吉屋チルー ~琉球沖縄の伝説

2011年02月18日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(5)琉球沖縄の伝説・沖縄本島編

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~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第101話。


吉屋(よしや)チルー



 歴史的(れきしてき)有名(ゆうめい)琉歌(りゅうか)天才(てんさい)女流(じょりゅう)歌人(かじん)吉屋(よしや)チルーにまつわる、お(はなし)です。
 吉屋(よしや)チルーは、特別(とくべつ)上等(じょうとう)(つじ)尾類(ジュリ)遊女(ゆうじょ)で、(げい)(ひい)で、琉歌(りゅうか)()ませたら右に出る者はなく、(だれ)もが()べない高級尾類(ジュリ)だったと(つた)わります。
 ある(とき)、お(かね)()若者(わかもの)が、どうしても(うわさ)彼女(かのじょ)()いたいと、やって()ました。
 吉屋(よしや)チルーが、「(わたくし)は、これこれの値段(ねだん)ですが、貴方(あなた)()っていますか。」と(たず)ねたところ、若者(わかもの)は、「とてもそんなには、()っていません。」と()うなり、すっかり(くび)項垂(うなだ)れたのでした。
 その純朴(じゅんぼく)様子(ようす)吉屋(よしや)チルーは不憫(ふびん)(おも)って、せめてもと歌を詠んであげました。
 「一日(いちにち)五十文(ごじゅうもん) 百日(ひゃくにち)五貫(ごかん)ためて (わたくし)宿(やど)(しの)んでいらっしゃい。」、そう、琉歌(りゅうか)()んであげたそうです。
 若者(わかもの)は、そのまま()()(かえ)って()きましたが、それからというもの、昼夜(ちゅうや)()わず懸命(けんめい)(はたら)いて、百日(ひゃくにち)(あいだ)五貫(ごかん)という大金(たいきん)をこしらえました。
 若者(わかもの)は、そのお(かね)(たずさ)え、吉屋(よしや)チルーがいる遊郭(ゆうかく)へと出掛(でか)けて()きました。
 ところが(すで)に遅く、吉屋(よしや)チルーは(ひと)身請(みう)けされる事が決まったところで、もうお(きゃく)()らないと遊郭(ゆうかく)(ことわ)られてしまったのでした。
 若者(わかもの)が、吉屋(よしや)チルーの裏座(うらざ)出入(ではい)(ぐち)で、
 「一日(いちにち)五十文(ごじゅうもん) 百日(ひゃくにち)五貫(ごかん) ためてある(かね)は あだになるのだろうか」と琉歌(りゅうか)()みかけたところ、それを()いて心を打たれた吉屋(よしや)チルーが、(なか)から()()て、若者(わかもの)特別(とくべつ)()ばれたそうな。

 
※この話の参考とした話
沖縄本島・沖縄県那覇市久米町~『那覇の民話資料』第四集首里地区
沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村松田~『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~『喜名の民話』読谷村民話資料2
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村伊良皆~『伊良皆の民話』読谷村民話資料1
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村儀間~『儀間の民話』読谷村民話資料5
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村儀間~同上
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~『渡慶次の民話』読谷村民話資料7
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~同上
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~『宇座の民話』読谷村民話資料6
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~同上
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~同上
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~『瀬名波の民話』読谷村民話資料4
沖縄本島・沖縄県宜野湾市~『南島説話』
沖縄本島・沖縄県那覇市小禄~『那覇の民話資料』第六集小禄地区(2)
沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村諸見~『いぜな島の民話』


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●伝承地
沖縄本島・沖縄県那覇市久米町~吉屋チルーは、だれもかれもには呼ばれないほどのたいそうな遊女(ゆうじょ)尾類(ジュリ)だったようです。けれども金の無い青年が彼女に会いに来たので、「お金はいくらいくらだが、お前は持っているのか」と言うと、「持ってない」と。それで吉屋チルーは可愛相に思って、「一日五十文 百日に五貫ためて 私の宿に忍んでいらっしゃい」といって歌をうたったので、この青年はそのまま、泣く泣く帰って行ったようですが、それからいっしょうけんめい働いて、百日もの間にためて、五貫ものお金をつくったがもう、吉屋は、人に引かれてしまっていなかったので、それで、「一日に五十文 百日に五貫 ためてある金は あだになるのだろうか」といって、吉屋の裏座の入口でよんだので、吉屋が出て来て、それでよばれたという話もありますよ。(『那覇の民話資料』第四集首里地区)
沖縄本島・沖縄県国頭郡宜野座村松田~吉屋チルーの母親は早くなくなり、チルーは父親を助けて暮らしていたが、貧乏がつのって辻に売られた。ジュリアンマーは、チルーに父親の世話をみると約束しながら、苦しめてばかりいた。その後、チルーが死んだので、ジュリアンマーは後悔して、あやまりにチルーの墓に詣ると、墓の中から、一万貫で売られ、二万貫で買われ、死んでから墓に通って来られて何になるか、という歌が聞こえてきた。(『宜野座村の民話』下巻〈伝説編〉)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村喜名~チルーが初めに辻に売られて行く途中、比謝橋を通る時に、「恨めしい比謝橋は 誰がかけておいたのであろう 私を渡そうと思って かけておいたのだろうか」と詩ったそうだ。後にチルーは有名な詩人になった。(『喜名の民話』読谷村民話資料2)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村伊良皆~遊廓に売られたチルーが客をとる年頃になった時、抱え親が「今日の客を絶対に嫌がってはいけないよ」と念を押した。チルーが部屋に行ってみると、相手はライ病患者だったので、チルーは舌を噛み切って死んだという。(『伊良皆の民話』読谷村民話資料1)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村儀間~相手がライ病患者と知り、チルーは自殺した。大変な稼ぎ手を失った雇い主は後悔して、チルーの墓参りをした。すると死んだチルーが、「生きてる間は粗末にして、今更墓に通って何になる」という歌を返したそうだ。(『儀間の民話』読谷村民話資料5)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村儀間~チルーが遊廓から家に帰るとき、炭焼き爺さんがいた。そこで、その人の家でひと休みすることになったが、その時のやり取りは歌をもって行われた。帰り際、チルーが爺さんに、「貴方は天分のある方です。私は仲島の吉屋ですから、訪ねていらして下さい」と言った。後に爺さんが、鶏や野菜を担いで訪ねた時も、歌でやり取りし、家に上げたと言う。(同上)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~吉屋チルーは金は問題にせず、自分の歌に返し歌をする人に呼ばれたそうだ。(『渡慶次の民話』読谷村民話資料7)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村渡慶次~侍がお供を連れて吉屋の所へ行った。丁度お茶を沸かす薪を取りに外へ出たチルーは、外で待たされている供の者の歌を聞き、感心して、中の偉い人は外に出し、供の者に買われたということである。(同上)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~死んだチルーの遺骨を父と兄が受取に行った。その帰り道、歌を詠む声が聞こえる。二人は不思議に思っていたが、やがて甕の中のチルーの声であることがわかる。(『宇座の民話』読谷村民話資料6)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~御茶屋御殿を造ったとき、その造った人達はこの家をどのように名付けるか思案していた。すると、亡くなってヒーファーの中に入れられていたチルーが、歌を詠んでそれを教えたそうだ。(同上)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村宇座~歌を詠むのが上手な爺さんがいた。この人は女郎通いもしていたので、妻は歌を習わなければ、チルーに夫をとられるかもしれないと心配して歌の勉強をした。そして、夫とチルーと三人で歌比べをした。(同上)
沖縄本島・沖縄県中頭郡読谷村瀬名波~チルーが幼い頃、蝉が蟷螂に捕まっていた。可愛そうに思ってチルーが歌を詠むと、蟷螂は蝉を離したそうだ。また、玉飾りを作っている時、糸が切れてしまったので、「黒染めの糸が 今切れると思えば 百八の玉も通すことはなかったのに」と詠んだ。それ以来、玉飾りは百八個の玉で作るようになったという。(『瀬名波の民話』読谷村民話資料4)
沖縄本島・沖縄県宜野湾市~昔、ユシャという歌の上手なズリがいた。彼女が死んだのでその遺骨をカマスに入れて運ぶ途中、運搬夫が村芝居を見ていた。芝居が三線に和する歌の場面になると、みごとな声で歌われて、聴衆を感動させた。その美曲の歌い手を探すと、ユシャの遺骨を納めてあるカマスであった。(『南島説話』)
沖縄本島・沖縄県那覇市小禄~吉屋チルーの兄弟が、チルーの洗骨をすませて、その遺骨をもって山原へ帰って行った。その途中、お祭で見せ物があったので、兄弟は遺骨を木の枝に引っ掛けて見ていると、家の祝いの場面で、美しく建てた御茶屋御殿よ、という琉歌がみごとな声で歌われた。皆が、今の声は吉屋チルーの声だと言うので、兄弟は、その遺骨を木の枝に掛けていたことを伝えた。(『那覇の民話資料』第六集小禄地区(2))
沖縄本島・沖縄県島尻郡伊是名村諸見~歌よみで有名な吉屋チルーは、恩納の瀬良垣にすんでいたが、親が貧乏なので、那覇の辻に、ズリとして売られた。ズリアンマーが銭に目がくらんで、いやなお客をたくさんとらされたので、十九歳で命を絶った。ズリアンマ~が、悔やんで墓に参ると、墓の中から、生きているときに粗末に扱い、死んでから水を供えても役には立たぬ、という歌が聞こえてきた。(『いぜな島の民話』)

補足〜この吉屋(よしや)チルーこと17世紀の「よしや思鶴(おみつる)」と、恩納(おんな)ナビーこと18世紀の「恩納(おんな)なべ」の二人は、琉球の歴史上、琉歌(りゅうか)の二大天才(てんさい)女流(じょりゅう)歌人(かじん)とされる。チルーは琉球語「鶴」の事。「吉屋」という置屋の尾類(ジュリ)だった。「よしや」とだけの表記もある。彼女の伝記、平敷屋朝敏『苔の下』では「遊女よしや君」となっている。貧しい農民の娘として生まれ、8歳で那覇の仲島遊郭へ遊女として売られる。伝説では、よしやは遊郭の客「仲里の按司」と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられずなかったため、悲嘆にくれて食を絶ち、18歳で亡くなったという。また、仲里の按司との身分違いで一緒になれなかったから、とする話もある。

吉屋(よしや)チルーの歌

◯八歳の時に那覇の仲島遊郭へ売られてゆく途中、比謝橋で詠んだ歌
うらむふぃじゃばしや (恨む比謝橋や)
なさきねんふぃとぅぬ (情け無いぬ人の)
わみわたさとぅむてぃ (我身渡さと思て)
かきてぃうちゃら (架けて置きやら)

(訳〜恨めしい比謝橋よ。情けのない人が私を売り渡そうと考えて架けておいたのでしょう。)

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恩納(おんな)ナビーの歌

◯国王が北山巡視の途中、恩納間切の名勝「万座毛」に立ち寄った際、即興で詠んだ歌
なむんくいんとぅまり (波声止まれ)
かじぬくいんとぅまり (風声止まれ)
すいてぃんじゃなし (首里天(しゆりてん)加那志(ぎやなし)
みおんきおぅがま (美御(みおん)()(おが)ま)

(訳〜<この岬に打ち寄せる>波の音も静まりなさい、<松に響く>風の音も静まりなさい。首里天加那志前のお顔を、芳しいお顔を拝みましょう。)

◯清の副使節が北部巡察に訪れる際、番所の松の木の前の景勝地で、若者が毛遊びに興じるのを禁じる立札を役人が立てた時に詠んだ歌
うんなまちしちゃに (恩納松下に)
ちぢぬふえたちゅす (禁止(きじ)()立ちゆす)
くいしぬぶまでぃん (恋しのぶまでの)
ちぢやねさみ (禁止や無いさめ)

(訳〜恩納の松の木の下に何やら禁止の立て札が立ったというが、まさか男と女の忍ぶ恋まで禁ずるお触れ書きではないでしょうに。)

◯恩納節」(琉球舞踊古典)の歌詞となって首里王府で舞われ、皮肉にも王府の役人によって歌い継がれた歌
うんなだきあがた (恩納岳あがた)
さとぅがんまりじま (里が生まり島)
むるんうしぬきてぃ (森ん押し除きてぃ)
くがたなさな (此方なさな)

(訳〜恩納岳の向こうは<かつては同じ村だった>愛しい人が生まれた村。<引き裂いた>あの山さえも押しのけてこちらに引き寄せよう。)

◯その他
あちやからのあさて
(さと)番上(ばんのぼ)
たんちや越す雨の
降らなやすが



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笑い猫さん、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

こんにちは~。

吉屋チルー物語っていう映画があるんですねぇ。
ちっとも、知りませんでした。

吉屋チルーさんがすごかったのは確かです。笑い猫さんと同じです。
では。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年02月20日 07:36


SUZUさん、こんにちは。

琉球国時代の、琉歌の天才的女流歌人が、二人いました。
「ナビー」の名で有名な「恩納ナベ」と、「吉屋チルー」です。

二人とも、生涯が謎に満ちているため、色々な逸話もあるわけです。

その一方で、一般的にいわれる、二人の琉歌の傾向はこうです。
恩納ナベ・・・・・・・・・ひたむきで素朴な愛、雄大な自然を詠う
吉屋チルー・・・・・・・技巧に富む悲恋を詠う

お金ですが、時代によって、物価は常に変動するので、難しいんです。

江戸時代も、初めから終わりに向かって、貨幣の価値は下がっていきました。
さらに、その過程で、絶えず変動しました。

あくまでテーゲーに、江戸時代平均の、銀の計算でいくと、
550万円位かなあ。

※左の「私が大好きなブログ」の下の方に(下から4番目)、
「☆江戸時代と今との換算~
金銭物価や長さや重さ換算」を、追加しました。

コメント、ありがとうございます。
Posted by 横浜のtoshi横浜のtoshi at 2011年02月20日 07:17


toshi さんこんにちは

吉屋チルー物語の内容は、あまり詳しく知りませんでしたけど、

その、名前は有名なので、知っていました。

その当時の、五貫のお金は、現在の金額にすると、どの位の値なるのでしょ

うかね~

チルーさんの悲しい思は、琉歌として、残っているんですね!

そうですよね、生きている時に、大切にしてほしいです!
Posted by SUZUSUZU at 2011年02月19日 14:23


仲本勝男様、はいさい、今日(ちゅう)拝(うが)なびら。

吉屋チルーの話は、不思議と色々ありまして、
かなり昔から、芝居や演劇で人気があるためでしょうか、
同じ話でも、少し内容が違ったりするのが、また楽しみです。

そうですか、お母様との思い出が蘇りましたか。
それだけで、書いた甲斐がありました。ありがとうございます。

私の苦労など、苦労のうちには入りません。
ただ座って、書いているだけなので、
仲本さんはじめ、他の方に比べれば、遊んでいるようなものです。

私こそ、重ね重ね、有難うございます。

仏のような山ですが、何とも言えない、
まるで生きているがごとき顔で、なかなかです。
石垣の旅、引き続き、お楽しみ下さい。

コメントありがとうございます。
横浜にいながらにして、石垣を旅しているような気分になれるなんて、
まったく幸せです。では。
Posted by 横浜のtoshi at 2011年02月19日 03:46


吉屋チルーの芝居は昔母と何回となく見ました。
いろんなエピソールに触れると昔の事が浮かんでまいります。
いろんな苦労をなさりながらtoshiさん書き綴っているのですね。
本当に時間をおかけして有難うございます。ただで教えていただき感謝申し上げます。重ねて有難うございます。
Posted by 仲本勝男仲本勝男 at 2011年02月18日 22:06


コメント以外の目的が急増し、承認後、受け付ける設定に変更致しました。今しばらくお待ち下さい。

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