みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第82話。


佐敷(さしき)小按司(こあじ)(尚巴志王(しょうはしおう))



 むかし(むかし)のお話です。
 佐敷(さしき/さしち)小按司(こあじ)という按司(あじ/あんじ)がおりました。
 ある(とき)母親(ははおや)から(わら)一本(いっぽん)(もら)いました。
 小按司(こあじ)(わら)()って、味噌屋(みそや)(まえ)(とお)()かりました。
 (むかし)味噌屋(みそや)は、味噌(みそ)()(つつ)んで(わら)()めていました。
 調度(ちょうど)(みせ)(わら)が一本()りなくなって(こま)っていたところでした。
 小按司(こあじ)(わら)をくれるようにとお(ねが)いされて、自分の(わら)味噌(みそ)とを交換(こうかん)する事になりました。
 小按司(こあじ)は、()でくるまれた味噌(みそ)()って、また(ある)()しました。
 やがて、ナービナクーという(なべ)修理(しゅうり)する(ところ)(まえ)(とお)(かか)かりました。
 この(ころ)(なべ)(なお)すのに味噌(みそ)使(つか)われていましたが、調度(ちょうど)味噌(みそ)()れてしまったところでした。
 小按司(こあじ)はお(ねが)いされて、味噌(みそ)(なべ)(つく)るための(てつ)を、交換(こうかん)する事になりました。
 小按司(こあじ)は、(てつ)()って(ある)()しました。
 そして、鍛冶屋(かじや)の前を(とお)(かか)かりました。
 その(とき)鍛冶屋(かじや)では、丁度(ちょうど)小刀(こがたな)(つく)っているところで、地金(じがね)(はがね)をつけ()わせるための、地金(じがね)がなくなって(こま)っているところでした。
 小按司(こあじ)は、(てつ)(ゆず)ってくれるようにとお(ねが)いされました。そして言われたのは、待っていれば小刀(こがたな)二本(にほん)(つく)るので、出来(でき)一本(いっぽん)をくれるという(もう)()で、それなら(かま)わないと承諾(しょうだく)したのでした。
 (あま)()ぎもしないのによく()れる小刀(こがたな)を手に()れ、それを()った小按司(こあじ)は、(ある)()しました。
 やがて、与那原(よなばる)(みなと)(とお)(かか)かりました。
 唐船(からふね/とうせん/とうしん)碇泊(ていはく)していて、出航(しゅっこう)したいのに(いかり)()がらず、(こま)っているところでした。
 小按司(こあじ)はお(ねが)いされて、小刀(こがたな)(きん)屏風(びょうぶ)交換(こうかん)する事になりました。
 こうして、(きん)屏風(びょうぶ)小按司(こあじ)は、(いえ)()(かえ)ったのでした。
 しばらくすると、素晴(すば)らしい屏風(びょうぶ)小按司(こあじ)(いえ)にある事を、南山王(なんざんおう)(みみ)にしました。
 (おう)は、(しろ)(きん)屏風(びょうぶ)()きたいと(おも)っていたところだったので、(ゆず)っては(もら)えないかと、小按司(こあじ)使者(ししゃ)()てられました。
 そして使者(ししゃ)(もど)って()ましたが、一緒(いっしょ)小按司(こあじ)(きん)屏風(びょうぶ)()って、やって()たのでした。
 一目(ひとめ)()るなり、(きん)屏風(びょうぶ)をすっかり()()った南山王(なんざんおう)は、()わりに(なに)()しい(もの)があるかと、小按司(こあじ)(たず)ねました。
 すると、小按司(こあじ)が答えることには、
与座井戸(よざがー)交換(こうかん)して(くだ)さい。」と。
 こうして、与座井戸(よざがー)という井戸(いど)は、それから小按司(こあじ)のものになりました。
 当時(とうじ)田畑(たはた)必要(ひつよう)だったのは勿論(もちろん)のこと、周辺(しゅうへん)(おお)くの人々(ひとびと)()らしは、与座井戸(よざがー)(みず)()()っていました。小按司(こあじ)のお(かげ)でそれからは、南山王(なんざんおう)(ゆる)しがなくても使えるようになりました。
 それから(のち)のことです。
 後継(あとつ)ぎがないまま南山王(なんざんおう)()くなり、(だれ)(つぎ)(おう)にするかという話になりました。
 人々(ひとびと)(みな)(くち)(そろ)えて、佐敷(さしき)小按司(こあじ)以外(いがい)(つぎ)南山王(なんざんおう)相応(ふさわ)しい人物(じんぶつ)はいないと()いました。
 こうして佐敷(さしき)小按司(こあじ)は、南山王(なんざんおう)となり、南山(なんざん)はやがて、中山(ちゅうざん)北山(ほくざん)をも()(ほろ)ぼして沖縄本島が一つとなって、琉球國(りゅうきゅうこく/るーちゅーくく)建国(けんこく)されたそうな。

  
※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県中頭部読谷村字長浜~『長浜の民話』読谷村民話資料3
沖縄本島・沖縄県島尻郡東風平町宜次~『こちんだの民話」上巻昔話編
沖縄本島・沖縄県島尻郡島尻~『島尻郡誌』
沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村松田~『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~『渡慶次の民話』読谷村民話資料7
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村~『玉城村誌』


Copyright (C) 横浜のtoshi All Rights Reserved.


●伝承地
沖縄本島・沖縄県中頭部読谷村字長浜~昔、佐敷の小按司という按司が居られたそうだ。その按司加那志は、親の譲りを取りたがっていた。女親の育てであっだが、母親は、また財産はなく、藁一本があった。母親が、「あなたは、譲りを取りたがるが、譲りというのはこれだから、早く取りなさい」と言った。佐敷の小按司は、「どうも有り難うございます」と藁一本を拝み取りした。そして、「もう親の譲りを取ってしまった」と安心した。
 それから、味噌屋へ行って、味噌屋の前に立った。もう昔の味噌屋は、紐の代わりに藁一本で包んだものだ。それで、藁で包もうとしたら、藁がなくなり、「あの子が持っている藁一本を貰えば」と言った。「これは親の譲りだから、上げる事は出来ない。でも、あの味噌となら交換して下さい」と言って、九年母くらいの僅かの味噌と交換した。それからまた味噌を持って歩き出した。ナービナクーといって鍋を修理する所の前に立った。そこは修理につける味噌がなくなったので、「あの童が持っている味噌を貰おう」と言った。「これは親の譲りだから、上げる事は出来ない。もしだめでしたらあの鍋の鉄と交換して下さい、鍋の鉄と換えて下さい」と言って、鍋を造る鉄と交換した。また、どんどん行くと鍛冶屋の前に立った。鍛冶屋は、地金と鋼を合わす地金がなくなった。そこで、「あの童が持っている鉄を貰おう」と言った。「これは親の譲りだから、ただで上げる事は出来ない。この鉄で切れる小刀を造ってください。一つは貴方達の物、もう一つは私に下さい」と。鍛冶屋が「そうするか」と言って、小刀を造ってやった。その小刀は、磨きもしないのにすごくよく切れる小刀になった。今度は、与那原に線香を積んで来た唐船がいた。港を出る時間になったが、錨が上がらずに、簡単には動かなかった。「あの童が、持っている小刀を貰え」と言った。小按司は、「ああこれは、上げる事は出来ない、親の譲りだから、あの金の屏風と換えて下さるなら」と言って、金の屏風と換えた。
 それから、小按司の家は汚かった。そのことを南山王が聞いて、「佐敷の小按司は、金の屏風を持っているとのことだが、あんな家に飾っても、何も値打ちもないから、小按司を呼んで相談して、その屏風は御城に飾ってはどうだ」と。そこの掟の頭達を佐敷の小按司のところへ相談しに行かせた。すると小按司は、「はあ、いかに王様であっても、このように臣下を苦しめてはいけません。これは、親の譲りだから、ただで上げる事は出来ません」と言うと、家来が、「でも王様のおっしゃることだから、一緒に王様の所へ行ってくれ」と頼んだ。それで南山城に、金の屏風を持ってやって来た。「おい小按司よ」「ハイサイ」「この金の屏風は、あなたの家に飾っては値打ちがないから、どうだこの御城に飾ってはどうか」と王様がおっしゃった。小按司は、「はあ、いくら王様でございましても、ただで上げるわけにはいきません」と言った。「私に望みがありますが、それと換えて下さい」「何だ、何の望みがあるか」「与座井戸と交換して下さい」「あの湧き出ている与座井戸とか、よしやろう」と金の屏風と与座井戸とを換えた。その後、「この与座井戸は私の物だ。ここから水を使用する者はいくら取る」と、看板を立てた。すると島尻郡の人々は、あの井戸から水を利用しないと、もうどうする事もできない。とうとう生活に不自由し困った。
その後、王様は後継ぎがいなくて、王様は、「今度の王様は誰に定めようか」と人民に訴えた。そこで島尻郡の人々は、「佐敷の小按司にしか、南山王はできない」と言った。それで南山王になられた。その後、また小按司さんは、「こんなに小さい琉球に三人の按司が立つのよくない」三山和睦と言うのは、あの方がおっしやった言葉だ。それで、南山の王位につき、中山を攻め落とし、また中山から、北山と。最後に自分は、臣下から中山の王になられた。(『長浜の民話』読谷村民話資料3)
沖縄本島・沖縄県島尻郡東風平町宜次~按司の娘が結婚しない内に子供が出来たので、洞窟で出産し子供を置き去りにして家に帰った。気掛かりで数日後そこに行って見ると、鷲がその子を温め、犬が乳をやっていた。それを見た母親は、ただの子ではないと連れて帰った。成人すると、母親は藁しべを与えた。子供はその藁しべを味噌と交換し、更に鉄と換えてそれで農具を作り、農業に精をだした。後に人柄も認められ、佐敷の小按司になった。(『こちんだの民話」上巻昔話編)
沖縄本島・沖縄県島尻郡島尻~和船の武士は尚巴志が武芸に優れていることを聞き試合を申し込むため、居城を訪れた。そこへ向かう道中、散歩に出ている尚巴志と会ったが、尚巴志とは知らず傲慢な態度で城への道を尋ねた。すると尚巴志は遠回りの道を教え、自分は間道伝いに先回りして待っていた。その時尚巴志が軽々と持ってきた火鉢は三百斤もあり、武士はそれを使おうとしたが、手前に引き寄せることさえ出来ず、恐れをなして帰ったという。(『島尻郡誌』)
沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村松田~病床にある母親は自分の死が近いことを悟り、子供に形見として藁束を渡した。そして、どうにか頭を使ってそれで食い繋いでいくようにと言った。(『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~ある子供が、親の遺産の藁を金と換え、そしてその金を小刀と換えた。その小刀を捻るだけで、自分の欲しいと思うものは何でも手に入った。それで得た物を売って大金持ちになった。(『渡慶次の民話』読谷村民話資料7)
沖縄本島・沖縄県島尻郡玉城村~昔、佐敷新里に大事に育てられた美しい娘がいた。丁度その頃、近在に鮫川大主を父とする苗代大屋という若者がいた。ふとしたことから二人は知り合い、幾度か会っている内、娘は妊娠したが、結ばれることが出来なかった。それで、娘は親慶原の天続城ガマという現在拝所となっている地で、ひそかに男の子を出産した。それが後の尚巴志である。(『玉城村誌』)


同じカテゴリー(琉球沖縄の伝説・沖縄本島編)の記事

この記事へのコメント・感想・ゆんたくはじめ、お気軽にお書き下さい。承認後アップされます。
す~み~サン、こんにちは。

さすが、す~み~サンです。
「藁(わら)しべ長者」、ご存じでしたね。

日本むかし話として、日本中でよく知られる、
「藁しべ長者」の、まさに沖縄版です。

藁しべ長者には、代えた物から、2つの型があるようです。

①藁しべ→アブが結び付けられた藁しべ→蜜柑→反物→馬→屋敷
②藁→蓮の葉→三年味噌→名刀→千両

沖縄では②の型というのが、また面白いところです。

屏風と泉を交換した話は、沖縄ではよく知られている話ですね。

まさに、す~み~サンがおっしゃる通り、
話によって、水の大事さを伝える意味も、強いと思います。
熊本や横浜と、島国では、水の価値が、もちろん違いますから。

平家の落人伝説は、もちろん奄美を含んだ九州は、特に多いですね。

す~み~サンの生々しい想像? ひぇ~、あきさみよ~
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年01月30日 02:11


沖縄版、藁しべ長者だ~~(#´艸`)プププ

屏風と、泉を交換した話は、
以前から知っていて、
水が大事な沖縄ならでは、だな~って思いながら、
読んでいました!

うちの田舎だったら、何と交換だったんだろう?
水は、豊富な地域だし、
だから、水はまず、ありえんだろうし。

平家の落人伝説が多々ある地域だから、
落人を差し出せ、
だったかもなぁ~なんて、
ちと、ファンタジーからかけ離れた、
生々しいことなど、想像しとりました(^^;;
Posted by す〜み〜☆ at 2011年01月29日 20:38


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

※TI-DAのURLを記入していただくと、ブログのプロフィール画像が出ます。もしよろしければ、ご利用下さい。(詳細はこの下線部クリックして「コメ★プロ!」をご覧下さい。)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
琉球沖縄の伝説・沖縄本島編」 新着20件  → 目次(サイトマップ)       設置方法