の第一尚巴志のお祖父さんにあたって、伊平屋島の我喜屋に永住して、そして、非常に農業に熱心されて、この豊作のときには蔵をですね、一つひとつ作って、その豊作のときには、みなその蔵に蓄めて、その蔵がおわったらまた次の蔵を作ってそれに貯えて、そういう順序を経て、八つの蔵のいっぱいつまったところ、非常に飢饉が生じまして、そのときに農民は困って、「屋敷の蔵から、なんとか出来ないか」ということをやったけれども、屋蔵大主はですね、「まだまだ今は大丈夫でしょう。まだ飢饉があるから」と言っていると、そして、いよいよもうせっぱつまって、一家死ぬかの立場になったところに、蔵を一つひとつ開けて、一般の農民に配けてあげた。そして、全部の蔵を開放してあげて、住民の非常な苦しい立場を救って、それで、あだ名を屋蔵大主と名をつけたそうであります。そして、その骨はですね、まだ、伊平屋のハイフという崎のところに、骨を祭ってあるそうであります。おわり。(「昭和五四年度 沖縄国際大学口承文芸研究会伊平屋調査草稿」)
③沖縄本島・沖縄県具志川市米原~伊平屋の王(後の尚巴志の父親)は、旱魃で作物も全部枯れ困っている島の人達に、倉にしまってある食べ物を分け与えていた。また魚を捕るのがうまかったので、漁に出て、魚も配布した。しかしその分け前に不満を持った村人は、王を殺して倉の物を奪い取ってやろうと考え、漁からの帰りを待ち構えていた。彼が帰って来る時、神様が現れ「島には帰らず、舟で西に向いている島を探しなさい」と告げた。彼が逃げた村が佐敷であった。そこの按司の娘を妻にし、大勢の子供ができた。その中の一人が尚巴志である。彼は体は小さいが大変な力持ちだったという。(『ふるさとの昔ばなし 具志川市の民話』(一))
④沖縄本島・沖縄県島尻郡伊平屋村~屋蔵大主は、天孫子の子孫で、英祖の五男、島尻世主大里按司の三男、上与座按司の次男である。英祖王の四代目の玉城王の時代になって、王が酒と女に溺れたため、国中が乱れて、中山、北山、南山が対立するようになった。そのため上与座按司は、兄の南山の大里按司から玉城王をいさめるように進言した。兄の大里按司はこの進言を怒って上与座按司を殺害した。上与座按司の次男の屋蔵大主は、伊平屋島の我喜屋が上里村にあった頃、伊平屋に渡って上里に耕地を求めて住み、八つの高倉を建てて穀物を蓄え、その地を屋蔵敷地と唱えた。屋蔵大主は、二男、三女を生み、長男は鮫川大主、次男は上里按司、長女は我喜屋親祝女、次女は我喜屋祝女になった。
その後も力を強めた屋蔵大主は、伊是名城に城を築き、鮫川大主を城主として、伊是名島を統治させた。屋蔵大主は、伊平屋の地を次男の上里按司に継がせ、死後は我喜屋のヤクラ海岸の洞窟の屋蔵墓に葬られた。(『伊平屋村史』)
⑤沖縄本島・沖縄県島尻郡伊平屋村島尻~屋蔵大主は、首里から派遣されて、この島に来て、我喜屋に稲を作らせた。苗は失敗したが、マカーという草を混えて植えると豊作になった。稲はでぎないと申請していたのに、首里から調べに役人が来るというので、家を造って、稲を皆刈り取り、それを隠した。それで屋蔵大主と祀られるようになった。(「奄美・沖縄民間文芸研究」十一号)
コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。
「琉球沖縄の伝説・沖縄本島編」 新着20件 → 目次(サイトマップ) 設置方法 |