力石 ~琉球沖縄の伝説

2011年02月28日

Posted by 横浜のトシ(爲井) at 20:20│Comments(0)琉球沖縄の伝説・奄美編

みんなで楽しもう!
~琉球沖縄の、先祖から伝わってきたお話~

奄美・沖縄本島・沖縄先島の伝説より、第111話。


力石(ちからいし)



 むかし(むかし)のこと、奄美(あまみ)喜界島(きかいじま)の、荒木王(あらきおう)城久王(ぐすくおう)(ちから)(きそ)いました。
 荒木村(あらきむら)は、(うみ)(ちか)いために(さかな)がよく()れて、一方(いっぽう)城久村(ぐすくむら)(みず)豊富(ほうふ)高台(たかだい)にあるために(こめ)がよく収穫(しゅうかく)できました。(ふた)つの(むら)は、(こめ)(さかな)をよく交換(こうかん)していましたが、(うみ)時化(しけ)れば(りょう)出来(でき)ず、旱魃(かんばつ)()これば(こめ)不作(ふさく)になります。そんな(とき)には、物々交換(ぶつぶつこうかん)が、うまくいかなくなりました。
 そんなある()のこと、二人(ふたり)(おう)は、それぞれの(むら)から相手(あいて)(むら)に、(おお)きな(いし)()()って、力比(ちからくら)べをすることになりました。
 城久王(ぐすくおう)()げた(いし)は、荒木村(あらきむら)()(なか)()ちましたが、荒木王(あらきおう)()げた(いし)城久村(ぐすくむら)まで(とど)かず、(むら)手前(てまえ)()ちました。
 城久王(ぐすくおう)最初(さいしょ)自分(じぶん)()ったと(おも)いましたが、荒木王(あらきおう)が、(たか)(ところ)から(ひく)(ところ)()げた(ほう)が、(いし)(とお)くに()ちるのは()たり(まえ)だと()いました。それを()いた城久王(ぐすくおう)は、(たし)かにそれはそうだと納得(なっとく)し、二人(ふたり)(おう)仲直(なかなお)りして、結果(けっか)()()けにしようという(こと)になりました。
 荒木村(あらきむら)力石(ちからいし)は、その()宝物(たからもの)として(のこ)り、(むら)若者達(わかものたち)がガジュマルの()(した)で、この力石(ちからいし)(もち)()げては、よく力比(ちからくら)べをしたそうです。そしてその(いし)()げられないうちは、一人前(いちにんまえ)青年(せいねん)として(みと)められなかったそうです。
 (なお)、この(いし)(たか)()()げて、どすん、どすんと(ひび)くように大地(だいち)(おと)すと、豊作(ほうさく)(つづ)いて(むら)繁栄(はんえい)するとも、()(つた)えられてきたそうな。

 
※この話の参考とした話
柳田~「力石」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町荒木~『喜界島の民俗』
奄美・大島郡喜界町伊砂~『喜界島の民俗』


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●伝承地
柳田~「力石」
奄美・鹿児島県大島郡喜界町荒木~昔話によると、城久王と荒木王が力くらべをしたとき、城久王が、城久から投げてよこした石であった。青年たちは、夕食後、ときどき遊び場に集って、その石で力くらべをした。その石が上げられないうちは青年仲間に入れられなかったという。また、この石を高く持ち上げてどすん、どすんと大地に落すと豊年が続いて、村が繁昌するともいわれた。(『喜界島の民俗』)
奄美・大島郡喜界町伊砂~昔、長嶺のヒイネンが力くらべをしようと、伊砂へ行くと、インマビチは大城久へ行ぎ留守だった。ヒイネンは怒って、村の人たちへ当たりちらした。急報でこのことを知ったインマビチは、付近にあった石をヒイネンのいる村の広場へ二つ投げた。ヒイネンはこれに驚いて長嶺に逃げ帰った。もとは、この石は二つあったが、一つはなくなった。青年の力石であった。(『喜界島の民俗』)


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